2016年6月18日土曜日

スペイン語は耳じこみ!?

バルセロナの日々(17)

カルナバルでネコになった、クレンフォル校のP5「階段の下のネズミ組」

 学校に通いはじめて1ヶ月くらいたったある日、夕方お迎えに行くと、タイシの担任のフアニが、待ってましたとばかりに勢いこんで話しかけてきた。

「今日ね、タイシがはじめて私に話しかけてくれたの。『テンゴ ピピ フアニ』って。ちゃんと『フアニ』もつけてよ」
 すごーい! やったじゃない、タイシ!
 照れくさそうなタイシを、ぎゅうっとひきよせながら、うれしいやらおかしいやらで笑ってしまった。
 最初のまともな文章が「フアニ先生、おしっこ」だったとは、なんともタイシらしい。おしっこは、要領のいい末っ子タイシの唯一の泣き所だった。
 その何日か前、タイシは学校ではじめておもらしをした。家でもしょっちゅうちびり、盛大な失敗もときどきやらかしていたから、とうとうやっちゃったかというところだった。だが、フアニに、
「『ピピ』って言うとか、前を押さえてこう体をゆすってみせるとか、とにかく伝えてくれればよかったのに。こういうことがありそうならありそうだと、おかあさんも言っといてくれないと」
と、けわしい顔をされると、母子ともどもショボンとなった。着替えがないので、パンツを脱いだまま、しめったズボンをじかにはかされているタイシが不憫だった。
「おしっこがしたくなったら、『ピピ』って言うんだよ」私はタイシに言いきかせた。
 きっとフアニも、身ぶり手ぶりで、何度も言いふくめたに違いない。
 そして、晴れて「テンゴ ピピ フアニ」と、なったわけだった。

 ところが、その大喜びの日、家に帰ってから、
「ねえ、フアニにどんなふうに言ったの?」
とたずねた私は、タイシのこたえを聞いて愕然とした。
「『センゴ ピピ フアニ』だよ」
「えっ、テンゴじゃないの? セじゃなくてテでしょ」
「ううん。『センゴ ピピ』。サムエルもそう言ってるもん」
 耳じこみの外国語、おそるべし。
 子どもたちは、文字を介さず、状況から、耳で聞いた音の意味を類推しながら、スペイン語を習得していっていた。耳に聞こえたままを、彼らは口に出す。この場合、テンゴ ピピ(Tengo pipi=私はおしっこがしたい)が正しく、センゴという言葉はない。ところが、イントネーションがばっちりだから、状況からフアニ先生はテンゴと理解し、あんなに感激したのだった。

 それからというもの、子どもたちのオウム返しのスペイン語は、私の日本語なまりのスペイン語より、くやしいほど威力を発揮しはじめた。
 アキコは登校何日目かで、クラスメイトに「ホセマノエって子がいる」と言った。文字で書けばJosé Manuel。この名前、普通にカタカナ書きすればホセ・マヌエルとなる。ところが、スペイン語の「ウ」は、日本語の「オ」に近い。耳を柔らかくすれば、確かにホセマノエだった。
 また、ある日、家に帰ってきたタイシが、わけのわからない歌を歌いだした。
「ミルノウセン ヌランターノウ」
 なんじゃこりゃ。呪文のように、繰り返し繰り返し口ずさみながら遊んでいる。カタルーニャ語だ。意味をたずねても、「わかんなーい」。習いたてのカタルーニャ語にアップアップしていた私は、しばらく考えこんでから、はっとわかって笑ってしまった。
 なんてことはない。タイシは「1999(年)」と歌っていたのだ。きっと先生が毎日、黒板に日付を書きながら唱えていたのだろう。その頃の学校のノートを見ると、どのページも一番上によれよれの字で、「Taishi, el dilluns 15 de novembre de 1999(タイシ、1999年11月15日)」のように日付が書いてある。クレンフォル校は、家庭でスペイン語を話す子が多かったので、年の読みを、先生が節をつけて繰り返し唱和させていたのかもしれない。

 こんなふうに、子どもたちの頭の中に、新しい言葉がだんだんと植えつけられていった。
 どんなときに、どんなふうに言うのか。耳で聞き、まわりの態度を見ながら、意味を類推して使ってみる。うまく言えると、スペイン人はたいがい力いっぱいほめてくれる。間違っても、口に出してみた勇気をたたえ、決して落ち込ませない。こういうところ、スペイン人のいいところだなあと思う。
 自分がほとんど大人になってから文字と頭でおぼえた言葉を、子どもたちが耳からとりこんでいくのは、ふしぎな感覚だった。文法上の数の観念も、性の観念も、時制の観念もないのに大丈夫なのだろうかと、ハラハラする一方で、いや、そんなのなくたって、このままどんどんおぼえて、話せるようになるのかもしれない、と期待したい気持ちがあった。
 ともかく早く友だちと通じ合えるようになるといいね、と祈るように私は見守った。

2 件のコメント:

  1. わたしは、タイちゃんの「ピウピウ」の歌が今でも忘れられません。手ぶりつきで、はにかみながら歌ってくれたのが、とてもかわいらしかったです。実際は、何て歌だったのでしょうね。

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  2. Haruch1nさん、コメントありがとう! あれはついにわからずじまいでしたね。覚えていてくれてうれしいです。彼は今は、あんなときなどなかったような顔をしています(笑)

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