2020年9月6日日曜日

『アコーディオン弾きの息子』


『アコーディオン弾きの息子』
ベルナルド・アチャガ著
金子奈美訳
新潮社、2020 

「書いてくれて and 翻訳してくれて and 出版してくれてありがとう!」と心から思った。「おもしろかった」「読んでよかった」といった言葉では、とても言い尽くせない。圧巻だった。

 たてこんでいた仕事がようやく片付いて読み始めたら、途中でやめたくなくて、仕方なく翌日においておくと、また物語の世界に戻りたくてたまらなくなり、貪るように続きを読み、というふうにして、550ページを一気に読んだ。
 備忘のため、読みながら思ったことを書いておきたい。

 スペインの作家エルビラ・リンドが来日したとき、「英語圏の作品なら、片田舎が舞台の作品も海外に紹介され歓迎されるのに、スペインの現代文学は、舞台がマドリードでも、そんなローカルな話と片付けられる」と嘆くのを耳にした。
「読者になじみがないからねー」と言って持ち込みがボツになった無数の経験から僻み根性がしみついている我が身には、リンドの言葉は痛切だった。
 けれども、この作品を読んで、ローカルはユニバーサルなのだと、改めて思った。中途半端ではなく、とことん一箇所をつきつめたとき、そこに普遍が見えてくる
よい作品はそんな二分法など飛び越えてしまうのだと。

 主人公ダビは、父親アンヘルが内戦時代に村人殺しに関係していたことを知り、父親を受け入れがたくなっていく。
 この背景にある沈黙は、この時代のスペイン社会を象徴するものだ。反政府勢力に対する厳しい取り締まりが行われていた独裁時代、人びとは声をひそめて暮らしていた。自分が政治的にどちらの側なのか、だれも口に出して言うことはなかったが、日頃の人づきあいや暮らしぶりから互いに察しあい、普段はそこに立ち入ろうとしなかった。私が翻訳したYA文学『フォスターさんの郵便配達』(エリアセル・カンシーノ著 偕成社)も『ティナの明日』(アントニオ・マルティネス=メンチェン著 あすなろ書房)も、この「沈黙」の中で、大人たちが語りたがらない真実を見つけていく若者たちが描かれている。この時代の空気は、日本の戦前に一番近い気がする。
 なので、式典でアコーディオンを弾こうとしているダビに向かって、穏やかな伯父のフアンが発する「例の式典でスペイン国歌を演奏したら、お前も同じ目に遭うぞ。一生の汚名を着せられることになる、そのことを忘れるな!」(p.247)というせりふは衝撃的だった。オババで最初のアメリカ帰りの男をかくまった寡黙な伯父の言葉の凄み。
 スペイン国歌に今、歌詞がないことの意味を考えさせられる。

 それにしても、バスク語は、なんと謎めいた言葉だろう。カタルーニャ語やガリシア語はスペイン語と違う言語とはいえ、ラテン系なので、スペイン語話者なら、字面からある程度内容を知ることができる。けれど、バスク語はまったく想像がつかない。そのことが、カタルーニャとは違う深い陰影を形づくっているようだ。
 長年つきあいがある1961年生まれのバスク児童文学研究者に、児童文学を研究するようになったきっかけを何気なくたずねたとき、「自分は中学生くらいまで親にバスク語で声をかけられてもスペイン語で答えるような子どもだったが、高校生のときに自分たちの財産であるバスク語をどうして大切にしないのかという講演を聞いて、改めてバスク語を勉強し、そこからバスクの児童文学にたどりついた」と言われた。今になって、その言葉の意味を思う。

 訳者あとがきに「オババの村は、アチャガにとって、独自の語彙や論理、世界観を備えた一つの宇宙」(p.568)とある。《第一の目》《第二の目》で描かれる二つの世界をアイデンティティとすることはどういうことだったのか。父に手ほどきされたアコーディオンの重み。洋裁をするダビの母の姿。昨年訪れたバスク地方の緑豊かな風景、ドノスティア(サン・セバスティアン)やビトリアで会った知人たちから滲みでていた郷土愛を思い出しながら、さまざまなイメージを反芻している。
 深刻なばかりだけではなくて、景色や自然、望みや無謀さや屈託や悲しみなど微妙な感情が仄見える若者たちの会話、アメリカで再会した晩年のダビとヨシェバの冗談めかしたからみあいなど、ほんとうに豊かだった。

 私がスペインの児童文学を読み始めた1990年代、アチャガは児童文学でもバスクを代表する作家だった。Memorias de una vaca (ある牛の回想)は、スペイン内戦をYA小説でこんなふうに語るのかと驚かされた作品だった。そこで、代表作と言われている『オババコアック』をスペイン語で手にとったけれども、その時はあの世界を理解しきれなかった。でも、今回、これほど豊かな形でアチャガに出会えて、もう一度読んでみたくなっている。

 蝶とアコーディオンの装画がいい。