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2017年9月30日土曜日

補習校に行こう!

バルセロナの日々(21)


 小学校がはじまって1ヶ月。子どもたちのストレスは、日ましにふくらんでいった。
 ちんぷんかんぷんの言葉の中で、身振りや表情、数字や教科書の挿し絵など、わかるきっかけを探しながら毎日九時から五時までしのいでいるのだから無理もない。辛いだろうと思ったけれど、「辛いでしょう。ごめんね」とは、口にできなかった。言っても状況は変えられない。クレンフォルをやめさせるわけにはいかない。子どもが学校に行ってくれないと私は大学に行けず、スペインに来た意味がなくなってしまう。愚痴や弱音をききだしたら、きりがなくなりそうでこわかった。最初から無理は承知だったのだ。気の遠くなりそうに長いトンネルをいく気分だったけれど、後戻りはできない。いつかは外に出ると信じたかった。
 それにしても、子どもたちの負担を少しでも軽くしてやることはできないだろうか。

 10月半ば、やっぱり調べてみようと決心したのは補習校のことだった。
 海外の日本人学校には、土曜日、ウィークデーの学校と別の形で、日本人の子どもが集まるクラスがあるというのをきいたことがあった。バルセロナの日本人学校にも、そういうのがあるかもしれない。通わせられるかわからないけれど、ともかく調べてみよう。
 領事館で日本人学校の電話番号をきき、土曜日のクラスのことをたずねた。学校とはまったく別組織だが、日本人学校の校舎を使って土曜日にやっている補習校というのが確かにあるという。日本人学校は、私たちが住んでいるサルダニョーラの隣町、サンクガットにあった。
 問い合わせ先として教えてもらったのは、リコさんの電話番号だった。大学のあるベリャテラに住んでいるというリコさんは事情を話すと、「ともかく一度見にきたら?」とさそってくれた。「足がないなら、うちの車でのせてってあげるわよ」と言う。電話をしただけで、いきなり好意に甘えていいのだろうか。一瞬迷ったものの、場所もわからない日本人学校に1人では行けそうにない。この際、お願いしてしまえ。そんなわけで、翌々日の土曜日にさっそく見学することになった。

 土曜日、子どもたちは興奮ぎみだった。どういうことかよくわからないけれど、日本人、それも、ひょっとしたら自分と同じような年の子に会えるかもしれないというのだから無理もない。でも、ぬか喜びに終わったらかわいそうだ。「通えるかどうか、行ってみないとわからないんだからね」と、私は念を押した。
 リコさんにベリャテラの駅で拾ってもらうと、十分足らずで小高い丘の上にある日本人学校に着いた。手前にヒューレットパッカードの工場があるが、学校のまわりは広々とした草地だ。子どもを乗せた車が、次々と到着する。
「おはよう。元気?」
 日本語のあいさつがとびかう。それだけで、みるみるケンシたちの緊張がほどけていくのがわかった。

 補習校では、幼稚園の年中から中学生までの子どもたちが、国語を中心に、毎週土曜日3時間の授業を受けていた。保護者の手による自主運営の塾のようなものだ。
 子どもの大半は、日本人とスペイン人の国際婚ペアの子どもだった。ふだんから日本人の親と日本語で会話している子もいれば、そうでない子もいる。日本人学校は幼稚園がないので、就学前の子どもを連れてきている両親とも日本人の赴任家族もいたが、どっぷりと日本で育ってきた小学生は少数派だった。

 学校の概要やしくみなどは、一回説明をきいただけではよくわからないこともあったけれど、その日が終わったとき、ともかく通わせてみようと決心していた。
 というのも、子どもたちのそんなくつろいだ表情を見るのは久しぶりだった。思った以上に現地育ちの子が多く、子ども同士のコミュニケーションの意味では正直やや物足りない気がした。でも、何十人かの日本人が集まる環境の中で、子どもたちは、毎日の生活では見せない、穏やかな顔を見せた。
 通学は心配だったけれど、行き帰りタクシーでも通えないことはない。出費はかさむが、背に腹はかえられない。こういう場があるのを知った以上、通わせないわけにいかないではないか。
「困ったことがあればなんでも言ってくださいね。みんなが助けてくれるから大丈夫」という委員長のIさんの言葉にささえられて、土曜日の補習校通いがはじまった。

 でも、補習校で救われたのは、子どもたちではなく、実は私だった。
「ようやるわ、と思ってたよ」
と、そのあとさんざん世話になった、同じ町に住むクルコさんがあとで言っていた。
 私たちの事情を話すと、現地生活の長い日本人の保護者たちはびっくりし、その後、数え切れないほどの場面で手をさしだしてくれたからだ。この親同士のつきあいについては、思い出すたび胸がキュンとなるのだが、またあとであらためて触れたいと思う。

2017年9月1日金曜日

ルベンとクリスティーナ

バルセロナの日々(20)


1999年9月12日 やっと3人を大聖堂に連れていった

 サルダニョーラに着いた翌日から、天気が許せば子どもたちを外で遊ばせるようになった。日本でも戸外でたくさん遊んできた三人だ。退屈しのぎにプレステやゲームボーイを持参してはいたが、そればかりになりたくなかったし、早く現地の友達をつくってほしかった。
 一番手近なのが、アパートのすぐ横の遊び場だ。ブランコと滑り台があるし、となりのアパートの外壁をゴールにしてサッカーをしている男の子がたいていいる。夕方になると遊んでいる子を見守りながらおしゃべりをする母親たちで、ベンチはすずなりになった。
 けれども、外に連れだしても、現地の子とすぐに遊びだせるものではかった。促しても、当人たちは尻込みするばかり。第一、顔形がまるで違う。それに、何を言われてもわからないし、何を言っても通じやしないのだ。二、三歳の子どもなら、言葉など関係なく遊びだせたかもしれないが、タイシですらそういう乳児期は通り越しつつあった。
「借りてきたねこ」とは、こういう状態を言うのだろうか。どことなく遠慮がちに三人かたまり、発散しきれないまま、じきにつまらないことでけんかを始める。スペインの子は人なつっこいというコメントを本で見かけることがあるがどうなのだろう。見ず知らずの相手を警戒するのは、どこも同じだった。

