2017年9月30日土曜日

補習校に行こう!

バルセロナの日々(21)


 小学校がはじまって1ヶ月。子どもたちのストレスは、日ましにふくらんでいった。
 ちんぷんかんぷんの言葉の中で、身振りや表情、数字や教科書の挿し絵など、わかるきっかけを探しながら毎日九時から五時までしのいでいるのだから無理もない。辛いだろうと思ったけれど、「辛いでしょう。ごめんね」とは、口にできなかった。言っても状況は変えられない。クレンフォルをやめさせるわけにはいかない。子どもが学校に行ってくれないと私は大学に行けず、スペインに来た意味がなくなってしまう。愚痴や弱音をききだしたら、きりがなくなりそうでこわかった。最初から無理は承知だったのだ。気の遠くなりそうに長いトンネルをいく気分だったけれど、後戻りはできない。いつかは外に出ると信じたかった。
 それにしても、子どもたちの負担を少しでも軽くしてやることはできないだろうか。

 10月半ば、やっぱり調べてみようと決心したのは補習校のことだった。
 海外の日本人学校には、土曜日、ウィークデーの学校と別の形で、日本人の子どもが集まるクラスがあるというのをきいたことがあった。バルセロナの日本人学校にも、そういうのがあるかもしれない。通わせられるかわからないけれど、ともかく調べてみよう。
 領事館で日本人学校の電話番号をきき、土曜日のクラスのことをたずねた。学校とはまったく別組織だが、日本人学校の校舎を使って土曜日にやっている補習校というのが確かにあるという。日本人学校は、私たちが住んでいるサルダニョーラの隣町、サンクガットにあった。
 問い合わせ先として教えてもらったのは、リコさんの電話番号だった。大学のあるベリャテラに住んでいるというリコさんは事情を話すと、「ともかく一度見にきたら?」とさそってくれた。「足がないなら、うちの車でのせてってあげるわよ」と言う。電話をしただけで、いきなり好意に甘えていいのだろうか。一瞬迷ったものの、場所もわからない日本人学校に1人では行けそうにない。この際、お願いしてしまえ。そんなわけで、翌々日の土曜日にさっそく見学することになった。

 土曜日、子どもたちは興奮ぎみだった。どういうことかよくわからないけれど、日本人、それも、ひょっとしたら自分と同じような年の子に会えるかもしれないというのだから無理もない。でも、ぬか喜びに終わったらかわいそうだ。「通えるかどうか、行ってみないとわからないんだからね」と、私は念を押した。
 リコさんにベリャテラの駅で拾ってもらうと、十分足らずで小高い丘の上にある日本人学校に着いた。手前にヒューレットパッカードの工場があるが、学校のまわりは広々とした草地だ。子どもを乗せた車が、次々と到着する。
「おはよう。元気?」
 日本語のあいさつがとびかう。それだけで、みるみるケンシたちの緊張がほどけていくのがわかった。

 補習校では、幼稚園の年中から中学生までの子どもたちが、国語を中心に、毎週土曜日3時間の授業を受けていた。保護者の手による自主運営の塾のようなものだ。
 子どもの大半は、日本人とスペイン人の国際婚ペアの子どもだった。ふだんから日本人の親と日本語で会話している子もいれば、そうでない子もいる。日本人学校は幼稚園がないので、就学前の子どもを連れてきている両親とも日本人の赴任家族もいたが、どっぷりと日本で育ってきた小学生は少数派だった。

 学校の概要やしくみなどは、一回説明をきいただけではよくわからないこともあったけれど、その日が終わったとき、ともかく通わせてみようと決心していた。
 というのも、子どもたちのそんなくつろいだ表情を見るのは久しぶりだった。思った以上に現地育ちの子が多く、子ども同士のコミュニケーションの意味では正直やや物足りない気がした。でも、何十人かの日本人が集まる環境の中で、子どもたちは、毎日の生活では見せない、穏やかな顔を見せた。
 通学は心配だったけれど、行き帰りタクシーでも通えないことはない。出費はかさむが、背に腹はかえられない。こういう場があるのを知った以上、通わせないわけにいかないではないか。
「困ったことがあればなんでも言ってくださいね。みんなが助けてくれるから大丈夫」という委員長のIさんの言葉にささえられて、土曜日の補習校通いがはじまった。

 でも、補習校で救われたのは、子どもたちではなく、実は私だった。
「ようやるわ、と思ってたよ」
と、そのあとさんざん世話になった、同じ町に住むクルコさんがあとで言っていた。
 私たちの事情を話すと、現地生活の長い日本人の保護者たちはびっくりし、その後、数え切れないほどの場面で手をさしだしてくれたからだ。この親同士のつきあいについては、思い出すたび胸がキュンとなるのだが、またあとであらためて触れたいと思う。

