2015年12月23日水曜日

スペイン語教科書 IDEAL完成! 



スペイン語教科書「IDEAL」(同学社)がとうとうできました! 第二外国語でスペイン語を勉強する、ごくフツーの大学生を対象とした教科書です。
「一緒に教科書を書きませんか?」と2年前に声をかけられて、安請け合いで引き受けたものの、書きます、書きますと言いながら、なかなか原稿を書けず、共著者に本当に苦労をかけました。最後は、互いの家に泊まりあっての作業にもなりました。

IDEAL (理想的な)などという、大それた名前は、「なるべく簡潔でいいやすい、できたら1語の名前を」という編集者からの要望を受けて、最後の最後に決めたものです。

表紙とたくさんのカットを描いてくれたのはおくやまゆかさん。私の訳書『ふたりは世界一!』の挿絵を描いてくれた方です。「こんなイラストがあったら、開きたくなるよね!」という絵がいっぱいで、感謝、感謝です。このおくやまさん、先月末には『たましいいっぱい』で、文化庁メディア芸術祭マンガ部門の新人賞を受賞という、うれしいニュースも飛びこんできました。
下記に、案内用に書いたレターを添付します。
今は、できてうれしいばかりですが、来年、使った大学生や先生からの感想などをもらえたらうれしいなあと思っています。

* * * * * 

2015年12月


 このたび、大学用スペイン語教科書『IDEAL』を上梓いたしました。よろしくご高覧いただければ幸いです。
 第二外国語の授業を担当する教師は、いつでもたくさんの課題をかかえていることと思います。どうやってモチベーションを保たせられるか、どうすれば混乱させずに基礎を身につけさせられるか、どうすれば受け身ではなく主体的に、もっと学びたい、表現したい、スペイン語圏について知りたいと思ってもらえるか――そんなことを考え考え作った教科書です。理想どおりにできたかどうかはわかりませんが、いくつかの新味のある、感じのよい本になったかと思います。

 次に、特長と、執筆の際に意図したことを、かいつまんで説明させてください。
 各課4ページの本課と、ステップアップ文法と称する、2課ごとのまとめのページの構成です。12課の本課を学ぶだけでもかまいません。ステップアップ文法のページはオプションとして、時間数や学生の力を見て使用するよう考えています。
 文法ページで工夫したのは、重要表現を「キーフレーズ」としてとりだし、単純な置き換え練習等で定着できるようにしたこと、赤字を用いてポイントをつかみやすく示したこと、文法ページの例文の直接目的語、間接目的語をそれぞれ波線と点線で示して、自動詞と他動詞の違いを意識させるようにしたこと、イラストを用いて基本語彙を楽しく印象づけられるようにしたことなどです。
 練習問題には、ペアワークやリスニングも取り入れて、耳や口を使って学べるよう配慮しました。ネイティブ講師と使用しやすいように、文法事項や練習問題の問題文は、スペイン語を併記してあります。
 スペイン語圏全体に興味を持ってもらえるよう、カラー写真を多数載せ、「異文化リテラシー」のコーナーで、文化や習慣、日本との違いなどを解説し、関連した本や映画の紹介も載せました。相手を知ろうとする態度を大切にしています。
 それに、私たちがとても気に入っているのはイラストです。学生たちが、おもしろがって手にとり何度も開いてくれたら、しめたものと思っています。

 来年度の授業での使用をご検討いただければ、また、ご興味がおありの方に、ご紹介いただければ幸いです。ご意見などありましたらお寄せください。どうぞよろしくお願い申し上げます。

宇野 和美     
平井 素子     
パウラ・レテリエル 





2015年11月28日土曜日

今すぐ読みたい! 10代のためのYAブックガイド150!


監修:金原瑞人/ひこ・田中 ポプラ社 2015年11月刊

「私たちが作っている本は、読者の手に届いているのだろうか?」
「届かないと意味がない」「どうしたら届くのだろう?」「何かできることはないのか?」…などなど、本を送り出す側にいる者として、そんなことを日々もんもんと考えていますが、こういうブックガイドが出るのは、本当に心強くうれしいことです。

特徴的なのは、まずは執筆陣。普段から子どもの本の本の紹介に携わっている方に加えて、普段大人の本の書評を書いている方、作家さん、フレッシュな書店員さんなど、さまざまな方がさまざまな視点から紹介しています。だから、集まった本も、これぞYAというものもあれば、背伸びをしてYAを読んでみようと人によさそうなもの、大人の文学への橋渡しをしてくれそうなものもあります。章立ての仕方も新鮮です。

「役立つから薦めているわけではありません。読めば賢くなる保証も、たぶんしていません。他の人にも読んで欲しいな、共感してもらえたらうれしいなと思った本を薦めているだけです。」と、ひこ・田中さんがまえがきに書いています。
本好きの人間が、もっともっと声を大にして、本のことをいろんな場所で、あらゆる機会に語っていかないとね。本好きの人たちだけじゃなくて、本になじみがない人たちにも。
大学の「ヤングアダルト文学講読」の授業でも、紹介してみよう。

私も読んでみたい本がいっぱい。読んで、考えて、私も次の本を出せるようにがんばろう。

2015年11月19日木曜日

荷物が着いた!

バルセロナの日々(12)


 どうやって身の回りの品をスペインまで持っていくかは、悩みの種だった。
 ハルちゃんに荷物をどうしたか聞くと、彼女は、エアメイルと船便でダンボールをいくつか送っただけだったらしい。
 試しに運送会社にきいてみると、海外への引っ越しは通関手続きがこみいっていて、運送料が思ったよりかかることがわかった。その上、荷物を、入国後すぐと受け取るわけにいかないらしい。国境を越えるというのは、何につけ面倒なことだ。
 迷った末、郵便で送ることにした。最大の理由は、持っていくうちでいちばん大きな電化製品であるプリンターを、入国後すぐに使いたかったからだ。コスト的にも、全部EMSで送っても運送会社を使うより安かった。
 テレビと電子レンジとアイロンだけは、スペインに着いて買おうと決めた。テレビは信号方式が違うので日本の規格では使えないし、消費電力の高い家電に対応する変圧器は、高価だしかさばるので、2年だけのことに買う気になれなかった。
 よって、電化製品で持っていくのは、ビデオ(日本・スペイン両方式対応のもの)、ラジカセ(音楽は私の必需品)、プレーステーションとプリンターだけ。炊飯器もやめた。2年だけのために、ヨーロッパ規格の炊飯器を買いたくなかった。ご飯炊きは、中学校の家庭科で、文化鍋で叩き込まれたので自信があった。
 着るあてがなさそうなスーツやよそいきは置いていき、衣類も極力しぼった結果、できたダンボールは8個。そのうち1つは、すぐには手に入りそうにない日本食材。これらをEMSで送ったあと、別口で、私の辞書、参考書類と、厳選した子どもたちの絵本を、書籍小包で出した。

 到着の翌日、日本領事館に在留届を出しに行って帰ってみると、ポストに郵便局の通知が入っていた。日本からEMSで送ったダンボール8箱の引っ越し荷物の配達の不在連絡票だった。「翌日午前中に、もう一度配達をします」とある。早々と荷物を受け取れそうで、ほっとした。
 ところが、翌日、待てど暮らせど荷物が来ない。しびれをきらして、アパートの入り口の郵便受けを見におりてみると、2度目の不在配達票が入っていた。「2度目の配達をしたがいないので、2週間以内に郵便局にとりにきてください」とある。
 ええーっ! そんな殺生な!
 あんな荷物、運べるわけがない。それに、ずっと、呼び鈴が一番聞こえやすい居間にいたのに、気づかなかったなんてことがあるだろうか。ひょっとして、8箱の荷物をドア口まで運ぶのが面倒だから、最初から呼び鈴を鳴らさず、不在通知を入れたんじゃないの? まさかねえ。
 青くなって、私は郵便局に駆けこんだ。サルダニョーラの郵便局は、家から歩いて15分ほどのところにあった。
 窓口で、私は必死でくいさがった。
「昨日の通知をもらっていたから待っていたのに、呼び鈴は鳴りませんでした。私は9時からずっと部屋で待っていたのだから、聞き逃すわけがありません。もう一度配達してもらえませんか」
「2度目の通知が入っていたなら、配達したはずよ。それに、配達員が何時に帰るかわからない。一時半までに戻ってこなかったら、局の窓口は閉めてしまうからどうしようもないわ」
「でも、中には子どもたちが楽しみにしてたものも入っているんです。昨日の通知を見て今日は着くと待っていたのに。取りにくるっていっても、タクシーでも呼んでこないといけないし」。
「車はないの」
「ありません」
 黒いショートヘアーにめがねの女性局員は、ちょっと気の毒そうな顔をしてから、奥に入り、改めて出てくると言った。
「ともかく、配達の車が帰ってきたら、運べるかどうかきいてみるわ」
 家に帰って待つこと30分。もう、どうしてこんなことになるよッ! ああ、持ってきてくれなかったらどうしよう。あれこれ考えていると電話が鳴った。午後1時25分だった。
「今から届けにいくわね」
 よかったあ。
 私は子どもといっしょに、アパートの入り口に降りた。郵便局の黄色いワゴンがやってくる。配達員の人が、さっきのめがねの女性局員といっしょに、見覚えのあるダンボールをおろして台車にのせた。ちょっと強引だったかなあと思ったけれど、配達員の人がそんなに不機嫌でもなかったのでほっとした。その後、このめがねの女性局員とは、日本からの荷物がくるたびに局で顔を合わせ、すっかり顔なじみになった。
 アパートの入口の4、5段の階段をあがるときやエレベーターにのせるときは、同じアパートに住む中学生のアルバロくんとクリスティアンくんも手をかしてくれた。
 手がたくさんあったので、荷物はあっという間に運びあげられた。
 玄関に置いていかれた荷物を見ながら、言ってみるものだなあと思った。黙っていたら、たいへんなことになっていた。
 ビギナーズラックというべきか、結果オーライだったこの事件は、これからのスペイン人とのつきあいを象徴する出来事だった。なぜなら、買い物でもちょっとした修繕の依頼でも、スペインでは、苦情を言わねばならない場面にしょっちゅう出くわすからだ。交渉するなら、理屈を通して、ねばり強く説得しないといけない。私の場合、苦情を言うエネルギーがなくて、泣き寝入りするときもあった。今回のように、個人の裁量で融通をきかせてもらっていい結果に終わることがある一方で、マニュアルがあればありえない水準の低いサービスに泣かされることもあった。
 これを不快と思う人は、スペインでの生活は耐えられないだろう。時に憤慨しながらも、私はむしろこういうきちんとなっていない部分が、社会生活に余裕を生み出しているように感じられ、それほど悪い印象を持たなかった。失敗すれば無駄が出るし、効率も悪い。でも、それを包みこんでまわっている社会のほうが、ずっと人間的な気がする。日本のビジネスマンが、スペインに来ると苦労するわけだ。
 こんな洗礼の末に、到着3日目にして日本から持参した身の回りの細々とした品がそろった。アパートは、着々と我が家らしくなっていった。

2015年11月18日水曜日

Two White Rabbits

Two White Rabbits by Jairo Buitrago

Two White Rabbits
文 Jairo Buitrago
絵 Rafael Yockteng
48ページ
出版社 Graundwood Books
2015年

『エロイーサと虫たち』(さ・え・ら書房)のブイトラゴ、ジョクテングの新作が、カナダのグラウンドウッド社から出ました。スペイン語は出ないのかなと思いながら、早く読みたくて英語版を取り寄せました。楽しい絵本が主流の日本で出すのは難しいだろうなと、最初からちょっと弱気になっていますが、何か書かずにいられなくなりました。

エロイーサのときも、お父さんと娘でしたが、この本も、女の子とお父さんが二人で旅をしています。国籍はわかりませんが、浅黒い肌の色などからラテン系だとわかります。


   When we travel,
   I count what I see.


