2024年4月18日木曜日

広瀬恒子さんのこと

 


 広瀬恒子さんが亡くなられた。

 広瀬さんのお名前をはじめてきいたのは、『ペドロの作文』(アントニオ・スカルメタ著 アルフォンソ・ルアーノ絵 アリス館 2004)が翻訳出版されたときだった。

「高く評価してくださった」と、編集者からきいてうれしかった。だけど、ご本人にお会いしたのは、もっとあとになってからだ。

 親地連(親子読書地域文庫全国連絡会)に呼んでいただいて、2012年6月に話をしたことがあったが、あのときは広瀬さんが代表だったろうか。

 日本子どもの本研究会の機関誌「子どもの本棚」2014年1月号(No.543)で、「スペイン語圏の子どもの本の世界 翻訳家宇野和美のしごと」という特集を組んでいただいたとき、広瀬さんは「子どもの可能性への信頼」という文章を寄せてくださった。そこでとりあげられていたのは、『ペドロの作文』と『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ作 鈴木出版 2011)だった。

『雨あがりのメデジン』に登場するマールさんという図書館員のことを「本当の司書ってマールさんのような人ではないかと共感させられた」と書かれている。この本のこと、マールさんのことは、会うたびに話題にしてくださり、ご講演でもとりあげてくださった。心許ない翻訳者にとって、そういうご縁をいただけたのは、とてもありがたいことだった。

 最後にお会いしたのは、東京外国語大学で非常勤講師をしていたときだ。コロナになる前の年かその前くらいか。帰り道の西武多摩川線で、ばったりお会いした。夜にかかる会合などには、もうお出にならなくなっていて、しばらくお会いしていなかったので、1駅だけだったけれどうれしくて、疲れもふっとんだ。

 訳書が出たとき、広瀬さんはどう読んでくださるだろうと考えずにはいられない、鋭く厳しく、そして子どもを大切にする読み手だった。広瀬さんのような方がいるから、いい仕事をしたい、いいかげんなことはできない、といつも思わせてくださる存在だった。

 子どもの本の翻訳をするようになって出会った、ふたまわりかそれ以上か年上の、一家言ある活動的な先輩の多くがあの世の人となっていき、いつのまにか自分も、当時の先輩たちの年齢に近くなった。

 今はただ感謝し手を合わせている。ありがとうございました。