 ところが、中には積極的な子もいるものだ。空手を習っているという六年生のルベンくん。私たちが外に出るようになって一週間もたたないある日、近づいてきて自己紹介をしたかと思うと、翌日からアパートの入り口付近で三人を待ちうけ、遊びにさそうようになった。
 ほどなく、ルベンくんは誕生会にケンシを招待し、おかあさんのアナマリアに私をひきあわせた。いわば親公認の仲だ。こうして、四年生の妹のクリスティーナちゃんと二人で頻繁にアパートをたずねてくるようになった。アナマリアには、父親不在の家庭同士の気安さがあったのか。アナマリアはシングルマザーで、ルべンくんのおとうさんはマドリードにいた。おかあさんが仕事から帰るのは十時すぎ。だから、ケンシたちと遊ぶ時間は、子守のおばさんが世話をしていた。

 ルベンくんと言えば、一番に思い出す遊びが「かくれんぼ」だ。窓のシャッターをおろした真っ暗やみの寝室で、鬼が手探りで、隠れた子をさがす。いつ何を触るか、触られるかわからないのでスリル満点。びっくりしてひっぱたいてけんかになったり、クローゼットに隠れて背板をはずしたり、あわてて力まかせに押して電気のスイッチを壊したり、エスカレートすると少々危険だが、子どもたちが実に生き生きとする遊びだった。

 気温が下がってきた頃のことだ。思いがけない問題が発生した。我が家の室内は土足禁止だったのだが、ある日、玄関で靴を脱いだクリスティーナちゃんが、「あたしの足、すごく臭いの。匂ったらあたしだからね」と宣言した。気づくと、それまで素足にサンダルばきだったルベンくんたちが、靴下と靴をはくようになっていた。
 絶句した。あとでしばらく換気をしても、夜、帰宅したハルちゃんが、「今日、ルベンくん来たでしょう」と言い当てるほどの臭気をルベンくんたちはふりまいた。

 子どもの靴に対する意識が違うのだというのに気づいたのは、しばらくしてからだった。子ども靴の店で、三歳くらいの子に試着させた靴のひものしまり具合を、母親が熱心にチェックしている。「ははあ」と思った。日本の場合、家でも学校でも、一日何回も靴を履きなおすから、「着脱しやすい」が子どもの靴の第一条件だ。だが、あちらは脱げないことが大切なのだ。朝、身支度をしたら、家に帰るまでゆるんではならない。人前で脱ぐのはプールの着替えのときくらいのもの。それ以外はびしっと履かせておくのだから、むれるわけだ。それに、入浴せず、毎日シャワーですませているなら、子どものことだから、足の指のあいだなどいいかげんにしか洗っていなかったのかもしれない。

 子ども同士、よく衝突もしていた。うまく口で表現できないアキコやタイシがいきなり暴力をふるったり、ノーと言えずにケンシがむっつり黙りこんでしまったり。せっかく遊び始めても、お互いいやな思いをするだけの日もあった。でも、何があっても懲りずに遊びにき続けてくれたルベンくんとクリスティーナちゃんは貴重な存在だった。子どもの話し言葉や立ち居振舞いなど、私も彼らからはたっぷり学ばせてもらった。
 なのに、思い出すたび、足の匂いも一緒に思い起こしてしまうというのは、本当に申し訳ない。



2017年8月15日火曜日

栗祭りカスタニャーダ

バルセロナの日々(19)


 十月の半ばを過ぎたころ、私たちのアパートのすぐ前にあるケーキ屋さんに秋が来た。ショーウィンドーに木の葉や松ぼっくりが飾られ、松の実をあしらったお菓子が並んでいる。気づくと、ずっと半袖Tシャツで過ごしていた地元の子どもたちが、長袖を着るようになっていた。

 そんなある日、タイシとアキコが、学校からお便りをもらってきた。
「今年もカスタニャーダをします。アーモンドの粉百グラムと松の実五十グラムを持たせてください」
 カスタニャーダってなんだろう? アーモンドや松の実を何に使うんだろう?
 クラスメイトのおかあさんに聞いてみると、パナイェッツの材料だと言う。十一月一日の諸聖人の日につきもののお菓子らしい。
 うわー、楽しみー! 
 保育園では秋になると子どもたちが芋掘りに行き、園庭で焼き芋をしたものだった。カタルーニャでは、パナイェッツというわけか。幼児や低学年の子どもたちの園生活、学校生活が、季節にちなんだ行事で彩られるのは、どこも同じなんだなあと思った。
 ハルちゃんに話すと、カタルーニャでは諸聖人の日Dia de tots sants(「とっつぁんの日」と聞こえると、ハルちゃんはおもしろがった)に、カスタニャーダcastanyadaという栗のお祭りをするのだと教えてくれた。このお祭りに欠かせないのが、焼き栗やパナイェッツ、それからモスカテルという甘いデザートワインに焼いたサツマイモだ。アパート前のケーキ屋さんに並んでいた、松の実の「かのこ」のような焼き菓子が、そのパナイェッツだった。

 スペインのドライフルーツは多彩だ。市場に行くと、日本でもおなじみのレーズンやピーナッツ、干しプラム、干しアンズからナッツ類まで、何十種類とならんでいる。
 スペインらしいのは、ひまわりの種pipasとコーンkikos(うちのまわりの子どもたちはこう呼んでいたが、帰国してから話していたら、そこにいたスペイン人にそんな語は聞いたことがないと言われた。いつもひく西西辞典でひいてみたところ、商標名としてちゃんと「炒ったトウモロコシの実」という語釈があった)。コーンは、普通のとうもろこしをミックスナッツのジャイアントコーンのように加工したものだ。この二つは駄菓子の王様で、パン屋やキオスクで、二十ペセタくらいの小袋になったのもよく売っている。広場のベンチのまわりには、たいていこのひまわりの種の殻が散らばっている。
 アーモンドやヘーゼルナッツは、煎ったものと生のものがあって、つまみにもいいし、カタルーニャ料理ではソースの食材として多用される。クルミは、カリフォルニア産よりも小粒で黒っぽい、見た目は貧相なスペイン産のほうが味があり、値段も高い。
 私のいちばんのお気に入りは、干しいちじくと干しなつめやし。いちじくは、スペイン産のとトルコ産のがある。スペイン産のは、暗紫色の実のまわりに白っぽく粉をふいていて、中はむっちりねっちょりし、ほんのり甘く滋味がある。くるみといっしょに食べると、いっそう味がひきたつ。夜、口寂しいとき、一つ二つつまむのにちょうどよかった。
 なつめやしは、干し柿の赤ちゃんみたい。まわりがテラテラ光っているのと、ナトゥラルと呼ばれる自然のままのものがあって、やはり自然の甘さが心地よい。バレンシアやエルチェあたりに行くと、ヤシの木の下にぼとぼと落ちているらしい。
 それからマラガ産干しブドウ。近頃日本でもカリフォルニア産で見かけるようになった、種入りの少し大粒の干しブドウだ。種ごとゴリゴリとかみ砕いて食べつけると、やみつきになる。
 セラパレーラ市場にあるドライフルーツの量り売りの店で、私は、アーモンドの粉と松の実を買いこんだ。