という文章で物語が始まります。だけど、この旅が、どうやら休暇の旅のようなものでないのは、すぐにわかります。その中で、この女の子が、この最初の言葉のとおり、めんどりが4ひき、牛が5頭、と見たものを数えていく行為が、子どもというものをとてもよく表しているようです。
先週見た写真展、国境なき子どもたち写真展「Four Wishes 4つの願い -世界の子どもたち-」の子どもたちの様子と重なります。


途中で、川をわたったり、線路のそばで野宿している人を見かけたり、列車の屋根に人々が乗ったりする光景が描かれます。みなが目指すのは
アメリカ国境です。そして、移民局の役人から逃げるシーンも出てきます。

ジョクテングの絵が、女の子のとてもよい表情、体の動きをとらえています。

厳しい状況は絵のみで描かれ、ブイトラゴの文章は不用意に涙を誘うことなく淡々と、旅のようすを語ります。ごく普通の旅の物語のように。

IBBY財団が、現在展開しているREFORMAという活動に関連して出版されました。
単独でアメリカの国境を越えていく子どもたちへの本による支援活動。最後に、パトリシア・アルダナさんの文章が載っています。

http://refugeechildren.wix.com/refugee-children

でも、声高に訴えるのではなく、リリカルな本になっています。
見返しには、グアテマラの心配ひきうけ人形も描かれています。

本当に、これが今、現実に、この世界で起きていること。日本の読者にいつか届けられるといいな。

2015年11月3日火曜日

だいじょうぶカバくん




タイトル:だいじょうぶカバくん
原題:El señor H
作:ダニエル・ネスケンス Daniel Nesquens
絵:ルシアーノ・ロサノ Luciano Lozano
訳:宇野和美
装幀・本文レイアウト:坂川栄治+坂川朱音(坂川事務所)
出版社:講談社
初版:2015年2月

学校の遠足で動物園の行ったロサーナは、かばの檻の前でふいに話しかけられます。
「おーい、名前はわからないけど、そこの女の子! ぼくをここから出してくれませんか?」
檻を出たカバくんを見ても、だれも慌てもせず、いぶかしみもせず、ちょっとずれたところでカバくんに注意をするだけ。カバくんはゆうゆうと町をめぐり、子どもと噴水で遊び、ピザを12枚とチョコレートのデザートを18人前、只食いし・・・。

この本と出会ったのはICEX / スペイン大使館商務部が主催しているNew Spanish Books 、確か2011年の秋の回でした。絵がちょっと堀内誠一さんふうで、かわいらしい本という印象しかありませんでしたが、読んでみて、大好きになりました。
カバくんを見ても、だれもふしぎがらないのが、何と言ってもおかしいのです。
最後のオープンエンドに、カバくん、動物園に戻らなくていいの?と思いはするのですが、そのほのぼのとした、とぼけたストーリーから、「人目を気にしてばかりいなくていいよ。好きにしたらいいんだよ」と、言われているような気がしました。
これぞユーモアの力ではないでしょうか。

檻から出してくれと頼まれて、ロサーナが手伝っていいものかどうか、迷っているとき、カバくんは言います。

「そんなになやむことありませんよ。だれも気づきはしませんって。みんな人のことなんかかまっちゃいないんですから。じつに身勝手なものです。現代の病ですね」

「身勝手」とは言っていますが、私はここにポジティブなメッセージを感じました。人の目ばかり気にして、みんなと同じじゃなきゃと縮こまっている子どもたちに読んでほしいな、だって、だいじょうぶだからと。
正義感をふりかざすことを、皮肉っているようでもあります。
友だちからいじめられないか、大人から叱られないかと、いつもビクビクしていた子ども時代の自分にも、読ませてやりたい本です。

「だいじょうぶ、とカバくんは思っていました。
チャンスはいつかめぐってきます。
きっとね。」

という終わりの文章も、すてきです。
このユーモア感覚に触れて、「スペインのユーモアってこんなふうなのね」と思ったら大間違いです。スペインの批評家たちも、「ネスケンスの独特のユーモアセンス」という言葉をよく口にするからです。
ユーモアというより、ナンセンスと言ったほうがいいでしょうか。

物語が進むうちに、カバくんが背広を着るのがおかしいという声もありますが、よく見ると、絵の中にそれらしい場面があります。
「だって買えないのに」とも言えますが、このカバくんなら試着したら、「あなたにぴったりですね。じゃあ、どうぞ」なんて、もらったのかもしれないと思えてきませんか?

小学中級からとしていますが、小学校低学年からでも楽しめるかなと思います。
せせこましい世の中で、のんびり楽しんでもらえるとうれしいです。

2015年10月31日土曜日

東葛飾地区母親読書センター主催講演会のお知らせ

11月18日(水)午前10時半から、下記のとおり、千葉県の柏市で話をすることになりました。
「スペイン語の児童文学と子どもたち」
翻訳をしながら考えたこと

スペイン語圏の子どもの本のこと、私が翻訳にとりくむようになったいきさつ、今思っていることなどなど、お話する予定です。広瀬恒子さんに感謝です。

翻訳デビュー20年の記念の年(!)も、これがしめくくりの話になりそうです。
どなたでも参加できるそうなので、よろしければいらしてください。また、まわりの方にもお知らせいただければうれしいです。お待ちしています。


 






映画『マーシュランド』La isla mínima

ラテンビート映画祭をすっかり見逃し、何かスペイン映画をやっていないかなと、公開中の映画名を見たときも、気づかずに通り過ぎてしまっていたこの映画、長男に「面白いスペイン映画を見た」と言われて、初めてスペイン映画だと気づきました。
なんでも英語名にするのをやめてほしいものです。

原題はLa isla mínima.  セビーリャの南にある、グアダルキビール川のlas maresmas という湿地帯が舞台。「マーシュランド」というのは、湿地帯の意味だそうです。
その湿地帯で、二人の姉妹が行方不明になった事件を捜査にマドリードからやってきた刑事2人。捜査するうちに、二人は遺体で見つかり、事件の捜査が緊迫感を持って描かれています。
そのlas maresmas という土地と、80年代初頭という、フランコ後の民政移行で、大きな価値観の転換の中で揺れている社会が静かに描かれている作品でした。La isla mínima (極小の島)というタイトルは、マーシュランドよりも意味深です。

数週間の公開だけだなんて、実に残念。
11月に神戸、12月に沖縄で公開するようです。

2015年10月27日火曜日

Uvas con queso saben a beso


夏休みに滞在したスペインの家庭で、デザートを何にしようかと話しているとき、「ブドウにしたら? チーズと食べるとおいしいのよ。Uvas con queso saben a beso って言うんだから」とすすめられました。

「チーズといっしょのブドウはキスの味がする」

要するに組み合わせるとそのくらいおいしいという意味だとのこと。でも、生のブドウを???

チーズの店で、レーズンを売っているのは見たことがあるけれど、生のブドウを組み合わせるとは知りませんでした。でも、食べてみると確かにおいしい! 


というわけで、日本でも再現してみようと、やってみました。選んだのは、スペインのブドウのようにちょっと淡い色の甲州。バッチリでした。
お試しあれ!

2015年10月18日日曜日

バルセロナ到着

バルセロナの日々(11) 

到着の日
バルセロナ、プラット空港で
 翌日の朝、ホテルからタクシーでシャルルドゴール空港に向かった。ゆっくりと休んだが、疲れていたのだろう。私のひざにもたれてタイシが途中で眠りこんでしまった。ぶあいそだった黒人の若い運転手さんが、それを見てふっと笑ったのがサイドミラーにうつり、ゆかいな気分になった。
パリからバルセロナのフライトは2時間足らず。日本からのフライトと比べれば、あっという間だ。

「もう飛行機乗らないんだよね」
 着陸したとき、アキコがうれしそうにたずねた。気持ちがよくわかった。
 出口に向かう免税店のあいだの通路までくると、勝手を思い出し、私の足取りも軽くなる。今度はこの子たちもいっしょなんだ。普段着に運動靴、水筒をさげリュックをしょった3人がいとおしい。
 ふいに、ドラゴンズの青い野球帽をかぶった長男ケンシに、バカンス帰りふうのおじさんが声をかけてきた。戸惑いと照れの入りまじった顔で、「なんて言ったの?」といいたげにふりかえるケンシ。「『おう、チャンピオン!』って言ったんだよ。かわいいと思ったんだよ。だいじょうぶ」
 ああ、スペインだなあと思った。通りすがりでも、すっと声をかけてくる人間と人間の距離感。まるで子どもたちへの歓迎の挨拶のように飛び込んできた言葉。アキコは、ピンクのヘアバンドの両側に2,3本ずつ飾りピンをつけてぴっとおでこを出し、ものめずらしげに瞳を輝かせてすたすたと歩き、一番下のタイシは私にべったりとくっついている。
 ほんとにようやくたどりついた。来てしまったんだという実感がわきあがってきた。
 出口ではハルちゃんが待っていてくれた。ハルちゃんは私たちよりひと足先にバルセロナ入りしていた。喜びいっぱいの再会だった。