2017年9月14日木曜日

『エンリケタ、えほんをつくる』紹介情報1


 先月末に刊行になったリニエルス『エンリケタ、えほんをつくる』(ほるぷ出版)ですが、千葉市の児童書専門店「子どもの本の広場 会留府」のブログ「エルフ通信」で紹介されました。こちらです。
「読んでいるうちに私も昔こんなことして1人の時あそんだっけ!と思い出しました。」「時々こういう楽しい本にであうと、エンリケタのように元気がでます。」など、うれしい言葉がいっぱい。ありがとうございます!

 会留府さんは、読書会や憲法カフェなど、定期的にさまざまなイベントをしながら、こうして新刊を1冊1冊、ていねいに紹介し続けていらっしゃいます。ブログの右側のイベント欄も注目です!

 ところで、上の写真は、先日、この本の刊行記念イベントが開催されたホォアナ・デ・アルコの表参道店のレジ奥にかけてあったリニエルスの原画です。アルゼンチンの大手新聞「ラナシオン」に10年以上続いているリニエルスの「マカヌド」で、2011年3月13日に掲載されたカートゥーン。

「このハグが日本にとどきますように」

 まだこの原画、かかってるかな。
 ホォアナ・デ・アルコでは、リニエルスの絵の入ったTシャツやぱんつも売っていますよ。

2017年9月6日水曜日

『いっぽんのせんとマヌエル』


『いっぽんのせんとマヌエル』
マリア・ホセ・フェラーダ文
パトリシオ・メナ絵
星野由美訳
偕成社

 先月末に刊行された上記の絵本をかいた、チリ出身の作家と画家が来日し、今日は神保町ブックハウスカフェでイベントがありました。
2017.9.4 神保町ブックハウスカフェで・
左からフェラーダさん、星野さん、メナさん。

 1本のせんを中心にしてマヌエルくんの1日をたどった、こぶりのかわいらしい絵本です。

 この絵本の特徴は、ピクトグラムがついていること。
 そもそものきっかけは、作家のフェラーダさんが、ピクトグラムつきの絵本を読んでいる自閉症のマヌエルくんとお母さんの映像を見たこと。その後、実際に二人と出会い、「せん」にこだわりを持つマヌエルくんのことをみんなが知ってくれると同時に、マヌエルくん自身も楽しめる絵本をつくろうと、この絵本がうまれたとのこと。
 ガリシア地方に滞在していたフェラーダさんと、バルセロナ在住のメナさんが、マヌエルくんとお母さん、カウンセラーさんと学校のほかの子どもたちにも何度も見てもらいながら、苦労しながら仕上げていったそうです。

 今日のお話を聞いてなるほどと思ったのは、学校から帰ってきたマヌエルくんが、「せんの むこうの ママと あくしゅ」する場面。
 なにげなく読んでいましたが、フェラーダさんの説明によると、自閉症の人はほかの人と関係を持ちにくく、感情を表現するのもむずかしい。けれどもここで、家に帰ってきたマヌエルがにこにことママとあくしゅするというのは、自閉症の子どもでも自分からこのように握手することもできることをあらわしている、とても重要な画面だとのこと。
 線があるから、安心して人と関係を持てるということも、原文のpor ella(por la linea線によって) は表しているのかなと改めて思いました。

 スペイン語版にはピクトグラムはついておらず(出版社のホームページからダウンロードできる)、日本語版では、スペイン語版のピクトグラムをもとに、訳文に合わせて独自にピクトグラムをつけていったそうです。
 そのあたりのプロセス、製作の工夫も偕成社の編集者の千葉美香さんが説明してくださいました。日本語の意味に合わせて、画家のメナさんが、新しい図案でつくったものもあります。この絵本は、日本だけのオリジナル版になっているのです。
 テキストの語ること、絵の語ることをそこなわずに、ピクトグラムというもうひとつことばを添えていくという試みは挑戦だったが、たいへん豊かな経験だったとメナさんが語っていました。

 ラテンアメリカ発の、新しいバリアフリー絵本。
 公共図書館はもとより、この絵本そのものを楽しめる保育園、幼稚園、小学校はもちろん、インクルーシブな試みや福祉について学ぶ中学校、高校、大学でも、置いてもらえますように。

 9月8日、9日のイベント情報はこちらで。
 http://www.kaiseisha.co.jp/news/23431

2017年9月1日金曜日

ルベンとクリスティーナ

バルセロナの日々(20)