 十一月一日は祝日なので、その前日、アキコとタイシは、松の実がかの子状についた少しいびつなパナリェッツが六つずつのった紙皿をささげもって、ニコニコ顔で学校から出てきた。タイシのには、包んだセロハンに、自分の名前を書いた栗の形のカードがはりつけてある。
 フアニ先生に言われたとおり、十分くらいオーブンで焼くと、香ばしい匂いが家じゅうに広がった。日本にいるときはよくケーキやらクッキーやら子どもたちに作っていたのに、スペインに着いてからは初めての手作りお菓子だった。なれないオーブンの焼きぐせを確かめながら、たまには好きなお菓子でも作ってやりたいなあと思いながら、焼きあがったパナイェッツをかじってみる。
 松の実独特のすっぱいような風味が、アーモンドを使った中だねの甘みと混じりあって、口いっぱいに広がる。ナッツ類が苦手なケンシとアキコはあまり好まなかったが、タイシは気に入ったようで、次々口にほうりこんだ。
「とっつぁん」の日、ハルちゃんと近所の酒屋でモスカテルを買い、ちびちびとなめた。こうして季節ごとに、スペインの、カタルーニャの新しい味を一つ一つ体でおぼえていくんだなあ、と一人感動しつつ、秋の夜はふけていった。

2016年8月23日火曜日

言語文学教育課程大学院

バルセロナの日々(18)

 9月に到着後、カタランの授業が始まると同時にコロメール教授の属する教育学部言語文学教育過程大学院の事務室に寄った。スケジュールを確認すると、授業が始まるのは10月半ばだが、その前にガイダンスがあり、そのあとで正式な登録手続きをすることになるらしい。
  10月11日午後6時。ガイダンスの部屋に入った私は、真っ先に「ほんとだ!」と思った。スペインの大学院は、社会人が仕事の傍ら学びにくるところだときいていたが、本当だったからだ。私より長男に年が近い、カタランクラスの若者たちとは明らかに雰囲気が違う。正直ほっとした。
 でも、部屋にいる人たちは、まるで数年来の友人同志のようにすでに話の花を咲かせている。あいた席に座り、置いてあった書類を見ながらようすをうかがっていた私は、あれっと思った。カタランにまじって、今まで聞いたことのない響きのスペイン語が聞こえてくる。そういえば、顔つきがどことなくスペイン人と違っている人たちがちらほらいる。
 そのうち、「どちらから?」と聞かれ、「日本から、あなたは?」「メキシコだよ」と会話が始まった。
 その年、言語文学教育過程には5人のメキシコ人が加わった。毎年中南米の留学生は受け入れていたが、カタラン勢7人に対して、スペイン語を母語とするメキシコ勢5人、そして、私というのは、かなり異例の構成だったようだ。おかげで私は、ほとんどが現場の教師である忙しいカタラン人の同僚よりも、故郷を離れて勉強しに来ている、同じサルダニョーラ住まいのメキシコ人留学生に、よく助けてもらうことになった。

 さて、「大学院」と、ここまで当たり前のように書いてきたが、私が大学院の呼んできたのは、ドクトラードdoctoradoのことだ。バルセロナ自治大学の場合、各学部の学科ごとにドクトラードが開設されている。つまり、私が在籍していたのは教育学部言語文学教育過程ドクトラードだけれど、教育学部でも、ほかに自然科学教育、社会科学教育など、学科ごとにドクトラードがあった。ドクトラードは、大学卒業相当の学位があれば進学でき、そこで、一定の授業単位をとり、最初の論文が審査に通るとマスター(修士)の学位がもらえる。マスター取得後研究者能力試験に合格すると、博士論文を書く資格が与えられる。博士論文の審査に通ると、晴れてドクター(博士)の学位がもらえるという仕組みだ。
 ガイダンスでは、年間スケジュールと授業内容説明の資料が配られた。私たちのドクトラードの講義開始は10月19日。講義は毎週火曜日と木曜日の3時半から6時と、6時から8時半の時間帯で組まれている。10月から2月半ばまでが前期、2月半ばから5月までが後期で、前期だけですむ講義もあれば、両方にまたがった講義もあった。
 修士論文を書くには、20単位の授業をまずとらないといけないので、2年間で修士まで終わらせたい私は、1年目で20単位分、つまり7コマの授業をとらなければならない計算だ。結局私は、前期に3コマ、後期に翻訳学部の1コマを含む4コマをとることにした。前期の1コマは2月にある集中講義だから、10月に始まるのは2コマだけ。カタランの進み具合から考えても、それが一番無理のないスケジュールだった。

 勉強もさることながら、留学の1年目は手続きもややこしかった。7月の下見の際、必要な書類はないかと事務局にたずねたときには、特にない、と言われたのに、9月に行ってみると、正式な手続きの際に、大学の成績証明書がいると言われた。
 ないものは仕方がないので、大急ぎで父にたのみこんでとりよせ、その書類にアポスティーユ認証をとって送ってもらった。この認証がないと、海外では正式な書類として認定してもらえないからだ。さらに、届いた書類は翻訳をして、領事館で翻訳証明をもらわなければ、大学に出す正式な書類にならない。
 けれども、超特急で準備しても、手続きの期日にこの書類だけ間に合いそうにない。ここまできて、書類がそろわなくて大学院に行けなくなったらどうしよう。真っ青になって、学科のコーディネーターの教授に相談した。すると、こういうところがスペインだ。教授が大学院事務局にかけあうと、あとから提出でかまわないと、あっけなく返事がきた。
 間に合うかどうかと、毎日ドキドキしていたのはなんだったのだろう。ここでは何事も言ってみるものなのだ。
 しかも、慣れない手続きは、戸惑うことの連続だった。