 電車を乗りついで、サルダニョーラに到着。駅のそばの中華料理屋で奇妙奇天烈な中国料理を食べ、4時半に不動産屋さんに行った。大家さんのマルタはもう来ていた。契約書をひととおり読み合わせて双方でサインをし、1ヶ月分の家賃と1ヶ月分の敷金、1ヶ月分不動産屋さんへ手数料を払ったら手続きは終了。あっけないほど順調だった。
 子どもたちと荷物を見るとマルタは、「車で送ってあげるわ」と申し出てくれた。お言葉に甘えて、スムーズにアパートに到着。
 アパートの入り口で遊んでいた高学年くらいの男の子が、東洋人の一家を目を丸くして見た。中に入ると、子どもたちは大はしゃぎで家中を見てまわった。「広ーい!」と気に入ったようす。4つあるベッドルームの部屋割りをまず決める。
 ハルちゃんに1部屋。私に1部屋。残りのツインとシングルの部屋をどうわりふるかが問題だった。3人とも1人部屋へのあこがれがある。でも、1人で寝ることを考えると、アキコとタイシは尻込みし、1人部屋はケンシのものとなった。
 一休みしてから、食料や野菜、トイレットペーパーやシャンプー、シーツなど、当面必要なものを買いにいった。

2015年10月9日金曜日

いざ出発

バルセロナの日々(10)


 出発は9月6日に決めた。学生ビザの場合、法的には授業の始まる二週間前からでないと入国できない。守らなくてもばれやしなかったのかもしれないが、カタルーニャ語の語学クラスの開始日から逆算すると、一番早いのがこの日だった。
 奨学金の通知を受け取ってからの1ヶ月は慌ただしかった。
 8月中に、学生ビザ(子どもたちは、学生の家族ビザ)の申請をし、航空券の手配をした。ビザをとるには、戸籍謄本をとりよせた上、外務省でアポスチーユ認証というのをもらうなど、思いもよらない手間がかかった。
 心配なのは飛行機だった。大人1人でもしんどい長時間のフライトだ。3人はおとなしくしていてくれるだろうか。しかも、バルセロナに行く直行便はない。正午ごろ成田を発って、12時間のフライトで日本の夜中にヨーロッパに着き、待ち合わせを入れるとそこからさらに4、5時間はかかる計算だ。大丈夫だろうか。3人とも眠りこけてしまったら身動きがとれない。着くとバルセロナは夜だというのに。
 考えた末、トランジットのパリで1泊することにした。そうすれば、一休みして、翌日昼ごろにバルセロナに着き、そのまま家の契約に行ける。
 9月に入ると、いよいよ秒読みに入った。
 ベランダの鉢植えを近所の人にあずけたり、着られなくなった子どもの服を処分したり、冷凍庫の買い置きを片づけたり、身の回りをどんどん軽くしていった。
 毎日ふだんどおりにすごしてきた子どもたちも、夏休みが明けると、担任の先生とクラスメイトから励ましをいただいて送りだされ、ようやく気持ちが切りかわった。
 そして、9月6日。とうとう出発の朝が来た。
 3人の子連れの移動は、どんなに余裕を見ていても時間がおせおせになるものだ。保育園に送っていたころも、「さあ、行くよ」と声をかけてから、3人そろって玄関を出るまで30分かかるのはざらだった。
 前の晩、明け方近くまでかかって準備をしたにもかかわらず、成田に行くこの朝もそうなってしまった。ほとんど駆けるようにして電車にとびのり、新宿でリムジンバス乗り場についたのは発車の5分前。新宿まで送りにきてくれたつれあいと、別れの惜しむひまもなかった。リムジンの席もばらばらになってしまった。
 さらに、新宿を出て30分すぎたころから、タイシとアキコが酔いだした。うかうかしているうちに成田エクスプレスの切符がとれなくなったことが悔やまれた。電車にすべきだったのに。一人旅ならリムジンに乗ると、スペインに行くんだなあという感慨が湧いてくるのに、日本を離れる感傷にひたるどころではない。
 成田空港に着くと、見送りにきてくれた私の両親が待っていた。長旅はあきるだろうと、おもちゃをプレゼントしてくれる。さっきまでの青い顔はどこへやら。タイシとアキコはたちまち元気になった。現金なものだ。忘れないうちにと、私も冷蔵庫からさらえてきた野菜を母に渡した。とことんケチな性分だ。
 荷物をあずけ、喫茶店で人心地ついたとき、孫の写真をパチパチととっていた父が、水のコップを倒した。あっ。とっさにおしぼりでふく母。ニ人ともそわそわしているのがわかった。鼻の奥がツーンとなった。
 ゲートに入るとき、ならんで手をふる、小さな母と帽子をかぶった父に手をふりかえしていると、涙がこぼれてきた。やるといいだしたらきかない、いい年をした強情な娘を心配しながら見送りにきてくれた両親。なんの因果かこんな娘に育って、二人ともどう思っているのだろう。 2年間孫に会わせることもできない。私の涙に、子どもたちはキョトンとしていた。「なんで泣いてるの」と、タイシがたずねた。
 元気でいてね、私、がんばってくるからね、と胸のうちで言った。
 出国審査をぬけて出発ロビーについても、子どもたちはひょうしぬけするほど普段どおりだった。ちょっとしたきっかけですぐふざけだし、ちっとも落ち着かない。飛行機に乗る前にこれだけは言っておこうと思っていたことを、私は伝えることにした。
「ここからは日本じゃないんだよ。あんたたちのパスポートはおかあさんが持ってるから、迷子になったら、会えなくなっちゃうよ。おかあさんのあとをしっかりついてきてよ。それから、自分の持ち物は自分でしっかりと持っててね。置きっぱなしにしたら、すぐなくなっちゃうよ。自分のとなりに置くときも、ぜったい手をはなしちゃだめよ」
 見ているつもりでも3人いると、ときどき一人が意識の外に出てしまうことがある。私は視力にも自信がない。だから、はぐれないように3人が自分から気をつけてほしかった。それに、手荷物のリュックに詰まっているのは、着替え3組とパジャマとお気に入りのおもちゃ、筆箱、色鉛筆、はさみなど最低限の文房具は、最低限の身の回り品だ。バルセロナまで無事持っていってくれないと困る。
 子どもたちははじめての飛行機にまいあがっていた。ベルトをしめると、忙しく前のポケットに入っているものをすべてとり出し、ヘッドホンをはめてみて、テーブルを出し、いすを倒して注意された。
「おかあさん、これ開けていい?」「おかあさん、お菓子だしていい?」「おかあさん!……」「おかあさん!……」
 ああ、やかましい。そういえば、ここ数年で何回か私は飛行機に乗ったけど、そのときはいつも子どもから解放された旅だったんだっけ。でも、今日はみんないっしょ。いつも大人として楽しんでいた空間。子どもたちはまるで異分子だ。
 子どもたちはちょっとおとなしくしていたかと思うと、こぜりあいからけんかをし、ヘッドホンのプラグがへんなふうにはまってしまったの、もらった飲みものをこぼしたの、機内食をめずらしがってつついてみたものの、「おかあさん、これ残していい?」「おかあさん、ケーキだけ食べてもいい?」とほとんど手をつけず、機内が仮眠のために暗くなっても騒ぎ続け、何度もほかの乗客から注意を受けた。
 3人がようやく眠りこんだのは、着陸の2時間前。パリに着いたときには、出したおもちゃや本をかたづけさせるのがこれまたひと苦労だった。

2015年9月18日金曜日

スペインの本屋さん

今月前半、久しぶりにスペインに行ってきました。楽しみは本屋さんめぐり。30数年前、初めて行ったとき、恩師に教えられてたずねたマドリードのグラン・ビア通りにあるCasa del libro は今でも健在。旅行のたびに、必ず立ち寄る本屋さんです。
今回は、マドリードのほか、セビーリャ、へレスの本屋さんにも行きました。立ち寄った順に紹介してみようと思います。


 La extravagante (Alameda de Hércules 33, Sevilla)

セビーリャのアラメダ公園ぞいのオルタナティブな地区にあるおしゃれな本屋。

もらった紙袋には
Historias en tinta y papel para gente extravagante
(とっぴな人々のための紙とインクの物語)の文字が。

La extravaganteの店内。雑貨や絵も置いてあります。








Rayuela (José Luis Luque, 6, Sevilla)


La seta のすぐそばにある児童書店。
開店10年を迎え、読み聞かせなどもしています。

選書の相談にものってくれます。



Un gato en bicicleta (Sevilla)

La setaから少し入った通りにあります。El jueves のがらくた市(骨董市と言うべきか)の通りのそば。やはり店内には雑貨もあり。



La Luna Nueva (Eguilaz, 1, Jeréz de la Frontera)

写真は児童書売り場ですが、大人の本もあります。
子どもの本売り場は、昔ながらのペーパーバックの読み物も充実しており、上橋菜穂子さんの『精霊の守り人』もありました。

地元の作家や画家などが作った、ナンバリングをした手づくりの本も見せてくれました。



Mar de Letras (Santigao, 8, Madrid) 

マヨール広場から、旧サン・ミゲル市場のほうに出て、オペラ方面に抜ける通りぞいにあります。







赤ちゃん絵本からYA,そして専門家向けの理論書まで、幅広くとりそろえています。地下にちょっとしたイベントスペースもあり。
近年の赤ちゃん絵本の充実を実感しました。

見ていたら、図書館員ふうのお店の方が、わらべ歌にのせてリズムをつけて読んできかせてくれました。



Tipos Infames  libros y vinos (San Joaquín, 3, Madrid)

「最近できたおもしろい店がある」と友人に教えてもらった店。「本とワイン」と店名にあるように、ワインのテイスティングもできるし、店内でお酒やコーヒーも飲めます。

地下がイベントスペース。

Selva Almada の本を買ったら、「火曜日にその作家来ますよ」とのこと。惜しい! 私は日曜日の夜に帰国でした。
写真の奥の右にうつっているひげの若い店員さんは文学に詳しく、私がたずねたら、いくつも関連の本を出してくれました。

下北沢のB&Bみたい。



Panta Rhei (Hernán Coretés, 7, Madrid) 

美術関係の本が充実しています。日本のPie Books の本が何冊も並んでいてびっくり。ロンドンの業者からとりよせているそうです。 絵本もたくさんあります。

Kiriku y la bruja (Rafael Zarazar Alonso, 17, Madrid)

レティーロ公園の東側にある、子どもの本の専門店。

La Central (Postigo de San Martín, 8, Madrid) 

バルセロナに本店がある、文学の強い書店。マドリードの店は、1階にカフェがあります。

Rikkitikkitavi (Santiago, 4 , Madrid)

本屋さんではないけれど、イラストレータのTeresa Novoa さんが経営しているTシャツなどのお店が、Mar de Letras と同じ通りにあります。はじめて出した絵本が学研のワールド絵本シリーズの2点で、ブリュッセルにいる息子さんが日本好きだとのこと。
Tシャツは、みんなオーガニックコットン。赤ちゃん用からあるので、プレゼントにもいいですよ。

















