2023年12月29日金曜日

『ハリケーンの季節』

 


『ハリケーンの季節』
フェルナンダ・メルチョール
早川書房
2023年12月20日刊行

ブッカー国際賞、全米図書賞翻訳部門、名だたる国際的文学賞候補となったメキシコの新鋭による傑作長篇

魔女が死んだ。鉄格子のある家にこもり、誰も本当の名を知らない。村の男からは恐れられ、女からは頼られていた。魔女は何者で、なぜ殺されたのか? 現代メキシコの村に吹き荒れる暴力の根源に迫り、世界の文学界に衝撃を与えたメキシコの新鋭による長篇小説

(版元HPより)


 この作品の翻訳の依頼が舞いこんだのは、グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』が発売になってまもない2021年9月8日のことでした。


 実はこの作品、ブッカー国際賞のファイナリストになったあと、日本でも翻訳出版されるべきと思い、2020年の末に、ある出版社に私ももちこみました。けれども、その後、連絡のないまま時がすぎ、日本翻訳大賞の授賞式のときだったかに、偶然顔を合わせた編集者から、ほかの社に版権が売れたと告げられたのでした。そのときは、自分には縁がなかったという思いと、やらなくてよかったかもしれないという思いがありました。翻訳が難しいことはわかっていたからです。


 なので、依頼をもらったときは仰天しました。もう誰かが手がけていると思っていたし、怖気づきもしました。だけど、「やらないと一生後悔する」という気持ちが勝って、翌日には、よろしくお願いしますと返事をしました。


 それにしても、ほんとうに難しかった。登場するさまざまな〈声〉の方向がなかなか定まらず、わからない表現も多く、時間がかかり、「これでこけて、翻訳者として終わりになるのでは」という不安にさいなまれました。


 翻訳していると、自分に足りないものがおのずと見えてきます。今回は特に罵倒語や俗語がそれでした。人が殴られたり死んだりするのや物が壊れるようなシーンが出てくるものは、小説でも映画でも、普段できるだけ近づかないようにしているたちなので、そういう方面の語彙の引き出しが極端に貧弱なのです。そこでインプットしようと、マンガを描いている映画好きの長男に頼みこんで、参考になるマンガや映画を教えてもらいました。マンガはまだ抽象化されているので読めても、映画は見ていられず(気持ちが悪くなる……)、音声だけ聞いたものも多々ありましたが。若者のあいだで使われている性的俗語も、彼が頼りでした。そんな付け焼き刃で大丈夫かと心配されても、付けないよりマシかと。


 方言をどうするかの問題もありました。これは考えたすえ、川上未映子著『夏物語』の英訳者の話を聞くなかで、人物間の関係性を反映した口語にすることを目指すことに決めました。

 また、上岡伸雄訳『ネイティヴ・サン アメリカの息子』には、主人公の思考をたどるところに類似する部分を感じて、大いに刺激されました。参加している読書会がきっかけで、ちょうどその時期に出会えてラッキーでした。


 スペイン語も難しかった。同じメキシコ人作家でも、ネッテルの文章はユニバーサルな書き言葉ですが、メルチョールのこの作品は極めてローカル。ベラクルス方言や口語など、みたことも聞いたこともない表現については、メキシコ大使館のベラクルス出身の方が力になってくださいました。でも、自分の勘違いだったらめちゃくちゃ恥ずかしいと思って、思い切って聞けない卑猥な表現もあって、そんなことや、日本語でしかうまく尋ねられないことなどで、強い味方になってくれたのが棚橋加奈江さんでした。映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』の原作本の訳者である棚橋さんには、メキシコの作品で翻訳に戻ってきてほしいと心から思います。


「こういう世界もある」ということを、数か月間つきつけられつづけるような翻訳作業でした。ともかく、フェルナンダ・メルチョールの代表作となるに違いないこの作品を、日本の読者に読み通していただけるよう、ただただ願っています。


 どんな作品か、ご興味のあるかたは、こちらであとがきの一部をご覧ください。

https://www.hayakawabooks.com/n/n8b6060878fe0?sub_rt=share_h

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