1999年9月12日 やっと3人を大聖堂に連れていった

 サルダニョーラに着いた翌日から、天気が許せば子どもたちを外で遊ばせるようになった。日本でも戸外でたくさん遊んできた三人だ。退屈しのぎにプレステやゲームボーイを持参してはいたが、そればかりになりたくなかったし、早く現地の友達をつくってほしかった。
 一番手近なのが、アパートのすぐ横の遊び場だ。ブランコと滑り台があるし、となりのアパートの外壁をゴールにしてサッカーをしている男の子がたいていいる。夕方になると遊んでいる子を見守りながらおしゃべりをする母親たちで、ベンチはすずなりになった。
 けれども、外に連れだしても、現地の子とすぐに遊びだせるものではかった。促しても、当人たちは尻込みするばかり。第一、顔形がまるで違う。それに、何を言われてもわからないし、何を言っても通じやしないのだ。二、三歳の子どもなら、言葉など関係なく遊びだせたかもしれないが、タイシですらそういう乳児期は通り越しつつあった。
「借りてきたねこ」とは、こういう状態を言うのだろうか。どことなく遠慮がちに三人かたまり、発散しきれないまま、じきにつまらないことでけんかを始める。スペインの子は人なつっこいというコメントを本で見かけることがあるがどうなのだろう。見ず知らずの相手を警戒するのは、どこも同じだった。

 ところが、中には積極的な子もいるものだ。空手を習っているという六年生のルベンくん。私たちが外に出るようになって一週間もたたないある日、近づいてきて自己紹介をしたかと思うと、翌日からアパートの入り口付近で三人を待ちうけ、遊びにさそうようになった。
 ほどなく、ルベンくんは誕生会にケンシを招待し、おかあさんのアナマリアに私をひきあわせた。いわば親公認の仲だ。こうして、四年生の妹のクリスティーナちゃんと二人で頻繁にアパートをたずねてくるようになった。アナマリアには、父親不在の家庭同士の気安さがあったのか。アナマリアはシングルマザーで、ルべンくんのおとうさんはマドリードにいた。おかあさんが仕事から帰るのは十時すぎ。だから、ケンシたちと遊ぶ時間は、子守のおばさんが世話をしていた。

 ルベンくんと言えば、一番に思い出す遊びが「かくれんぼ」だ。窓のシャッターをおろした真っ暗やみの寝室で、鬼が手探りで、隠れた子をさがす。いつ何を触るか、触られるかわからないのでスリル満点。びっくりしてひっぱたいてけんかになったり、クローゼットに隠れて背板をはずしたり、あわてて力まかせに押して電気のスイッチを壊したり、エスカレートすると少々危険だが、子どもたちが実に生き生きとする遊びだった。

 気温が下がってきた頃のことだ。思いがけない問題が発生した。我が家の室内は土足禁止だったのだが、ある日、玄関で靴を脱いだクリスティーナちゃんが、「あたしの足、すごく臭いの。匂ったらあたしだからね」と宣言した。気づくと、それまで素足にサンダルばきだったルベンくんたちが、靴下と靴をはくようになっていた。
 絶句した。あとでしばらく換気をしても、夜、帰宅したハルちゃんが、「今日、ルベンくん来たでしょう」と言い当てるほどの臭気をルベンくんたちはふりまいた。

 子どもの靴に対する意識が違うのだというのに気づいたのは、しばらくしてからだった。子ども靴の店で、三歳くらいの子に試着させた靴のひものしまり具合を、母親が熱心にチェックしている。「ははあ」と思った。日本の場合、家でも学校でも、一日何回も靴を履きなおすから、「着脱しやすい」が子どもの靴の第一条件だ。だが、あちらは脱げないことが大切なのだ。朝、身支度をしたら、家に帰るまでゆるんではならない。人前で脱ぐのはプールの着替えのときくらいのもの。それ以外はびしっと履かせておくのだから、むれるわけだ。それに、入浴せず、毎日シャワーですませているなら、子どものことだから、足の指のあいだなどいいかげんにしか洗っていなかったのかもしれない。

 子ども同士、よく衝突もしていた。うまく口で表現できないアキコやタイシがいきなり暴力をふるったり、ノーと言えずにケンシがむっつり黙りこんでしまったり。せっかく遊び始めても、お互いいやな思いをするだけの日もあった。でも、何があっても懲りずに遊びにき続けてくれたルベンくんとクリスティーナちゃんは貴重な存在だった。子どもの話し言葉や立ち居振舞いなど、私も彼らからはたっぷり学ばせてもらった。
 なのに、思い出すたび、足の匂いも一緒に思い起こしてしまうというのは、本当に申し訳ない。