2015年8月11日火曜日

サルダニョーラのアパートへ

バルセロナの日々(9)


 でも、祈っていただけではない。留学生課の人に会う前に、ひとつ、やっておくことがあった。
「ラ・バングアルディア」という新聞の不動産欄をあたってみることだった。バルセロナで最もポピュラーな新聞、ラ・バングアルディア紙には、日曜日を中心に不動産の欄がある。市内の不動産情報は、これが一番詳しいと聞いていた。
 バルセロナに着いてから一応チェックはしてみていたが、寮というあてがあったし、新聞で物件を見つけたところですぐ契約できるとは思えなかったので、ざっと眺めただけだった。これは、もう一度きちんと見てみなければ。市内ならいくらくらいでアパートが借りられるのか確かめておきたいし、アパートの事情ももう少し通じておきたい。コンパクトな市街地図を買いこんで、地図と首っぴきで物件を調べはじめた。
「○○通り、○部屋、家賃xx」等、びっしりと字が並んだ不動産欄。見ているうちに、少しずつ事情がわかってきた。通りと番地がわかれば、地図ですぐ位置が確かめられる。スペインのアパートはたいてい、居間兼食堂と寝室という構成なので、寝室がいくつあるかが、家の大きさの目安になる。複数の寝室がある場合、ひとつは夫婦の寝室、つまりダブルベッドかツインが入る部屋だ。家具付と明記していなければ、家具なしの物件。ためしに何軒か、電話で問い合わせてみた。
 家賃は、全体に、日本の住宅と比べると安い感じだった。ほとんどは、前にハルちゃんにきいた金額の半額以下だ。家族寮くらいの家賃のところもたくさんある。
 見ているうちに、やっぱりバルセロナ市内がいいや、大学の寮にしなくてかえってよかったかもしれない、と楽天的な気分になってきた。
  
 翌日、事情を話すと、留学生課の年配の女性は言った。
「バルセロナ市内は、アパートをさがすのも小学校をさがすのも難しいわよ。その点、ここサルダニョーラなら大学に近いし、アパートは安くてさがしやすい。バルセロナだと、たとえ家が見つかっても、遠くの小学校に通わせなくてはならない可能性があるけれど、サルダニョーラなら、きっと歩いていける小学校が見つかるわ。サルダニョーラにしたらどう? 子どもと住むならそのほうがいいわよ」
 まったく予想していなかった展開だった。寮でなければバルセロナ市内と、勝手に決めつけていたからだ。
 どうしよう。自治大のあるベリャテラは、サルダニョーラ市の一部だというが、サルダニョーラという名前自体、それまで聞いたこともなかった。子どもとならそのほうがいいって、本当だろうか。
 でも、きっとそうなんだ。ずっと学生の世話をしてきたこの人が言うのだもの。私一人の力であたっても、この旅行中に家は決められないだろう。ここで忠告をきいて、ともかく落ち着き先を決めておくのが得策かもしれない。9月に子どもを連れて来てから家をさがすのは、おそらく不可能だ。大学までバスで15分くらいだというし、カタルーニャ広場から国鉄で20分ほどだというから、バルセロナに出るのもそんなに不便ではない。どうしてもいやなら、あとで引っ越しという手もある。1分くらいの間に、そんなことを思いめぐらした。
「あさってには日本に帰らなければならないので、それまでに決められるなら決めたいんですけれどどうしたらいいですか」
 サルダニョーラにしようと決断して、私はたずねた。
「不動産屋に物件があるかどうか電話してみましょう」
 係の女性は、「寝室はいくつ?」「家具付? 家具なし?」と途中で条件を確認しながら不動産屋に電話で問い合わせてくれた。すると、4つ寝室のある家具つきのアパートが3軒あるので、その日の午後案内してくれるという。しかも、値段をきいてびっくり。高いところで月8万7千ペセタ。安いところだと6万8千ペセタ。あのキャンパスの寮よりも、ラ・バングアルディア紙で見た市内の物件よりもずっと安い。
 サルダニョーラという町と大学とバルセロナの位置関係さえわからないまま、教えられた大学内の停留所からバスでサルダニョーラに向かった。運転手さんにたずねて、サルダニョーラの役場前の停留所でおろしてもらい、留学生課でもらった地図だけをたよりに、約束の地点に午後4時半に行った。

 不動産屋の人は、私と同年輩のパート社員ふうの女の人だった。電話では3軒と言ったけれど、1軒はもう決まってしまって見せられるところは2軒しかない、と言ってから、車に乗せられた。客を案内する仕事の割には口数が少ないが、いやな感じはしなかった。短い丈のTシャツの下からは、細いとは言えないウェストとおへそがのぞいている。こんなくだけた服でお客さんを案内するのも国柄かしら。車で案内してくれるとは親切だなあと思ったのだが、これは留学生課で紹介してもらったからだったようだ。
 1軒目は、日本の団地のようなアパートだった。7階か8階にあったアパートは、寮よりはよさそうだったけれど、ぴんとこなかった。全体にほこりっぽく、子どもが落ちてもふしぎでないくらいベランダの手すりが低いのが気になった。
「どう?」と聞かれて、こんなときどんなふうに答えればいいんだろうと口ごもっていると、「まあ、いいわ。次のを見てから考えて」と言われた。
 そして、2軒目。大家さんがくるはずだからと、アパートわきの植え込みの縁石に座って待つこと10分。鍵を持って大家さんが現れた。30前後の、めがねをかけた、色白でふっくらとした顔だちの、感じのいい女の人だった。
「まだ男の子たちがいるんだけど、7月ちゅうには出ていくことになっているし、ことわってあるから自由に見てちょうだい」といって、案内されたのは、6階建てのアパートの2階。室内を見て、私はひと目で「これだ!」と思った。
 家族寮のよりずっとしっかりしていそうな居間の家具。壁はやわらかい色のペンキが塗られ、どの部屋にも勉強机と本棚、ベッド、たんすがそなえつけてある。今使っている男の子が貼ったのだろう。奥の部屋の壁のドラゴンボールのポスターを見て、気持ちがなごんだ。台所も使いやすそうだ。洗濯機も冷蔵庫も新しいし、食器も鍋釜もひととおりついている。何よりも、全体にこぎれいな感じがする。まわりにはお店も病院も学校もあるという。これで家賃が7万5千ペセタ(当時の相場で約5万円)なら、寮のテラスハウスより格段にいい。
 もうひとつ気に入ったのは、街の雰囲気だった。10階だてくらいのアパートが建ち並ぶ間に、ちょっとした遊び場や木立があるようすは、今住んでいる場所と雰囲気が似ていた。生活観のある街だ。子どもをひとりで歩かせられないときく市内より、こういうところのほうが、確かに子どもには住みやすいかもしれない。
 よし、決めた!
 こんなにすぐ決めていいものだろうか。でも、決断のしどきだと思った。
 予約の手続きは簡単だった。手付けとして1ヶ月分のお金を置いていけば、9月に正式な契約をするまで、それまでの家賃は払わなくてもとっておいてくれるとのこと。外国人というとアパートも借りられない日本を思うと、パスポートと大学の紹介だけで、あっさりと外国人にアパートを貸してくれることだけで驚きだった。
 手付け金の領収書と予約を証明する書類をもらい、とりあえず家の問題がかたづいた。だまされてたらどうしようという疑いが、ちらっと頭をよぎったけれど、留学生課経由だから信じてしまうことにした。これで9月にくれば家はあるはず。
 大きな課題が思わぬ方向で解決し、再び希望がわいてきた。

2015年7月19日日曜日

家族寮の夢やぶれ

バルセロナの日々(8)


 次なる懸案は住むところだ。私たちは、母子4人プラス1名が住める家を確保する必要があった。
なぜプラス1? それは、ハルちゃんがいたからだ。
 ハルちゃんは、卒論の資料提供が縁で知り合った大学の後輩だった。私よりひと回り以上若かったが、バルセロナ好きと児童文学という共通項で親しくなり、1997年のスペイン旅行に同行してくれた仲でもあった。
 行き先をバルセロナと決めたとき、すぐさまハルちゃんのことが頭に浮かんだ。ちょうどその頃、ハルちゃんはバルセロナに留学していたからだ。
 1年滞在を延ばして、いっしょに住んでもらえないかな。
 ふいに、そんな考えが浮かんだ。
 同居してもらえたら、どんなに心強いだろう。共同で借りれば家賃も安くあがる。ハルちゃんも、もう少し勉強したいと思っているかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきだったが、人生のタイミングというものだろうか。ハルちゃんはすぐにオーケーしてくれた。ありがたかった。「母子4人じゃないんです。前から留学している後輩もいっしょなんです」という説明は、留学をめぐる周囲の奇異の目からの緩衝材にもなった。
 もっとも、ストレスいっぱいの不安定な母子に1年つきあわされたハルちゃんはたまったものではなかっただろう、と今になってつくづく思う。これについては、後であらためて書きたい。

 バルセロナ市内に下宿していたハルちゃんは、6月の一時帰国したが、それまでにバルセロナのアパートのことを調べてくれた。けれども、ハルちゃんの友だちで、子連れでバルセロナにきているという人が借りていたアパートの家賃は、私の奨学金の3倍、とても手が出なかった。その地区は、ペドラルベスという高級住宅街だとあとで知ったが、その時は、バルセロナはどこもそんな値段なのかしらと、暗澹とした気分になった。
 旅行者として行ったことしかない私には、バルセロナの住宅事情も土地事情も見当がつかなかった。
 そんなとき、自治大学のキャンパス内に家族寮があるという情報をもらった。インターネットで調べると、家賃105,000ペセタ。4LDKの3階建てのテラスハウスだった。家具つきなので、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品や食器もついていてすぐ住める。よさそうだ。
 ただし、問題がひとつあった。子どもの学校だ。コロメール教授によれば、キャンパス内にも公立の小学校があるが、空きがないらしかった。「空きがない」とは、いったいどういうことだろう。住んでいる地域で自動的に学校が決まる、日本の公立小学校の制度からすると、わけがわからない言葉だった。公立の学校でも定員があるのだろうか。学校のことは、住宅事情以上に不明なことだらけだった。
 ともかく、7月の旅行で家族寮の見てみよう、そのうえで、子どもの学校のことや市内のアパートのことを留学生課の人にきいてみようと決心した。