 たとえば写真。スペインでは手続きというと、たいがい証明写真が必要になる。準備書類の欄には、「証明書用写真」という言い方をしているのだけれど、最初はそれが何かわからなかった。日本なら、3センチ×4センチの写真というような言い方をしているから、「どのくらいの大きさですか?」とたずねても、いっこうに要領を得ない。それもそのはず。証明写真というのは、DNIなどと呼ばれている身分証明書を初め証明書類全般に使われるもので、証明写真と言えばサイズはひとつしかない。だから、だれもサイズなど測らないし、どこの写真屋でも言えばわかるのだった。。
 大学の卒業証明書、つまり学位証明書もややこしかった。私の場合「文学士」なので、教育学部の大学院に入るには、文学部の学部長に学位流用認定のはんこをついてもらってこなければならないと言われた。「手続き上のことだから、問題ないわよ」と、コーディネーターの教授は言ってくれたけれど、どこに行けばいいかまで教えてくれるわけではない。ただでさえ不案内な大学の中で、文学部に行って、あちこちでたずねながらようやく事務局を探しあてて手続きを頼むだけで、結局半日つぶれてしまった。
 そんなこんなで、10月末、授業の登録が無事終わって学生証を手にしたときは、とにもかくにもホッとした。2005年7月まで有効の学生証。
 やっと正式にバルセロナ自治大学大学院の学生になれたという実感がわいてきた。

2016年6月18日土曜日

スペイン語は耳じこみ!?

バルセロナの日々(17)

カルナバルでネコになった、クレンフォル校のP5「階段の下のネズミ組」

 学校に通いはじめて1ヶ月くらいたったある日、夕方お迎えに行くと、タイシの担任のフアニが、待ってましたとばかりに勢いこんで話しかけてきた。

「今日ね、タイシがはじめて私に話しかけてくれたの。『テンゴ ピピ フアニ』って。ちゃんと『フアニ』もつけてよ」
 すごーい! やったじゃない、タイシ!
 照れくさそうなタイシを、ぎゅうっとひきよせながら、うれしいやらおかしいやらで笑ってしまった。
 最初のまともな文章が「フアニ先生、おしっこ」だったとは、なんともタイシらしい。おしっこは、要領のいい末っ子タイシの唯一の泣き所だった。
 その何日か前、タイシは学校ではじめておもらしをした。家でもしょっちゅうちびり、盛大な失敗もときどきやらかしていたから、とうとうやっちゃったかというところだった。だが、フアニに、
「『ピピ』って言うとか、前を押さえてこう体をゆすってみせるとか、とにかく伝えてくれればよかったのに。こういうことがありそうならありそうだと、おかあさんも言っといてくれないと」
と、けわしい顔をされると、母子ともどもショボンとなった。着替えがないので、パンツを脱いだまま、しめったズボンをじかにはかされているタイシが不憫だった。
「おしっこがしたくなったら、『ピピ』って言うんだよ」私はタイシに言いきかせた。
 きっとフアニも、身ぶり手ぶりで、何度も言いふくめたに違いない。
 そして、晴れて「テンゴ ピピ フアニ」と、なったわけだった。

 ところが、その大喜びの日、家に帰ってから、
「ねえ、フアニにどんなふうに言ったの?」
とたずねた私は、タイシのこたえを聞いて愕然とした。
「『センゴ ピピ フアニ』だよ」
「えっ、テンゴじゃないの? セじゃなくてテでしょ」
「ううん。『センゴ ピピ』。サムエルもそう言ってるもん」
 耳じこみの外国語、おそるべし。
 子どもたちは、文字を介さず、状況から、耳で聞いた音の意味を類推しながら、スペイン語を習得していっていた。耳に聞こえたままを、彼らは口に出す。この場合、テンゴ ピピ(Tengo pipi=私はおしっこがしたい)が正しく、センゴという言葉はない。ところが、イントネーションがばっちりだから、状況からフアニ先生はテンゴと理解し、あんなに感激したのだった。

 それからというもの、子どもたちのオウム返しのスペイン語は、私の日本語なまりのスペイン語より、くやしいほど威力を発揮しはじめた。
 アキコは登校何日目かで、クラスメイトに「ホセマノエって子がいる」と言った。文字で書けばJosé Manuel。この名前、普通にカタカナ書きすればホセ・マヌエルとなる。ところが、スペイン語の「ウ」は、日本語の「オ」に近い。耳を柔らかくすれば、確かにホセマノエだった。
 また、ある日、家に帰ってきたタイシが、わけのわからない歌を歌いだした。
「ミルノウセン ヌランターノウ」
 なんじゃこりゃ。呪文のように、繰り返し繰り返し口ずさみながら遊んでいる。カタルーニャ語だ。意味をたずねても、「わかんなーい」。習いたてのカタルーニャ語にアップアップしていた私は、しばらく考えこんでから、はっとわかって笑ってしまった。
 なんてことはない。タイシは「1999(年)」と歌っていたのだ。きっと先生が毎日、黒板に日付を書きながら唱えていたのだろう。その頃の学校のノートを見ると、どのページも一番上によれよれの字で、「Taishi, el dilluns 15 de novembre de 1999(タイシ、1999年11月15日)」のように日付が書いてある。クレンフォル校は、家庭でスペイン語を話す子が多かったので、年の読みを、先生が節をつけて繰り返し唱和させていたのかもしれない。

 こんなふうに、子どもたちの頭の中に、新しい言葉がだんだんと植えつけられていった。
 どんなときに、どんなふうに言うのか。耳で聞き、まわりの態度を見ながら、意味を類推して使ってみる。うまく言えると、スペイン人はたいがい力いっぱいほめてくれる。間違っても、口に出してみた勇気をたたえ、決して落ち込ませない。こういうところ、スペイン人のいいところだなあと思う。
 自分がほとんど大人になってから文字と頭でおぼえた言葉を、子どもたちが耳からとりこんでいくのは、ふしぎな感覚だった。文法上の数の観念も、性の観念も、時制の観念もないのに大丈夫なのだろうかと、ハラハラする一方で、いや、そんなのなくたって、このままどんどんおぼえて、話せるようになるのかもしれない、と期待したい気持ちがあった。
 ともかく早く友だちと通じ合えるようになるといいね、と祈るように私は見守った。

