2016年6月4日土曜日

『ポーランドのボクサー』がおもしろい!




『ポーランドのボクサー』
(書名は出版社HPにリンクしています)
エドゥアルド・ハルフォン著
松本健二訳
白水社刊
2016.5










 グアテマラの新鋭エドゥアルド・ハルフォンの翻訳が出ました!
 昨年、書評で見かけて読んだMonasterio(修道院)が鳥肌ものだったので、普段、話題の本にものりおくれがちな私としてはめずらしく、ぱっと手に入れ、昨日一気に読みました。期待を上回る濃密な読書体験でした。

 ハルフォンがどのような作家かは、その出自と深くかかわっています。その説明部分を、まず後書きから引用します。
 著者エドゥアルド・ハルフォンは、一九七一年にグアテマラのユダヤ系一家に生まれた。本書の表題作でも描かれている母方の祖父はポーランド生まれ、アウシュヴィッツなど強制収容所を生き延び、第二次世界大戦後にグアテマラに移住したアシュケナージ系ユダヤ人だった。それ以外の三人の祖父母はレバノン、シリア、エジプトといった地中海周辺のアラブ世界にルーツをもつセファルディ系ユダヤ人である。ちなみにハルフォンとはレバノンから移住してきた父方の祖父の姓だ。両親はグアテマラ生まれのため、エドゥアルドと本書にも登場する弟と妹はそれぞれスペイン語の名を授かり、家庭でも学校でもスペイン語で育てられたが、幼いころからユダヤ教の習慣はもちろんのこと、祖父母が話していたイディッシュ語やアラビア語、また彼らが持ち込んだ料理をはじめとする東欧やアラブの諸文化にも少なからず触れていたようだ。
 一九八一年、一家は内戦の続く首都グアテマラシティから米国に移住する。当時十歳だったハルフォンはそれ以降英語で教育を受けるようになり、やがてノースカロライナ州立大学工学部に進学、二十二歳になって戦火の落ち着いたグアテマラに帰国したときはすでに母語のスペイン語を忘れかけていたという。(283ページ)

 けれども、ハルフォンは今、スペイン語で書いているわけです。このことについて詳しくは、月刊世界2014年8月号の飯島みどりさんによるハルフォンのインタビュー「人間の真髄を嵌め込むモザイク」を参考にしてください。

 オリジナルの『修道院』は、妹の結婚式のためにエルサレムを訪れた私が、ポーランドのボクサーのおかげでアウシュヴィッツで命拾いした祖父のことを下敷きにしながら、旅のあいだ自分のなかのユダヤ性を問い続けるという物語をオートフィクションの形で描いたものでしたが、この日本版『ポーランドのボクサー』は、オリジナルの『ポーランドのボクサー』と『ピルエット』と『修道院』の3冊を、日本用にリミックスしたとのこと。

 3冊を合わせて1冊にしたものだと知ったとき、オリジナル『修道院』だけでもおもしろいのに、なんかもったいないなあという気がしたのですが、それは杞憂でした。冒頭の、世界文学の短編を読み詩を書くグアテマラの青年の物語(オリジナル『ポーランドのボクサー』所収)や、絵葉書を送り物語を語るジプシーのピアニスト、ミランの物語(オリジナル『ピルエット』所収)と響きあって、編み直されることで、かえって作品世界が濃厚になり、印象が強烈になっていると感じました。
 全体としては、後書きから引用させてもらうと、
 三冊を合わせた本書を読めば、全体に共通する語り手であるハルフォン自身が、一族が背負ってきたユダヤ的なものとどう距離を置くかという問題を中心軸としつつ、いくつかの特定のテーマや鮮烈なイメージを、その都度その都度の即興で変奏し続けているということに気づく。(286ページ)
という物語になっています。

 思いがけないけれど、そう言われるとイメージが鮮やかに喚起される比喩も、ハルフォンの魅力の一つです。出自に見るハルフォンの文化背景がすべてからみあってか、実に豊かな言葉が繰り出されます。そのおもしろさを十二分に引き出した訳文に、感嘆と羨望のため息が出ました。
 後半になって目についた表現をメモしはじめたのですが、きりがありません。たとえばこういうもの。
  老人が何かジプシーの言葉で尋ね、そのあと同じくジプシーの言葉で何かを語り始め(セルビア語を話せなかったか、あるいは話したくなかったのかもしれない)、それをペータルがセルビア語に訳し、それをスロボダンが英語に訳し、最後に私がそれを、マトリョーシカ人形のいちばん内側の形が崩れた小さな人形のように、スペイン語に直した。(206ページ)

 昨年夏にスペインに行ったとき、文学カフェのような書店で、ハルフォンやサマンサ・シュウェンプリンなど、ラテンアメリカの若手作家の作品が平台に並べられていました。スペインで注目されるのも、さもありなんです。
 そのハルフォン作品を、これほど刺激的な独自版で手にとれる日本の読者は幸せです。

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