 家族寮は大学のキャンパス内、カタルーニャ鉄道の駅を降りて、教育学部とは反対方向に行ったところにあった。
 駅から上り坂を歩くこと10分あまり。両脇に夏草がぼうぼうしげり、じりじりと夏の太陽が照りつける片側一車線の道だ。たちまち喉がカラカラになった。これが本当に大学の中かと疑いたくなる。寮の事務局まで、歩いている人とはひとりも出会わなかった。
 寮の事務局は、キャンパスの端っこにあるホテルの隣にあった。アポイントメントをとっていた係の女の子が、さっそく連れていってくれたのは、事務所から駅のほうへ少し戻ったところにあるテラスハウスだった。7,8軒の家が連なった箱のような建物。女の子は、左から2軒目の家の鍵をあけた。
 中に入れてもらって愕然とした。
 確かに家具つきの4LDKだ。でも、ついている家具といったら、まるでベニヤをはりつけたみたいなしろものだし、壁も床もコンクリがむきだしだ。とても素足ではたえられそうにない。この殺風景なコンクリートの箱を子どもたちがほっとできる空間にできるだろうか。カーペットを敷いたり、壁に何か貼ったり、かなり手を入れないといけないなと直観的に思った。
 それに、まわりにお店もない。こんなところで、どうやって家族4人の胃袋を満たすだけの買い物をできるだろう。女の子に思わずたずねた。
「みなさん買い物はどうしているんですか」
「車ですぐのところにスーパーがありますから」
「でも、私、車を持つつもりはないんです……」
 案内の女の子は黙りこんだ。
 それに、10軒たらずのテラスハウスで、子どもたちの友だちが見つかるだろうか。こんなさびしいところで、どうやって暮らしていけるだろう。
 ここじゃだめ。絶対にだめ。
 家がすごく快適なら、思いきってここに決めて、子どもの学校の問題はあとで解決することも考えられる。でも、快適でもないのに、不便さを我慢しながら、わざわざここに住むことはない。
 家族寮に住むという考えは、私の中で完全に消えた。
 仕方がない。留学生課の人と相談してから考えよう。
 留学生課の人には、その翌日、会うことになっていた。どうかいい展開になりますように、と祈るような気持ちだった。

2015年7月3日金曜日

翻訳は難しい

昨夜は、セルバンテス文化センターで、柳原孝敦さんの講演「翻訳は難しい」を聞いてきました。

先日、私自身も、3名の児童文学翻訳者とのイベントをジュンク堂池袋本店でしましたが、翻訳の話というと、自分でもよく足を運びます。最近では、〈ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界〉のトークイベントや、ラカグであった、酒井順子×中島京子×鴻巣友季子「すべての女はスカーレット・オハラである~『風と共に去りぬ』に愛あるツッコミを入れる~」 も行ってきました。

柳原さんのお話も、例にもれずおもしろく聞きました。
セサル・アイラのCómo me hice monjaのことも、¿Querés c...? のことも、La Nación の記事のタイトルや最後の呼びかけのこと、ボラーニョの通話のbueno・・・

そういった微細な事柄をどう日本語にしていくかという話を聞いて、やはり翻訳家というのは、日本語力が必要なんだなと思った方も多いと思いますが、私は同時に、前提になっているのは外国語の読解力だな~、と思いました。

小説家は、物語の中のちょっとした言葉にも、何かのニュアンスや示唆、時代の空気や人物像の雰囲気などを負わせていますが、ひととおり文法を終えただけの読解力だと、なかなかそういった個性までたどりつけません。読書の経験値が必要です。
翻訳の過程で、よくネイティブに確認することがありますが、その疑問が、「単純に自分がスペイン語をわかっていないのか、それとも、この作家のスタイルの問題か、はたまた、この登場人物の発話ゆえか」が、大いに問題であることもしばしば。
読みによって、翻訳者は鍛えられます。
意識的な読書は、翻訳者にとって筋トレですね。だからといって、読書の愉しみが減るわけではなく、「そうか!」と気づいて、ひとりニンマリしながらのトレーニングです。

最終的には、翻訳者の裁量で日本語となって伝えられていくのが、おもしろくもあり、おそろしくもあり。
柳原さんのお話は、学者としてのアプローチに加え、多数の翻訳の経験からくる、やや職人的な実感もこもっているようで、興味深かったです。

2015年7月1日水曜日

テレサ・コロメール教授

バルセロナの日々(7) 

 奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
 テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
 初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
 住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
 コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
 さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
  
 バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
 鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
 カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
 
 キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
 電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
 研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
 白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
 電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
 と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
 教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
 壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
 ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。

「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
 来ていいんだ!
 その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。

2015年6月9日火曜日

 Contarで始まりContarで終わる

バルセロナの日々(6)

 4月を10日ほどすぎたころ、スペイン大使館から電話が来た。
「書類審査を通過しましたので、20日の午前10時20分に大使館においでください」
 日本人の女性職員が事務的に告げた。
 やったー! 面接に行ける! 
 面接官は何人だろう。話がききとれるだろうか。ちゃんとこたえられるだろうか。不安が押し寄せてきた。でも、今さらじたばたしても始まらない。今のままの自分でぶつかるしかないと、腹をくくった。
 当日は、お気に入りの服で気持ちをもりたてた。水色のハイネックと、花をあしらった紺系の長めのスカートに、丈の短い黒いジャケット。誕生石のトルコ石が揺れるピアスをぶらさげ、若い頃、気合いを入れたいときに愛用していたシャネルの十一番の口紅をひいた。
 早めに神谷町に行き、駅のそばのドトールで一息いれる。オフィス街をいきかう人々をながめながら、今この中でいちばんドキドキしているのは私かもしれないと思った。
 大使館の一階のサロンで待っていると、指定の時間を過ぎたころ、40前後の頭部のややうすい男性が階段をおりてきた。この人が面接官だろうか? 二階の事務室に案内され、真ん中に置いてあるいすにすすめられるままにすわると、その人はいきなり言った。
―クエンタCuenta.
えっ? 何を言われたのか、とっさに判断できなかった。数えろ? 動詞contarには、「数える」「話す」の意味がある。でも、数えろなんてへん。じゃあ、話せっていうこと? 
「書類を読んだけれど、何をしたいのかもう一度説明してくれますか?」
 助け船をだしてもらって、面接官はその人だけなのだとわかった。
 児童文学の作品を通して、おさない日本の読者が、ステレオタイプに陥らないスペイン人の姿を知ることは、真の国際理解に役立つことだ。すぐれたスペインの作品を日本に紹介していくため、ぜひともスペインで学びたいという、計画書の趣旨をどうにかこうにか説明する。面接官が言った。
「よくわかった。私はとてもいいと思う。やりたいことがはっきりしているし、計画もしっかりしている。ただし、ふたつ問題がある。一つはスペイン語の能力を証明する書類がないこと。つまり、スペイン外務省は、せっかく奨学金を与えた人間が、スペイン語ができないために勉強が続けられなくなるのをおそれている。もう一つは、年齢がややオーバーしていること。30歳で年とっている人もいれば、50歳で若々しい人もいるのだから、私は年齢制限などばからしいと思うし、何で『36歳』と定めたかも不明だ。だけど、本国の審査員の中には気にする者もいる。この面接のあと、世界各国から集まった書類が本国で審査される。あなたのやろうとしていることは、とても意義があると私は思う。私はおすよ」
 喜びがわきあがってきた。だいじょうぶかもしれない。空気がいきなりやわらいだ。
「そのピアスはインディアンのかい?」
 トルコ石のぶらさがったピアスは、確かにネイティブアメリカンふうのアクセサリーだった。
「いえ、トルコ石は私の誕生石なので縁起をかついでつけてきたんです」
 関係ない話をしてるけど、何気なく私のスペイン語力を確かめてるんだろうなと思いながら、私はもうひとつのことを考えていた。話ついでだ。あれを言ってしまおうか? やっぱりやめておこうか。でも、このぶんなら言ってもだいじょうぶかも……。
 ずっと心にひっかかっていた言葉を、私ははきだした。
「実は私、ひとりで行くんじゃないんです。子どもを連れていこうと思っているんです。3人」
「子連れ」と言ったら不利になるかもしれないと、書類では一切触れなかった。でも、言っておいたほうがいいんじゃないかと、ずっと迷ってきたことだった。
 面接官はあっさり言った。
「それはいい。子どものときから異文化を知るのはとてもいいことだ。私も子どもをこちらの学校にかよわせている。そんな子が大人になったとき両国の架け橋となっていく。子どもがいっしょなら、いっそう価値がある。どうして書類にそう書かなかったの?」
 なごやかに面接は終わった。ドアまで送ってくれたとき、面接官が言った。
―Cuenta conmigo.
 動詞contar+con+人。人を当てにする。つまり、「まかしとけ」!
 うれしさがこみあげてきた。やるだけやった。地下鉄駅までの帰り道、春の陽射しが気持ちよかった。

 そして7月26日。スペインから通知が届いた。ちょっとお使いに行こうとした出がけに郵便受けを開けると、スペイン外務省から封筒が来ていた。待ちきれず、びりびりと封をあけた。お役所ことばのかしこまった手紙。でも、かんじんな文字はすぐ目にとびこんできた。
「1999-2000年度 月額97,500ペセタの奨学金を授与する」
 ずうっともやもやしていた霧がぱあっーっと晴れ、いきなり視界が開けたような気分だった。これで勉強できる。勉強しなさいって、スペインの外務省が言ってくれたんだ。すみわたった夏空を見上げて、深呼吸をした。「わあーっ!」と叫ぶかわりに、マンションのエントランスの階段をダーッと駆けおりた。

2015年6月7日日曜日

ジュンク堂池袋本店1F フェア「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」始まりました!



ジュンク堂池袋本店1Fでのフェア「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」が、昨日6月6日に始まりました。
1階のエレベーター前に、こちらの写真のように並んでいます。







「世界の」と言っていますが、カバーしているのは以下の地域。

アフリカ大陸(さくまゆみこさん)
ドイツ語圏(那須田淳さん)
オランダ語圏(野坂悦子さん)
スペイン語圏(宇野和美)

地球儀の右上に、チラリと見えているのは、イソール作『うるわしのグリセルダひめ』。私が選んだスペイン語圏は、右奥の部分に並んでいます。

選者4人が集う6月20日(土)のイベントは、すでに満員御礼、キャンセル待ちですが、自分の選んだ本についてそれぞれが書いた解説をまとめた冊子も、もうじきできるはずです。
以下は、私の解説の冒頭部分です。
 スペイン語圏は、スペインと、中南米などの約20カ国に広がります。母語話者は4億人以上おり、1960年代からガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、ラテンアメリカの作家たちが世界文学に大きな影響を与えてきましたが、児童文学に関しては日本ではたいへんマイナーです。
 ここ10年の年間の刊行数を見ても、英語からの翻訳は毎年何百点もあるのに対して、スペイン語はひと桁という寂しい現実があります。スペイン語圏は日本人にとってなじみが薄く、欧米ほど興味を持たれないという傾向は根強くあるようです。
 でも、だからこそ読んでみてほしいもの。英米の子どもの本とはどこか異なる違和感、「ひっかかり」を含めて受けとめ、世界の広さ、多様性を感じてもらえたらと思います。外国のものと言っても、私たちは口当たりのよいものから手にとりがちですが、そうではないものも含めての多文化です。異質なる他者を通して、私たちは自分を知ることにもなります。ここに並べた本の中の「物語」が、新たな出会いのきっかけになれば嬉しいです。
ちょっときばっていますが、基本は、「翻訳児童文学、おもしろいのになあ」という気持ちです。この80冊あまりの本だけでも、たくさんの窓が開くことでしょう。

7月10日の午後4時までですので、お近くにいらしたらのぞいてみてください。
お待ちしています!


