2017年8月25日金曜日

記憶の底の風景


 20日に北九州で開催されたセミナーに出席したあと、大分に寄ってきました。目的は宇佐市を訪れること。終戦後、朝鮮から引き揚げてきた両親が出会った場所です。

 このところ父の思考力は衰える一方。毎年、終戦記念日の頃になると、引き揚げのときの思い出話をしていたのに、今年は今が何月かもわからず、今日は終戦記念日だよ、と声をかけても無反応でした。母が「もう何度聞いたか」と嫌味を言っていた、以前、父のその思い出話をまとめたブログを再録します。
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父の終戦

韓国の釜山で終戦を迎えた、当時13歳だった父の思い出話。

終戦の年の春、親父が急に亡くなってね、「まだ若いのに情けない。自分とかわってやれればよかったのに」と嘆いていたじいさんが、それからいくらもしないで死んでしまった。

学校の校庭で玉音放送を聴いたとき、何を言われているのか、さっぱりわからなかった。でもすぐに、「明日から学校はない。内地に帰ったらこの書類を渡しなさい」と、学校から書類を渡されて学校は解散になった。

まもなく、近所の人が「軍属の乗る船があるが、よかったら乗せてやろう」とうちに来た。するとおふくろは、「この子と娘をのせてください。私は残ります」と言ったんだよ。びっくりしたよ。当時姉は16歳。帰ると言ったって、2年前に1度行ったことしかない、大分の親父のいとこの家が頼りだよ。行って面倒を見てくれるかもわからないのに、2人で帰れっていうんだから。一番上の兄貴が、兵隊で満州に行っていたから、おふくろはその連絡を待つというんだ。

船はもともと博多に着く予定だったが、途中で船体がいたんで志賀島に漂着した。だれかが綱をひいてつなぎとめてくれて、はしけで上陸した。翌日見たら、沖合にあるはずの船がばらばらになっていたから、間一髪だったんだな。

志賀島から、姉はおやじのいとこに迎えに来てくれるように手紙を書いた。すると、いとこの家の人と、思いがけず五高に行っていた2番目の兄貴が迎えにきてくれた。兄貴は、勤労奉仕で長崎にいるとき被爆したが、休みになったのでちょうど大分に行っていたらしい。それで、無事に親父のいとこの家についた。

あとできくと、8月になっておふくろは五高の兄になぜか200円を送金していたらしい。初任給が50円、60円の時代だから相当な金額なんだ。なぜおふくろが金を送ったのか、わからないが、おかげでいとこの家で面倒をみてもらえた。でも、居心地は悪かった。田舎で、中学に行っている子どもなんかまわりにいないのに、居候のくせに中学に行かせてもらうんだから。

9月に入って、姉が疫痢になった。死ぬ何日か前だったか、出されたおかゆを姉が食べないので食べたら、おばさんにえらい怒られてね。こっちはひもじくて仕方なかったのだけれど、ひどく後味が悪かった。

姉が死ぬ前日の夜、突然おふくろが帰ってきた。「お世話になりました」と言って、玄関で頭をさげると、リュックの肩ひもをざっと切って、中からたたんだお札を何枚も出して居候先のおばさんに渡した。釜山じゃ日本のお札はなかなか手に入らなかったのに、どうやってそんなに集めたのかわからないけど、途中でとられないように肩ひもに縫いこんで持ってかえったんだよ。おばさんも、「そんなことしなくていいのに」って、涙を流していたよ。

その翌日、姉が死んだ。学校の帰り道、近所の人に「姉さん死んだぞ、すぐ帰れ」と呼びかけられて、わけがわからず走って帰った。悲しかったなあ。半年の間に、3人も逝ってしまった。
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 両親がどのあたりに住んでいたか知りませんが、宇佐高校で知り合ったということ、宇佐八幡が近所だったことはよく聞いていたので、一度行きたいと思っていました。
 JRの宇佐駅から宇佐八幡までは4キロくらい。レンタサイクルを借りようと考えていましたが、雨になるかもと言われて、結局1時間に1本しかないバスで行きました。
 
 バス停で降りて、参道を歩き、蓮の池を通りすぎると、やがて鳥居。
 

石段をのぼって上宮へ。母のために、申年のお守りの根付を買い求めました。



 下宮もちゃんとまいってから、いよいよ、宇佐八幡から数百メートルのところにある宇佐高校へ。校門には、70年前の面影はまったくなさそうでした。


 建物は変わっても山は変わらないだろうと、幹線道路から学校にのぼる坂の途中から、遠くの山を撮りました。母に見せても、「はぁ?」という反応でしたが。


  町や村ではなく市なので、両親の思い出話からも、もう少し町っぽい場所を想像していたのですが、少なくともJRの駅と宇佐八幡の間は、こんな風景ばかり。


 引き揚げ体験という共通項をもっていた二人がひかれあうようになったのは、いつのことなのか。宇佐か、そのあと東京でか。
 記憶の底に沈んで、もう心をかき乱すこともない悲しみや初恋のときめきを思いながら、駅まで歩いてもどり、景色を胸に刻みつけました。

2 件のコメント:

  1. お父様の記憶は素晴らしいです。お祖母様は気丈で賢い方でいらっしゃいましたね。昔でいう典型的な大和撫子です。終戦後の辛くて悲しい物語を読ませて頂いたように感動を覚えます。
    私は北九州市門司区の出身で宇佐神宮を2回ほど参拝しました。
    全国の八幡神社の発祥の神宮として、当時は大勢の参拝者で賑わっていましたが、お写真でみると少し参拝される人が少ないように感ぜられます。

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    1. ありがとうございます。もう7年前に心して聞いて書き留めたものです。今となっては、何も覚えていないようなので、聞いておいてよかったです。今の私は、子どもだった父よりも、母親だった祖母に感情移入しますが。
      参拝客は確かにそれほど多くありませんでした。緑が美しく、よい場所でした。

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