2016年5月21日土曜日

カタルーニャ語クラス

バルセロナの日々(16)

当時使っていたカタルーニャ語の教科書
 9月の最終週に、カタルーニャ語の授業が始まった。
 10月下旬に大学院の授業が始まるから、それまでにいくらかでも授業で使われるカタルーニャ語をわかるようになっていたい。なのに、困ったことに、私は準備万端とはとても言えない状態だった。
 バルセロナに着く前に、カタルーニャ語の文法はひととおりさらっておくつもりだった。けれど、準備や翻訳に追われ、何ひとつできていなかった。バルセロナに着いてからも、子どもの学校のことや生活を整えること、大学院の手続きで、勉強はあとまわしの状態だった。
 私がとることにしたのは、大学のカタルーニャ語事務所が主催する40時間の入門クラスと、続く40時間の初級クラス。バルセロナ自治大学にスペインの他の地域や中南米からやってくる学生向けの講座だ。どちらも1ヶ月間の構成で、月曜日から金曜日まで連日午後2時から4時までの授業だった。
 ちょうど入門クラスを終えたころに大学院の授業が始まることになる。40時間終えたら、少しはわかるようになるだろうか。
 カタルーニャ語は、学生時代にはじめてバルセロナを訪れたときに興味をいだいて以来、ずっとおぼえたかった言葉だった。それを、またとない環境で学べるのだから、自然と胸がはずんだ。でも、バルセロナに来るまで人が話すのを聞いたことすらない言語を、こんな年齢になってからそう簡単に習得できるのか。私は会話向きの積極性も社交性も持ち合わせていない。不安でいっぱいだった。しかし、カタルーニャ語の習得は、今回の留学の大前提だ。だからともかく前進あるのみだった。

 クラス初日。大学の講義は18年ぶりで、それだけでドキドキしながら指定の教室に入った。スペイン語でおしゃべりをしている子たち。新入生らしい。若いなあ。大学1年だと、若い子はまだ17歳だ。平気な顔をよそおっていたが、自分より長男に年が近いのかと思って、内心動揺していた。
 時間になると、あまり背の高くない、私と同年輩くらいの、きさくそうなジーンズ姿の男性が入ってきた。教材をかかえて、まっすぐに教壇に向かっていったところをみると先生だ。と、いきなり、その男性が口を開き、カタルーニャ語で言った。
「ぼくはジョルディ。きみの名前は?」
 みながきょとんとしていると、もう一度、最前列にすわっていた子に向かって、同じことを繰り返した。さすが若い学生だ。女の子はすぐにルールをのみこみ、となりの子に向かって言った。
「私はサラ。あなたの名前は?」
 ああ、名前をたずねているのか、と私がわかったのは、3人目を過ぎてからだった。自分の番がまわってきて、しどろもどろに声をだしたとたん、どっと汗がふき出してきた。いきなりしゃべらされるなんて、さすが本場の授業だ。

 こうしてカタルーニャ語の入門クラスが始まった。
 授業の中の自己紹介で、クラスメートはすぐ顔なじみになった。アストゥリア出身の17歳の女の子2人組と、ウエルバ出身で言語聴覚士の勉強をしている女の子、マドリードに彼女がいるというカナリア諸島出身のやんちゃぼうず、アンダルシア出身の20代後半の化学の大学院生の若者。
 そして、カタルルーニャ出身の男性と結婚したばかりのメキシコ人のほがらかな女の子と、魚を使って研究をしているというウルグアイの女の子、黒髪に黒い大きな瞳がかわいらしいエクアドルの女の子という中南米勢が、数日後に加わった。
 スペイン語もカタルーニャ語もあやしい私のようなのは、政治学を勉強しにきている20代半ばのまじめなドイツ人の女の子と、獣医学部の背の高いクロアチアの女の子、そして、すぐにやめてしまったフランス人の女の子だけだった。
 ジョルディはカタルーニャ語だけで授業を進めた。いわゆるダイレクトメソッドだ。説明にもいっさいスペイン語を使わない。なのに、新しい表現や語彙を次から次へと、口に出して使わせていく。
 願望の文が出てくれば、「あなたはこのあと何がしたいですか」、未来形が出てくれば「今週の週末、何をしますか」、家族の名称をおぼえたら、自分の家族の写真をみんなに見せて紹介するなど、初歩的な文法で身近な会話がひきだされていった。
 寮でカタルーニャ出身のルームメイトがいるというアストゥリアスの女の子たちは、みるみる上達していった。文法も語彙も似かよっているのだから当然だけれど、それにしても速い。
 一方私は、しだいに落ちこぼれていった。みんなから何歩も遅れて、よろよろとどんじりを行くような感じだ。自分だけジョルディの指示がわからないこともある。思い切って聞きなおしてみても釈然としない。対話形式の練習でクラスメートからペアを組むのを敬遠されているのも感じた。悔しいけど、そうしたい気持ちもわかる。
 こうして、落ちこぼれ状態のまま、1ヶ月は瞬く間にすぎた。院の授業の開始は目前だ。けれども、わかってきたという実感はいっこうに湧いてこなかった。音もぜんぜん聞こえてこない。台所に立つとき、ラジオを聞くようにしていたが、ヒアリングはからきしだめだった。ちょうど『イスカンダルと伝説の庭園』(徳間書店)の校正がぶつかっていた。次々とたたきこまれることを、消化して自分のものにしていくには時間が絶対的に足りなかった。
 悔しさとなさけなさで、授業が終わって教室から外に出たとたん、ぼろぼろ涙がこぼれる日が続いた。ああ、私はどうなっちゃうんだろう。子どもを連れてここまで来て、最初からこの体たらくだ。
 でも、落ち込みも長くは続かなかった。その足で子どもたちを迎えにいくと、母親に戻るしかないからだ。子どもたちは子どもたちでたいへんな時期だった。学校から帰ったら、寝る時間までは彼らとできる限り向き合いたい。そうなると机につけるのは10時か11時、しかもその時には、ほとんどよれよれだった。
 けれどもその一方で、子どもたちは救いでもあった。ストレスでけんかも激しかったが、3人いると、ふいに思わぬところで笑いが起こる。笑顔を見ると、この子たちが元気なら、あとは何とでもなるかという気分になった。
 泣いていても、だれも助けてくれやしない。自分でふんばるしかない。あきらめたらそれまでだ。
 子どもたちの生命力にすがりながら、最初の試練の日々は過ぎていった。

2016年5月5日木曜日

持ち物はおやつ?!