2015年5月30日土曜日

翻訳者が選ぶ世界の子どもの本

池袋のジュンク堂書店、1階エレベータ前の大きな平台で、来週後半からフェアが始まります。それに合わせて、6月20日(土)、選書をした4名で下記のトークをさせていただけることになりました。

もとはと言えば、昨秋、Maruzen&ジュンク堂書店梅田店で、ひこ・田中さんのお声がけで大きな棚をもらい、解説を書き、本を並べていただいたのが始まり。
「東京でも!」の声があがり、仕切りなおして、新たに選びなおした本でフェアとなりました。ジュンク堂さん、ありがとうございます!
トークは、まだお席があるようです。ご興味のある方、どうぞお出かけください。

「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」
ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年06月20日(土)19:30 ~  詳しくはこちら
入場料1000円。要予約。TEL 03-5956-6111。

さくま ゆみこ(翻訳家)
宇野 和美(翻訳家)
野坂 悦子(翻訳家)
那須田 淳(作家・翻訳家)

海外作家の本には、日本とは異なる価値観や視点があります。
とくに、自分ではなかなか「外」へ出られない子どもにとって、本は大切な「窓」にもなります。
この窓のむこうにある景色へ想像の翼を広げれば、違う世界を経験することができ、
解放され、本当の自分を見つけて成長していけるのです。閉塞感の増す今の日本の状況のなかで、
それぞれ別の専門言語を持つ4名が、世界の子どもの本をもっと読んでほしいと、思いを語ります。

★トークセッション終了後、サイン会あり。

2015年5月28日木曜日

映画『スリーピング・ボイス』

ゴールデンウィークに、新宿のK's Cinema で『スリーピング・ボイス』を見てきました。

1940年、つまり内戦終結の翌年のスペインが舞台。フランコ政府が反政府勢力の撲滅に力を注いでいた頃です。この映画は、アンダルシーアから、ただ一人の身よりである姉が収監されたマドリードにやってきた娘が、なんとか姉を助けようと奔走する物語ですが、この主人公の女の子も、せつないほど気丈なお姉さんも実に魅力的。それ以外の女性たちも、多面的に描かれていて奥行きがあります。
私が見た日は上映後に、配給元の比嘉セツさんと、作家の星野智幸さんの対談があり、そこで比嘉さんが、この映画のおもしろさは、その時の状況を女性の視点で描ききっていることにあると言われて、なるほどと思いました。確かに、日本で紹介されている文学でも、こういったテーマのもので女性を主にした作品はわずかです。

スペイン内戦は1936年から39年。その後、フランコの独裁が1975年まで続くわけですが、今回、この映画を見て、「戦後」という言葉の持つイメージが、スペイン内戦後の実像を見えにくくしているのではないかと、はたと思いました。「戦後」というと、日本人は平和を想起しがちですが、スペインの内戦後というのは、言ってみれば、日本の戦前の状態。治安維持法ととりしまりの時代です。

また、この時代の「声」と「沈黙」について、再び考えされられました。
戦後スペインを代表する女性作家アナ・マリア。マトゥーテの子ども向けの作品、『きんいろ目のバッタ』(偕成社、絶版)には、口のきけない少年が出てきます。この作品について、長田弘さんは『読むことは旅をすること』(平凡社)の中で、「市民戦争の後、ナショナリズムがスペインぜんぶを渫(さら)ったフランコのスペインの時代に匿されていた、ブレナンのいわゆる「スペインの本当の声」のありかを、親しい秘密をつたえるように伝えた本」と評しています。
声をあげられないことは、この時代を知るキーワードのような気がします。

フランコ時代を舞台とする児童文学に、拙訳のエリアセル・カンシーノ著『フォスターさんの郵便配達』(偕成社)という作品があります。これについて、ネット書店で、「全体を通して、政治的な事柄や敗戦した側の心情をもう少し突っ込んで説明してもよかったのではないかと思いました。特にイスマエルを通して内戦後の社会の混乱を説明するくだりで、11〜12歳に語るのであれば、(もう少し大人の言葉でも)理解できるのにと強く思い、物足りなさを感じました。読者もその辺は敏感に感じると思います。」というコメントが載りました。
だって時代が違うのに、と私は思いました。この時代、そこに生きていた者たちが、直接的な表現で説明することができただろうかと。日本の戦後とは違うのです。

しかも、内戦と言っても、みながみな、自分の信条にそって戦ったわけでもありません。比嘉さんも語っていましたが、なんらかの仕方のない事情で、生きのびるために違う側で戦わざるを得なくなった人たちも少なくありませんでした。
フアン・ファリアス著『日ざかり村に戦争がくる』(福音館書店)では、反乱軍側の兵士にさせられないために、山にこもる男たちが出てきます。山にこもった者たちは、単に自分の愛する者たちに銃を向けたくなかっただけ。なのに、結局見つかって殺されます。

こういった時代を背景にした名作『黄色い雨』『狼たちの月』で知られるフリオ・リャマサーレスのTanta pasión para nada (激しくもむなしい情熱)という短編集の中にEl médico de la noche(夜の医者)という作品があります。民政移管後、レジスタンスをめぐる国際会議が、ある山間の村で開かれ、その何回目かの会議の際、当時のマキス(レジスタンス)の所持品が展示される。それを見たある老女が、自分の娘の命の恩人であるレジスタンスの若者が、政府軍の待ち伏せ作戦で亡くなっていたのを知るという物語です。老女は、自分の娘がレジスタンスの若者に救われたという事実を、その展示会を見るまで、共に立ち会った夫以外の誰にも話しませんでした。フランコ時代はもちろん、民政移管後も。フランコの恐怖はそれほど強いものだったのだとリャマサーレスは結んでいます。
「スリーピング・ボイス」を見て、この作品のことも思い出しました。あの時代の、どれほどの恐怖があったのか、この短編は私たちの想像力を押し広げてくれます。

映画好きな方なら、『パンズラビリンス』や『ブラックブレッド』も、改めて見てみるとおもしろそう。
それにしても、比嘉さんは、なんと次々と、さまざまな視点を投げかけてくれることか。今回もこの映画に出会えて感謝です。

映画『スリーピング・ボイス』は、新宿のK's Cinemaで6月12日まで。


2015年5月27日水曜日

奨学金をとろう

バルセロナの日々(5)

 もうひとつの問題は、奨学金だった。
 スペイン留学のガイドには、3つの奨学金が紹介してあった。しかし、応募資格を見ると、かろうじて可能性がありそうなのは、スペイン外務省の奨学金だけだった。かろうじてと書いたのは、応募要件に「36歳までが望ましい」とあったからだ。私は年齢がオーバーしている。でも、「まで」ではなく、「までが望ましい」だもの、望みがあるかもしれない。
 そこで、この奨学金で留学したことのある大学時代の友人にたずねてみた。彼女によれば、当時もこの条件はあったが、かなり年配の合格者もいたらしい。
 よし、それならものはためしだ。
 請求していた募集要綱が大使館から送られてきたのは1月はじめ。応募の締め切りは3月末日。スペイン語で用意しなければならないさまざまな書類があった。
 ひとつ困ったのは、提出すべき応募書類の中にある、スペイン語能力検定の証明書がなかったことだ。だが、問い合わせてみると、ないのは不利だが、応募ができないわけでないことがわかり、一安心した。
 書類のメインは、研究歴や職歴、留学計画の概要などを書いた申請書と、それに添える研究計画書だ。「行かせてやろう」と審査員が思ってくれるようにまとめなければならない。これには、何かと企画書を出させたがる職場で、曲がりなりにも7年勤めた経験が役立った。
 もちろんスペイン語の表現力も試される。そこで、ひととおり書いたものを、友人のモンセ・ワトキンスに見てもらうことにした。モンセは、鎌倉に住み、日本文学の翻訳のかたわら、在日日系人のルポルタージュなども書いている、バルセロナ出身の女性だった。人間的で理性的な彼女の視点を深く信頼していたから、今回の留学について彼女がどんな意見を持つかも知りたかった。
 待ち合わせの鎌倉駅に、自転車を押しながら、紺の作務衣で現れたモンセの姿を今でもはっきりとおぼえている。早春のうららかな日だった。そばやで腹ごしらえをしているとき、私は切り出した。
「カタルーニャ語がとっても不安だけど、どうしてもバルセロナ自治大に行きたいの」
 すると、モンセは大きな目をあきれたように見開いて言った。
「手紙をもらったときから本気かなと思っていたけど、本当みたいだね。でも、カズミ、無理だよ。カタルーニャ語はスペイン語よりラテン語に近くて、語彙も音も違う。なんでマドリードやサラマンカにしないの? そのほうが子どものためにもいいよ」
「自治大の先生がいちばん興味のある研究をしているの。読むのはすぐできるというし」カタルーニャ語も繰るモンセの即座の否定的意見にかなり動揺しながらくいさがった。
「がんばろうというのはわかるけど、これは努力の範囲を超えてる。思ったことができないと、苦しむのはカズミだよ」
 そうだろうか。私はただ意地をはっているのだろうか。
 食事がすむと、小町通の入り口にある昔風の喫茶店に移った。私はなんだか心細い心地で、書類の文字をたどるモンセの手元を目で追っていた。すると、モンセがいきなり笑い出した。「年をくっているけれども、学びたいという意欲はかえってあるつもり」と、留学への意欲を訴えた箇所にきたときだった。
「『年をくっている』ねえ……。その年になって、子どもを連れてでも勉強しに行くというのは、若いときの留学の何倍も貴重なことだよ。私はたいへんだと思うし、別の場所にしたほうがいいと思うけど、そこまで言うなら、がんばったら」
 このときの、モンセのあたたかなまなざしを思い出すたび胸がいっぱいになる。これがモンセと会う最後となったからだ。モンセは私が留学中の2000年秋、ガンが再発し帰らぬ人となった。
「ほんとにたいへんだった。でも、行ってよかったよ」と、一番に報告をしたい人のひとりがモンセだったのに。

