2026年3月20日金曜日

紙に書く


  昨年8月、豊﨑由美さんの「よんとも」に呼んでいただいたとき、「どうやって文章修行をしたのか」と尋ねられた。「どうやって?」と、そのときは首を傾げたのだけれど、あとになって、もしかしたら小学4年生から20年近くつけていた日記のおかげだろうかと思い当たった。

 書きはじめたのは宿題だったからだ。担任のO先生がきれいな朱筆でコメントを書いてくれるのに励まされて、その日やったことや思ったことをせっせと書いた。学期途中の転校で、遊ぶ友だちがほとんどいなかったのも手伝っていたのかもしれない。6年生になって担任が変わり、宿題ではなくなってからも書き続けた。

 最初の頃は日記帳を使っていたけれど、中学生になったくらいからは、文房具屋さんで選んだ大学ノートに書いていた。鉛筆、ボールペン、万年筆……、筆記具はさまざまだった。

 その日あったこと、思ったこと、感じたことなどを書きつらねる。大半は、友だちとも家族とも話さないようなことだ。紙に書くから、ワープロやパソコンのようにあとから大幅には直せない。一発勝負で、あとから読んだときに自分がわかるように綴って、毎日自分と向き合っていたのだろう。思うように書けたり、書けなかったり。反芻するように、あるいは傷をなめるように、何度も読み返すこともあった。

 考えてみると、私が物語に求めているのは、日常生活やメディアに飛び交うような言葉ではなくて、自分が日記にしたためていた、決して表には出さない言葉と関係しているのかもしれない。その物語がなければ思い至ることのなかった何か、普段は触れることのない深い何か。

「手で紙に書く」ことを改めて考えさせられたのは、ハン・ガン『光と糸』(河出書房新社)で、子どもの頃の手書きの詩集から自分を発見するというエピソードを読んだからだ。紙だから残るものがある。手書きの文字が記憶につながる。

 SNSやブログに書いたことは、AIで加工されるかインターネットの塵と化すのがおちだけれど、紙に書かれたものは厳然としてそこにある。もうこれからは『アンネの日記』のような本は、出てこないかもしれない。マンガが縦スクロールで変わるように、道具で表現も変わる。絵本の絵だって、フォトショップでしばしばノイズが取り去られる。紙とヴァーチャルで、記憶の形も変わっていくのだろう。

 そんな私も、自分だけの部屋を持てなかった年月の間に日記を書く習慣を失ってしまった。いまかろうじてつけているのは10年メモ。1日ほんの4、5行の、ほとんどはその日に何をしたかの記録だけれど、スクロールしないで自分の日々を追える。翻訳や仕事にパソコンは必須だけれど、ペンを持てる限り「紙に書く」ことは手放さずにいたい。

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