2021年8月13日金曜日

グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』


『赤い魚の夫婦』
グアダルーペ・ネッテル著
澤井昌平装画
現代書館
2021.8.31

         表題作に出てくる赤い魚ベタは扉に。       
初めての子の出産を迎えるパリの夫婦と真っ赤な観賞魚ベタ、メキシコシティの閑静な住宅街の伯母の家に預けられた少年とゴキブリ、飼っている牝猫と時を同じくして妊娠する女子学生、不倫関係に陥った二人のバイオリニストと菌類、パリ在住の中国生まれの劇作家と蛇……。
メキシコシティ、パリ、コペンハーゲンを舞台に、夫婦、親になること、社会格差、妊娠、浮気などをめぐる登場人物たちの微細な心の揺れや、理性や意識の鎧の下にある密やかな部分が、人間とともにいる生き物を介してあぶりだされる。(版元ドットコムより) 

 

 私にとって初めての、ラテンアメリカ文学の翻訳です。 

 一昨日、見本を受け取り、ときどき手にとって表紙をなでているうちに、いくつもの偶然が重なってこの本がここにあることを改めて思い、人生の不思議に打たれています。

 後書きにも書いたのですが、この本は、イギリス人の若い翻訳家が激賞しているのを見て手にとりました。ですが、そもそも、そのイギリス人の翻訳家に出会ったのは、2012年の夏にロンドンで開催されたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会でした。児童文学関係の大会です。

 IBBYの世界大会は2年に1度開催され、2010年はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラで、2014年はメキシコシティで開催されました。参加はすべて自費なので、大会参加費や航空運賃、宿泊費などを含めると、相当な負担になります。2010 年と2014年はスペイン語圏だから参加するけれど、ロンドンは行けないと思っていた大会に仕方なしに参加したのは、東日本大震災以降の日本の被災地での読書活動のことをJBBYが大会で発表することになり、その準備に深くかかわっていたからでした。

 その大会プログラムの中に、拙訳書『ベラスケスの十字の謎』(徳間書店)の作家、スペイン人のエリアセル・カンシーノさんの作品の一部を2人のイギリス人の翻訳家が翻訳し、その訳文を比べてみるというセッションがありました。そのときの翻訳者の1人が、ロザリンド・ハーヴェイさんでした。ロザリンドさんの翻訳にひかれるものがあったので声をかけてみると、彼女は普段は児童文学ではなく一般の文学を訳していることがわかりました。Facebookで友だちになり、彼女の投稿からネッテルの作品に出会ったというわけです。JBBYでヒーヒー言いながらボランティア仕事をし、自腹を切ってロンドンに行かなかったら、カンシーノさんと親交がなかったら、私はネッテルにあのタイミングで出会わなかったかもしれません。

 そして、もう一つの偶然が起きたのは2017年7月6日のことです。その日私は、メキシコの大手出版社の版権担当者に頼まれて、メキシコ大使館で「ラテンアメリカの子どもの本出版事情と翻訳者」という演題で15分ほどの発表をしました。こちらも児童文学関係です。そもそもメキシコの出版社の人とはつきあいが浅く、ノーギャラだし日程もきつかったので断ってよさそうな仕事だったのですが、パワーポイントを作り、日本語で準備しました。

 発表は、当日突然、日本語のあとにスペイン語を入れて、逐語通訳の形式でやれと言われて焦りまくり、結局スペイン語訳をまったくつけられないまま、日本語で言うべきこともすっとばし、さんざんだった思い出しかないのですが、帰り際にメキシコ大使館の方から「最後までいられないが、名刺を渡してくれと頼まれた」と言って手渡されたのが、編集者の原島さんの名刺でした。そこで連絡してみると、「読み物、特に女性の作品を紹介していきたい」と私が言ったのを聞いて、「女性作家のもの、やりましょう」と言ってくれて、やりとりが始まりました。

 ネッテルのこの作品は、原島さんに出会う前に、海外文学のシリーズを持つ版元にもアプローチしましたが、すべてボツになりました。私には縁がないのかなと思ったこともありましたが、「もう終わり」と思わない限り、終わりにはならないのかも。

 最速最短で目的地に至ることが推奨される現代にあって、極めて効率の悪い、遠回りのプロセスをたどって行きついた企画だったわけですが、それがこんな果実につながるとは! 何が幸いするか、わからないものです。「こうすれば、こうなる」みたいにマニュアル化できないところにも、何かがひそんでいることがあるのですね。

 内容と関係のないことばかり書いてしまいました。要するに、ただただうれしいです。

 しかも、メキシコに詳しい小説家の星野智幸さんに、すばらしいコメントを寄せていただきました。ありがとうございます! 

 今のメキシコ、ラテンアメリカの女性文学の新しい鼓動を感じてください。

 裏話にここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。

ネッテルにもらった短編集(後書きにエピソードあり)

 ネッテルのサイン。