 書類が整い、投函したのは3月20日頃だった。
 書類審査に通れば、4月になって連絡があり、面接に進めるらしい。何人受けるのかも、何人受かるのかもわからない。でも、倍率は気にならなかった。「研究計画書」に、書けるだけのことは書いた。やれるだけのことはやった。落ちたらくやしいけれど、悔いはない心境だった。



2015年5月6日水曜日

行き先さがし

バルセロナの日々(4)

 行けるかどうかを調べると言っても、いったい何から手をつけたらよいのだろう。
 決めたいことはふたつあった。ひとつは行き先。もうひとつは奨学金。
 子どもを連れていくのだから、住む場所や子どもの学校など手配が必要だ。あらかじめ行き先が決まっていなければ始まらない。単身の留学ならいざ知らず、行きあたりばったり、ともかく行ってから考えるというわけにはいかない。
 それに、児童文学はどこででも勉強できるものではない。勉強できるかわかりもしないで、行くのは暴挙だろう。
 一方、奨学金は、資金面のほかに、説得材料としてどうしてもほしかった。
 いきなり留学と言っても、だれが賛成してくれるだろう。奨学金をとれたなら、少しは留学を正当化できるし、ちゃらんぽらんな気持ちでないことが示せる。

 スペイン留学のガイドブックを読むと、スペイン語学留学という場合、行き先はたいてい、大学の1年履修の外国人コースか、公立や私立の語学学校のようだった。それ以外の情報はほとんどのっていない。だが、どちらも私が求めているものではなかった。子どもを連れていくのに、それだけでは足りない気がした。
 そこではじめに思いついたのは、その前年旅行で訪れた、サラマンカのヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団、国際児童図書センターだった。アナヤという大手出版社の創業者ヘルマン・サンチェス・ルイペレスが、青少年の読書推進を目的として、ミュンヘンの国際青少年図書館をモデルに1985年に設立した、スペインの児童文学研究の要とも言うべき機関だ。
 ミュンヘンの国際青少年図書館では日本の研修生を受け入れているという話だから、ひょっとしてサラマンカの国際児童図書センターも同様の制度があるかもしれない。1年なりあそこに身をおいて勉強できたらどんなにいいだろう。
 けれども、問い合わせへの答えはノー。数週間なら可能かもしれないが、何か月という単位での受け入れは前例がないし、日本やアジアがらみの仕事はないとのことだった。
 次にあたったのが、「読書へのアニマシオン」の著者サルト氏の率いるエステル協会だった。エステル協会は、スペイン文部科学省の要請で、「読書へのアニマシオン」の指導者講習のほかに、児童文学の専門家養成講座を開いていると聞いている。全部で200時間の大学院レベルの講座だそうだ。
 けれども、いくら催促しても返事は来ず、ノーと判断された。あとでわかったのだが、その養成講座は短期のプログラムで、継続的なものではないようだった。

 どうしよう……。
 ここにきてやっと私は、一か八か、大学で児童文学関係の研究をしている先生にあたってみようと決心した。
 目的からすれば、真っ先にここにアプローチしてもよさそうなものだ。なのに、なぜ二の足を踏んでいたのかと言えば、ひとつには、大学への正規留学はむずかしいと留学ガイドブックにあったからだ。それに、何の面識もない名の通った先生に、いきなり連絡することへの気後れもあった。
 でもほかにあてはないのだから、あたって砕けろだ。
 以前から目をとめていた3人の児童文学研究者の連絡先は、調べるとあっけなくわかった。ヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団のレファレンスサービスで教えてくれた。
 どの先生からあたろうか。
 一番ひかれていたのは、バルセロナ自治大学のテレサ・コロメール教授だった。3人のうちの唯一の女性で、発表された文章を読む限り、私が関心のある児童読み物についていちばん詳しかった。
 それに、バルセロナだ!
 「スペイン」に住めればいいと言いながらも、心の底の底には、せっかくなら「バルセロナ」がいいという思いがあった。バルセロナは、1983年に卒業旅行の一人旅ではじめて訪れて以来、いつかは住んでみたいとあこがれ続けてきた町だった。
 でも……。バルセロナで本当に大丈夫かなあ。
 バルセロナは、スペイン語とカタルーニャ語のバイリンガル地域だ。子どもたちの学校の授業もカタルーニャ語。自分だって話せないカタルーニャ語の言語圏に子どもを連れていくなんて、無謀すぎやしないか。ちんぷんかんぷんの言葉がいっぺんにふたつも飛び込んできたら、子どもたちはどうなってしまうだろう。
 でも、実を言うと、カタルーニャ語は前々から学びたかった言語だった。カタルーニャ語の児童文学にも興味があった。
 ここでコロメール教授にあたってみなければ、一生後悔する。返事がくるかどうかわからないんだもの。ともかく問い合わせてしまおう。 
 今ほどメールが普及していない時代だった。いきなりメールは失礼な気がして、ファックスで手紙を送信した翌日、コロメール教授からメールで返事が届いた。
「手紙を読みました。それならうちの大学院で2年間勉強してはどうですか。中南米からの留学生はじきにカタルーニャ語をマスターしています。スペイン語が身についているなら大丈夫でしょう」
 やったー! 信じられない気持ちで、ノートパソコンに届いたメッセージを何度も何度も読み返した。
 大学院で2年? 大丈夫かな。2年なら長男が中学にあがらないうちに帰ってこられる。うん、大丈夫だよ。よーし、行ってしまえ。
 奨学金がとれようがとれまいが、9月には絶対バルセロナだ、と私の心は決まった。年が明けた1999年1月末のことだった。


2015年4月25日土曜日

迷いをふりきって

バルセロナの日々(3)

 いや、むしろ最初は、「連れてっちゃえ」というよりも、「連れていくっていうのも、もしかしてありかな?」くらいの気持ちだった。
 そう思い至ったのには、実は現実的な理由があった。
 いくらかまとまった自己資金があったのだ。結婚前にためたお金をつっこんであった10年満期養老保険が、その年の春に満期になっていた。何か大事なことに使おうと思っていたお金。1年間(この時点では、留学は1年のつもりだった)子どもと留学できるくらいの額はあった。お金の工面に奔走しなくていいのは、大きな強みだった。

 けれども、本当に子どもを連れていってよいものだろうか。
 幼い頃の海外経験は、きっとかけがえのないものになる。翌年から1年連れていったとしても、帰ってきたとき上の子は小学校5年生。中学受験の予定もなし、勉強はなんとかなるだろう。けっしてマイナスにはならないはず。
 でも、そんなにうまくいくものだろうか。都合よく考えすぎてはいまいか。3人とも、スペイン語はおろか、外国が何かすらわかっていない。どのくらいで話せるようになるのだろう。言葉がわからないのはきついだろう。友だちと別れさせるのもつらい。母親の身勝手で、子どもたちによけいな努力を強いてよいのだろうか。
 そんな迷いの真っ只中で出会ったのが、次の文章だった。
 須賀さんが私の目をのぞきこんで、いつにない語気でいったのを思い出す。「あなたみたいな人は一度は外に出るべきよ。子どもたちも少し大きくなったら、 じゃなければ三人連れてってもいいじゃない。どうにかならないの」(『追悼特集須賀敦子 霧のむこうに』(河出書房新社)所収 森まゆみ「心に伽藍を建てたひと」より)
 タイトルからして「これは!」と思った。
 須賀さんの『ヴェネツィアの宿』という本の中に、「大聖堂まで」という章がある。そこで須賀さんは、大学院の女ともだちとの議論はほとんどいつも「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのか」ということに行きついたと回想し、さらに、そのころ読んだ「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」というサン=テグジュペリの文章に揺り動かされたと綴っている。須賀さんの文章の中でも一番好きで、何度も何度も読み返してきた箇所だった。
 そこに持ってきて、「いつにない語気で」だ!
 自分が「あなたみたいな人」にあたると思ったわけではない。けれど、外国に住むのに、3人の子を連れていくという選択肢もある、少なくとも子どもにとって悪いことでない、と肩を叩かれた気がした。
 よし、もう子どものことで迷うまい。子どもたちにも得るものがあると信じて連れていこう。
 私は本腰を入れて、スペインに行けるかどうかを調べ始めた。

2015年4月19日日曜日

パン・コン・トマテ(パ・アン・トマカッ)にいいトマトは?

昨日は、セルバンテス文化センターで「サン・ジョルディの日」でした。

午前の読み聞かせで読んだのは、バルセロナ在住のイラストレータ―、アルバ・マリーナ・リベラの絵本2冊。
『パパのところへ』(ローレンス・シメル文/岩波書店)
En casa de mis abuelos (texto: Arianna Squilloni, Ekaré)
このところ、カタルーニャものは翻訳していないので、ちょっとムリやりっぽいカタルーニャつながりですが、右の本は、風景がカタルーニャのmasía(田舎家)ふうで、すてきでした。


午後の読み聞かせは、こちら。
El rei de la casa (texto e ilustración: Marta Altés, Blacky Books)
『ピトゥスの動物園』(サバスティア・スリバス文/スギヤマカナヨ絵/あすなろ書房)
左の絵本は、英語版もありますが、作者はカタルーニャの人で、カタルーニャ語版もあります。ちょうど先週、バルセロナに帰っていた知人に、買ってきてもらいました。とってもかわいいお話。
『ピトゥス~』は、1960年代に書かれた古典的作品で、カタルーニャではもう50年以上も読みつがれているお話です。さわりだけ日本語で読んで、紹介しました。




すごくうれしかったのは、バルセロナ留学時代に1年間同居してくれていた若い友人(あとで留学記にも登場します)が、ご主人と小さな息子さんと一緒に来てくれていたこと。もう10年近く会っていなかい彼女が思いもかけず現れて、まだドキドキしています。

さて、なかなか肝心のトマトの話にならず、ごめんなさい。
昨日のイベントで、パ・アン・トマカッの指導をしてくれたレストランBIKINIのバラオナさん、「使うトマトは、日本ならどれがいいですか?」の質問に、「日本の野菜は見た目はいいけど、味はいろいろ。普通のトマトは味がないけど、フルーツトマトだと甘すぎる。ミニトマトとか、もう値段がさがっているような熟れすぎたトマトがいい。ガスパチョのときも、普通のトマトとフルーツトマトを半々でまぜたりします」と説明してくれました。
バラオナさんが育ったリェイダあたりでは、どのうちも保存のきく種類の真っ赤なトマトを育てていて、台所に吊っておくそうです。そうすると、外はきたなくなっても、中はみずみずしくて、冬まで楽しめると。
味の濃い中玉トマトもよさそうですね。書いているうちに、食べたくなりました。
明日はパンを買ってこよう!