バルセロナの日々(15)

 9月15日、小学校が始まった。
 さあ、いよいよだ。小中学校で3回の転校を経験した私は、新しい学校に初めて行く日の緊張は身に覚えがある。朝、つとめて元気に声がけをして起こしながら、ケンシたちの不安を思った。
 朝食を食べさせ、早めにうちを出る。持ち物は「おやつ」だけ。
 えっ、学校におやつ? なんでも、午前中の休みの時間に、サンドイッチやビスケットなどを食べるらしい。見学の日、初日の持ち物をたずねたら、「おやつだけでいいわよ」と言われたのだ。それにしても、ノートも筆箱も持たずに、おやつ?
 9時少し前に着くと、学校のまわりにはもう、わさわさと親子づれがいた。話には聞いていたが、やはり小学生の間は大人が登下校の送り迎えをするようだ。3ヶ月近い長い夏休み明けだ。子どもたちもにぎやかだし、久しぶりに会ったおかあさんたちもかしましい。
 へえーっ、これがスペインの小学生か。
 心配そうな我が子をよそに、私は思わず見とれてしまった。髪が茶色くて、くりくりっとした目の子が多い。高学年になると、私よりりっぱな体格の子もいる。こういう子たちに向けて、これまで読んできたスペインの児童文学作品って書かれてきたのか。不思議な気がした。
 9時ちょうどに学校の小学部側の扉が開いた。校舎前の小さな中庭で、担任の先生が学年ごとに子どもたちを集めている。校長のエドゥワルドは2年生の担任だった。私たちを見つけるとやってきて、「だいじょうぶ、安心しなさい」といいながら笑顔で、さっさとアキコとケンシをそれぞれの学年の場所に連れていった。学年の最初の日と言っても、入学式も始業式もないのだった。
 そこで私はタイシを連れて、建物の反対側にある幼児部の入り口にまわった。幼児部では、教室の入り口まで親が子どもを連れていくと、先生は子どもの両頬にキスをしてあいさつし、子どもを部屋に入らせる。担任のフアニが、
「ボン ディア タイシ」
とキスをした。タイシがもじもじしていると、同じクラスだというジョルディという子が、いきなりタイシの肩をだきかかえて、部屋の中にひきこんだ。
 慣れた保育園でだって、別れ際、ぐずる日はぐずるものだ。朝は、先生にお願いしたら、潔く立ち去るに限る。私はバイバイを言って、そのままタイシを残して立ち去った。こうして、第1日目の幕が切っておとされた。

 クレンフォル校は、9時に始まり、午前の部が1時まで、午後の部が3時から5時という時程だった。午前の部と午後の部の間の2時間がランチタイム。3分の2の子どもは、家に帰って食べる。だから、家に帰る子の親は、昼にも送り迎えをする。両親とも働いているような子だけが、学校に残って給食を食べる。
 スペイン人は、朝はあまり食べない。コーヒーや子どもなら牛乳と、コーンフレークやマリービスケットくらいですませてしまう人も多いから、昼ご飯までの腹つなぎが必要なのだろう。12時前後のバルには、ボカディーリョ(バゲットで作ったサンドイッチ)やドーナツをほおばる勤め人がたくさんいる。子どもたちは、11時ごろ、「パティ」と呼ばれる休み時間におやつを食べる。1時には昼ご飯になる子どもに、おやつは不要な気もしたが、一般の大人の昼ご飯は2時か3時なので、それならうなずける習慣だ。
 みんなどんなものを持ってきているのだろう。子どもたちにきくと、小さなボカディーリョや、ビスケット、チョコレート、クロワッサン、バナナなど、さまざまだった。
 ちなみに、一度、読書の調査で、午前の休み時間に中学校に行ったことがあったが、中学生の男の子はのきなみ、20センチか30センチはありそうなボカディーリョをほおばっていた。
 1日目、タイシはチョコクリームをはさんだクロワッサン、アキコはジャムをはさんだクロワッサン、ケンシはソーセージをはさんだコッペパンを持たせた。タイシが帰ってくると、「あしたもクワガタのパンにチョコをはさんで!」と言った。タイシには、クロワッサンは、三日月ではなく、クワガタに見えたようだ。だが、最初の頃こそめずらしがってクロワッサンを使っていたが、クロワッサンは普通のパン(つまりバゲット)と比べるとうんと高い。その後おやつは、おにぎりやボカディーリョなどに変わっていった。
 午後5時。いったいどんな顔をして出てくるだろうと思いながら、3人を迎えにいった。校長のエドゥワルドは、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と笑顔で言うと、ちょっと待ってと事務室に行き、各学年の買い揃えるべき教科書や学用品のリストを持ってきた。やっぱりノートや鉛筆だって必要だったんじゃない! 「順々に持ってくればいいですよ」なんて、のんびりしたものだ。でも、そんなわけにはいかないだろう。その日、帰りがけに、教えてもらった本屋と文房具屋に買いにいった。
 子どもたちは、それぞれに表情がかたかった。「何言ってるかぜんぜんわからない」とケンシ。「遊びに入れてくれなかった」とアキコ。「1人でいたいのに、さそわれていやだった」とタイシ。
 これからどうなるのだろう。
 校長のエドゥワルドがいくら「だいじょうぶ」と言ってくれても、私の胸の中では期待と不安が錯綜していた。でも、エドゥワルドの言葉や態度には、思いがけずやってきた日本人の子どもにいい学校生活を送らせてやろうという、教育者らしい思いやりが感じられた。「だいじょうぶ」と、私も信じたかったし、子どもたちにがんばってほしいなあと思うのだった。