先日別のイベントで出会って話をした方が遊びにきてくれたり、バストネスの踊りを教えにいらしていた方とお話できたり、いろんな再会、出会いがうれしい1日でした。

2015年4月18日土曜日

留学してしまえ!

バルセロナの日々(2)

 それにしても、学生や学者でもあるまいし、なんでまた留学しなければならなかったのか。
 一度外国に住んでみたいという気持ちは、さかのぼれば高校時代からあった。けれど、思い切れないまま、大学を出、就職し、結婚し、子どもを持った。あーあ、一生外国暮らしとは縁がないのかと、思ったものだった。
 心の底に押しこめていた日本脱出願望が再燃したのは、長男出産後、本格的に翻訳にとりくみだした頃からだった。やっぱり留学してみたい! 翻訳を一生の仕事にしたいという意志がかたまるにつれ、このままでいいのか、という思いがふくれあがっていった。
 現地の経験がないのは大きなコンプレックスだった。旬の野菜や果物の味、季節ごとの風や光の感じ、町の景観や匂い。そういったことを実感として知らないままの翻訳は、ためらいと不安があった。文字にあらわれない人々の表情や仕草、声の調子など、想像の土台となる体験がほしかった。
 会話ができないのもつらかった。読むのはよくても、話すとなると腰がひけた。翻訳に携わるなら、外国から作家を招いたとき案内できるくらいしゃべれないとなあ、という思いがあった。
 翻訳修行を始めてから、旅行で2回スペインに行きはした。一度目は、末の子がおなかにいた1994年春、翻訳中の作品の著者に会いに。2度目は97年秋、児童図書館とブックフェアを見るため。一度目のとき恩師から、「作家に会ったりしたら、こんなにスペイン語のできない人が自分の作品を訳すのかと、がっかりされますよ」と、さんざんイヤ味を言われた。実際、会話力のなさには、ほとほと泣かされた。
 それに、旅行は所詮旅行だった。留学が無理だからと、子どもの世話を母や家人に頼みこんで駆け足で旅行をしても、できることは限られている。腰をすえて勉強したいという思いがかえってつのった。
 スペインのことをもっと知りたい。スペインの児童文学を理論的に語れるようになりたい。自己流でなく、一度きちんと勉強したい。現地の書店や図書館で本をじっくりとさがしてみたい。スペイン語を話せるようになりたい。
 だけど、どうして留学なんかできるだろう。
 子どもはどうするの? だれが面倒を見る? 
 留学と言うと、まずネックになるのは子どもだった。第一、つれあいがうんと言うわけがない。両親も卒倒ものだ。子どもの友だちの母親たちや近所の人からも、どんなふうに言われるだろう。
 やっぱり、子どもが高校を卒業するくらいまで待つしかないか……。
 でも、行きたいなア。住みたいなア。勉強したいなア。
 留学願望の内圧が、そんなふうに高まりきった1998年夏の終わりか秋のはじめだったろうか。はじけるように、「じゃあ、子どもも連れてっちゃえばいい」という考えがひらめいた。
 そうだよ、連れてっちゃえばいいんだ。どっちみち子育てはほとんど一手に引き受けてるんだもの。日本にいようが、外国にいようが同じじゃないか。小西章子さんが『スペイン子連れ留学』を著されたのは、もう20年以上前のことだ。行けない、行けないと、うじうじうらめしそうにしけた顔をしているくらいなら、いっそ、飛び出してやってみればいい。
 これがすべての始まりだった。

2015年4月15日水曜日

サン・ジョルディの日

4月23日はサン・ジョルディの日。
バラと本を贈りあうカタルーニャのお祭りですが、4月18日(土)に、セルバンテス文化センター東京でもお祝いをします。11:30から16:00まで。

ここ数年私も、読み聞かせで参加していますが、今年は11:45と14:15の2回、ちょこっと登場します。

カバで乾杯をしたり、『ピンチョス360°』の著者であるジュゼップ・バラオナさんの指導でパン・アン・トゥマカット(トマトをぬったパン)をつくったり、大人も子どもも楽しめるプログラムのようです。お時間のある方、どうぞ遊びにきてください。

14:15の読み聞かせでは、カタルーニャ児童文学の古典『ピトゥスの動物園』El zoo d'en Pitus の一部を読み、その後、日本語版の販売もします。
翻訳出版されて、すでに10年近くたちますが、国語の教科書にも掲載されていて、「うちの子、あの本、大好きでした」とよく声をかけていただく本です。

くわしくは、こちらをどうぞ。
http://tokio.cervantes.es/FichasCultura/Ficha98561_67_25.htm

2015年4月11日土曜日

バルセロナの日々(1)

到着!

 とうとう来てしまった。
 1999年9月7日。バルセロナはプラット空港におりたった私は、真夏のような日差しを受けて青空に映えるヤシの木をあおぎ、大きく息を吸いこんだ。3人はリュックをしょって、私によりそうように立っている。
 一番大きいのが長男のケンシ、小学4年生。3年間の学童保育生活のあと、少年野球チームに入り、自由な放課後を満喫していた遊びざかり。真ん中は長女アキコ、小学1年生。小学校にも慣れ、ピアノを習いはじめ、一輪車をおぼえたところ。一番チビは次男タイシ。夜はオムツパンツのお世話になっている、保育園の4歳児クラス。
 2年半にわたるバルセロナでの母子4人の暮らしの始まりだった。

 渡航の目的は留学だった。夫ではなく私が、10月から2年間、バルセロナ自治大学大学院に籍を置くことになったからだ。
「3人の子を連れ、夫を日本に残してスペインに留学」と言うと、渡航前も、滞在中も、帰国後も、たいがいの人が仰天した。無理もない。普段ほとんど子どもがらみで接している近所の母親層の目にも、私が3人の子持ちであることを知っている仕事関係の知人の目にも、私は留学の可能性から最も遠くにある人間だっただろうから。
 仰天の次には、各種のリアクションがあった。ポジティブなもの、ネガティブなもの、どんなものかは容易に想像がつくだろう。
 けれども、どんな反応があろうと、留学するという私の決心は変わらなかった。公表した時点で、心が揺らぐ段階をとっくに通り越していたからだ。
 学生じゃあるまいし、留学は、決まりもしないうちからだれかれとなく吹聴するような話題ではなかった。こういうことは、ひそかに準備を整え、ある程度決まってからまわりに言うというのが一般的だろう。とはいえ、いったん準備にかかれば自然と人とかかわるし、最低限の人にしか告げないつもりでも、だんだんと周囲に知れていく。実際、子持ちだとよけいに、隠したいのに言わざるをえない機会があるようだった。だから、「やっぱりやーめた!」とは次第に言いにくくなる。外の目を意識しつつ、ますますやっきになって実現のめどをつけようとする。そうして、ようやく人に話してもいいところまでこぎつけた。
 何を言われようと、今更という気持ちだった。気持ちが乱れこそすれ、やめようとは、口がさけても言う気にならなかった。
 やりたいこと、見たいこと、体験したいことが山のようにあった。
 当然不安もあった。同じくらい、いや、それ以上にあった。子どもたちはだいじょうぶなのか、そもそも自分たちは暮らしていけるのか、勉強は本当にできるのか、子どもも私もスペイン語を自由に話せるようになるのか、あげだしたらきりがなかった。
 でも、行こうと決めたときから、私には前進しかなかった。心配だ、心配だと言っていても始まらない。安心するにはどうすればよいかを考えて、外堀をかためていった。何かがうまくいかなかったとしても、それですべてが終わるわけじゃない。状況を見ながら、次々と出現する選択肢を選び選びここまできたし、これからもそうしていくつもりだった。
 もちろん、がんばってもどうにもならないことだってあるかもしれない。でも、そのときはそのときだ。がんばって、がんばって、本当にダメだと思ったら、日本に帰ろう。見極めの基準は子どもたち。子どもたちがスペインにいられないと見たら、いさぎよく日本に帰ろう。

 不安や迷いをはらいのけながら走りだし、勢いでころがりこむように来てしまったスペイン。
 子連れの海外生活は、若い留学生の自由さとも、紀行作家の気ままさとも無縁だった。飲みにも行くことも映画を見ることもほとんどなく、クラスメートとおしゃべりに興じる時間も思いどおりにならなかった。週末に観光名所を訪れる機会も、勉強の時間も限られていた。
 けれども、子どもは制約となる一方で、窓だった。「オンナ子ども」の私たちには、家庭と地域にぐっと開かれた暮らしがあった。企業というしがらみなしに、出会った人たちと個人と個人で向き合うことができた。子どもや母親たちの素顔、人々の生活ぶり、四季折々の味や楽しみ……、それは、翻訳に携わる私がいちばん見たかったものだった。
 帰国後、当時のことを書いてみてはと、冗談半分に声をかけてくれる友人がいた。けれども、子どもたちをだしにするようで抵抗があった。ところが、ほとぼりがさめるにつれ、気が変わってきた。当時のことをずんずん忘れていく子どもたちを見ているうちに、言葉にして残しておきたいという気持ちがむくむくと頭をもたげてきたのだ。どうしてバルセロナに向かったのか、バルセロナで私たちはどんなふうに暮らし、何を見て、何を思い、何を感じてきたのか。
 記憶の中で、そこだけ陽光に包まれているような2年半。朝、ベッドで目覚めたとき、「ここはバルセロナなんだ」と思うと、それだけで元気が出たキラキラとした日々のことを、思いだしながら綴っていこうと思う。

2015年4月10日金曜日

改めましてこんにちは! 

2年前まで、どうにかこうにかブログを書いていたのですが、このところFacebookに書き散らすばかりで、個人的なまとまった文章を書けなくなっていました。
でも、やっぱり書いてみようという気持ちになった裏には、昨今のネット環境があります。
読者が読んで感じたことに対して、訳者がぐだぐだと裏話を書くのは恥ずかしいと思う一方で、スピードの速いネットで矢面にさらされ、すぐさま「過去」に置き去りにされていく事物の盛衰を見るにつけ、黙っていられなくなりました。訳した以上、できる限り作品を護りたいというのは人情でしょう。原作者のことや、作品の背景など、スペイン語ではダイレクトな情報を得られる人は限られています。もっともっと発信は必要かなと思い至りました。
しょせん、翻訳者が訳書の外で言うことは「言いわけ」という自戒をこめつつ、ぼちぼち更新していきます。
読んでくださってありがとうございます!