2016年4月11日月曜日

クレンフォル校

バルセロナの日々(14)

シャラウ校に行った翌日の9月13日、サルダニョーラの地図と7月に留学生課でとりよせてくれた市内の学校リストをもう一度取り出し、改めて通えそうな私立校さがしにとりかかった。
 スペインの住所は通りの名前と番地からなる。番地は、通りの片端からだんだんと大きくなっていき、大きくなる方に向かって道の右側が偶数、左側が奇数、つまり右側は、2、4、6……となり、左側は1、3、5……となる。だから、住所がわかれば、どの通りのどこらへんで、道のどちら側にあるかまでわかるしくみだ。
 手始めに、郵便局や駅に行く途中で見かけた学校らしき建物の場所を地図で確かめ、校名をつきとめて2校に電話してみた。だが、どちらもあきはなし。どうせ、少し遠いから、と自分をなぐさめる。
 そこで、学校のリストにある私立校の場所を、一校一校地図で確かめにかかった。クレンフォル校を見つけたのはそのときだった。なんだかスペイン語らしくない校名の学校が、案外近そうなところにある。少なくともシャラウ校よりだんぜん近い。普通の学校だろうか。
 電話で用件を告げると、元気のいい男性の声が、あきならある、いらっしゃいと言った。
 あんまりあっさりと言うので、「日本から来たばかりで、スペイン語はもちろん、カタランもてんでわからない子どもですよ」と思わず念を押した。「だいじょうぶ、面倒みますよ」と自信たっぷりの返事。ほんとかなあ。あまり調子がよすぎるのも考えものだ。
 スペイン人ははったりが得意だ。というか、間違いを恐れないというのか、あやふやさを感じさせまいとするというのか、そのくせ途中であっさりこけて、謝るどころか自信たっぷりに言い訳する。もちろんそうでない人もいるが、もともと責任に対する考え方が違うのだろう。少なくともこういうとき謙遜する習慣はない。
 電話だけで決めるわけにはいかないので、翌日一度学校を見にいく約束をした。「だれをたずねていけばいいですか」とたずねると、その男性が、「私をたずねてきてください。校長のエドワルドです」と言った。校長先生だったのか! 1年間、担任として本当によくアキコの面倒を見てくれたエドワルド校長との出会いだった。
 翌朝9時過ぎ、3人の手をひいて学校を訪ねた。子どもたちはおっくうがって、「えっ、また別の学校に行くの? こないだのとこにするんじゃないの?」と、士気があがらない。それはそうだろう。シャラウ校をやめにしようと思っているとは、子どもたちには話していなかったからだ。「でも、こないだのところ、遠かったじゃない。もっと近くていいとこがあるかもしれないから」と、ともかくひっぱっていく。
 5分ほどで書いてあった住所の付近に来た。5分なら上々だ。でも、学校ってどれ? 番地のところに立っていたのは、4階建てだかのアパートのような小さな四角い建物だった。見ると、建物は二つの通りにはさまれており、狭い通りの門と建物の間には、縦横20歩ずつくらいの大きさのコンクリの狭い庭らしきものがある。片方の隣は建物だが、もう片側は小さな公園になっている。これが学校?!
 門の呼び鈴を鳴らすと、女の先生が2人、にこやかに迎えてくれた。エドワルドは用事で出かけたが、話は聞いているので案内しますと言う。校長先生がいないのにがっかりしたが、いい学校でありますようにと祈るような気持ちだった。
 1フロアに、教室は2つか3つだけ。中に入ると、建物の3階に体育の部屋(体育館と呼ぶにはあまりに狭い)、屋上に幼児の遊び場など、思いがけない空間があった。幼稚園・小学校とも、クラスは各学年1クラスだけ。タイシの入る年長は11人、アキコの入る2年生は13人と人数だと言う。多い学年でも20人いない。
 何もかも小さな学校だった。校庭がこれっきりじゃ、体育はどうしているんだろう。けれど、小さいのはこの子たちにとっては好都合かもしれない。案内してくれた先生は2人とも穏やかで感じがよく、歓迎ムードだ。翌日から始まる新学期のために整えられたこぢんまりした教室も、あたたかい感じがする。これなら、よく面倒をみてもらえるかもしれない。
 またまた決断のしどきだと思った。新学期は翌日9月15日からだ。初日からなんとしても通わせなければということはないが、最初から入るにこしたことはない。子どもたちは、これ以上学校をさがす気力はなさそうだし、私も時間がない。よーし、直観を信じよう。経済的に可能ならクレンフォルに決まりだ!
 おずおずと月謝をたずねた私は、耳をうたがった。聴き取った数字を頭の中でアラビア数字に直して、きき間違いかと思ったのだ。「5500ペセタですか?」たずねてみると、そうだという。間違いない。日本円なら4000円にもならない。そろばん塾じゃあるまいし。
明日からお願いしますと、私は頭をさげた。
 あとで知ったのだが、スペインでは私立校でも人件費は自治州から出るらしい。だからこそ、こんな小さな学校がやっていけるのだ。だが、自治州もそれほど鷹揚ではなかったようだ。それがなぜかは、あとでわかる。
 ともかく新学期前日、いちおう納得のいく形で子どもたちの学校さがしにけりがついた。ほっとした帰り道、学校近くの感じのいいパン屋さんに入った。一人一つずつ菓子パンを買う。エンサイマーダという粉砂糖をまぶした、やわらかいパンをほおばる。うれしさと期待がほんわりと心に広がった。

2016年1月3日日曜日

小学校さがし

バルセロナの日々(13)


 7月に下見に行ったとき、小学校について書かなかったのは、事情はわかったものの、決めるに到らなかったからだった。
 留学生課の人がいうには、小学校にはそれぞれ定員があり、公立の小・中学校は3月末に一斉に9月からの転入希望をとるらしい。その後、定員にあきがあるかどうかは、各学校にきいてみないとわからない。だが、7月には学校にだれもいなくなるので、9月にならないと問い合わせようがないとのこと。ともかく、どんな学校があるのか、サルダニョーラの小学校のリストを、役場からとりよせてくれた。
 リストを見ると、サルダニョーラの公立校は、小学校と幼稚園が、ほとんどの場合併設されていることがわかった。とすると、うちの子たちは三人とも同じ学校に通えばいいということになる。これは好都合だ。

 9月。在留届の手続きが終わると、真っ先に小学校さがしにとりかかった。お金をかけられないので、公立校と決めていた。
 サルダニョーラの地図と学校リストを照らし合わせて見ると、家から一番近そうな公立校はセラパレーラ小学校だった。歩いて2、3分というところか。
「スペイン語もカタルーニャ語もまったく話せない日本人の5歳と7歳と9歳の子どもなんですけれど、そちらの学校に9月から入れませんか」としどろもどろに電話でたずねる。電話口に出た人は、まず子どもたちの生まれた年を確認した。生まれた年で、学年が決まるので、ケンシは4年、アキコは2年、タイシは幼稚園の年長になるらしい。そして、うれしいことに、「あきはありますよ。明日にでも来てみてください」と言ってくれたのだ。よかった!
 ところが、これで終わらないのがスペインだ。
 翌日、すっかり気をよくして3人を引き連れて行ってみると、校長先生から、「よく調べたら、2年生のあきがなかったんです」と言われてしまったのだ。
「電話であるって言ったじゃない」と言ってみても始まらない。ないものはないのだ。ぼう然としていると、「近所の別の公立校にあきがあるか調べてみるから、ちょっと待っていてください」と言われた。
 待っているあいだ、事務所の横の廊下に掲示してある行事の写真や、子どもたちの図工の作品をながめる。日本の保育園の発表会や小学校の学芸会を思いだし、親近感がわいてきた。よさそうな学校なのにな、とますます残念な気持ちになる。
 15分くらい待ったろうか。ようやく校長先生が出てきて「歩いて10分くらいのところにある小学校に連絡をしてあるから、今から行ってみなさい」とおっしゃった。
 街路樹のプラタナスがくっきりと歩道に影を落としている暑い日だった。少し歩くと、喉が渇いてくる。通うことになる学校に行ってみるだけのつもりだった子どもたちは、
「ねえ、もう帰るんじゃないの?」「今度はどこ行くの?」とたずねてくる。途中、お店も見つからず、水も買えないし、説明する気力もない。土地勘がないからか20分近くかかって次の学校にたどりついたときには、子どもたちはくたくたになっていた。
 校長先生は、いかにも教育者という感じのあたたかい目をした年配の女性で、子どもたちが疲れているのを一目で見てとり、「あなたが話しているあいだ遊びたかったら、好きなところで遊ばせてやっていいわよ」と言ってくれた。この炎天下、外の遊具で遊ぶっていうのもなあ、と思ったが、ケンシとタイシはさっそく校庭の遊具で遊びはじめた。校長室についてきたアキコには、紙と鉛筆と消しゴムをもらって、お絵描きを始めた。
「大丈夫。あきはあるし、面倒をみますよ。子どもたちも疲れているようだから、とりあえず書類のことだけ説明しますね。あさって持ってきてくれたら、そのときにまた詳しく話をしましょう」と校長先生はおっしゃって、公立の小学校に入るために必要な書類を教えてくださった。市役所で住民登録をして、その証明書をもらってくること、証明写真、戸籍謄本、パスポートのコピーなど。
 そのあとで、校舎を案内してもらった。1クラス25人で、各学年2クラスずつ。教室は、日本の普通の教室よりややこぶりだった。黒板の上に張ってあるアルファベットの文字、壁に並んだフックにつけてある子どもの名前、小さな机や椅子が、日本の保育園や学校と似通った空気をかもしだしている。一つびっくりしたのは、チェスの部屋があったこと。この学校では、高学年で選択でチェスの授業があるらしかった。
 感じのいい学校だと思った。だけど、一つ気がかりが残った。アパートまで帰るのに15分以上かかったのだ。1キロはありそうだ。途中、けっこうきつい坂もある。ケンシはいいけれど、タイシははたして歩けるだろうか。3人そろって保育園に通っていたときのことが思いだされた。3人がその気になるタイミングがなかなかそろわず、家から連れ出すのだけでも一苦労だったのに、この距離だ。本当に通えるのだろうか。
 どうしよう。校長先生はよさそうな方だけれど、この学校で本当にいいだろうか。
 納得のいかない気持ちをかかえ、私は翌日、もう少し動いてみる決心をした。ほかに学校がないか、もう少し調べてみよう。なければ、その学校に通えばいい。私立に範囲を広げれば、もしかしたらもっといいところがあるかもしれない。
 そして、そこで出会ったのが、3人が1年間通うことになったクレンフォル校だった。

2015年11月19日木曜日

荷物が着いた!

バルセロナの日々(12)


 どうやって身の回りの品をスペインまで持っていくかは、悩みの種だった。
 ハルちゃんに荷物をどうしたか聞くと、彼女は、エアメイルと船便でダンボールをいくつか送っただけだったらしい。
 試しに運送会社にきいてみると、海外への引っ越しは通関手続きがこみいっていて、運送料が思ったよりかかることがわかった。その上、荷物を、入国後すぐと受け取るわけにいかないらしい。国境を越えるというのは、何につけ面倒なことだ。
 迷った末、郵便で送ることにした。最大の理由は、持っていくうちでいちばん大きな電化製品であるプリンターを、入国後すぐに使いたかったからだ。コスト的にも、全部EMSで送っても運送会社を使うより安かった。
 テレビと電子レンジとアイロンだけは、スペインに着いて買おうと決めた。テレビは信号方式が違うので日本の規格では使えないし、消費電力の高い家電に対応する変圧器は、高価だしかさばるので、2年だけのことに買う気になれなかった。
 よって、電化製品で持っていくのは、ビデオ(日本・スペイン両方式対応のもの)、ラジカセ(音楽は私の必需品)、プレーステーションとプリンターだけ。炊飯器もやめた。2年だけのために、ヨーロッパ規格の炊飯器を買いたくなかった。ご飯炊きは、中学校の家庭科で、文化鍋で叩き込まれたので自信があった。
 着るあてがなさそうなスーツやよそいきは置いていき、衣類も極力しぼった結果、できたダンボールは8個。そのうち1つは、すぐには手に入りそうにない日本食材。これらをEMSで送ったあと、別口で、私の辞書、参考書類と、厳選した子どもたちの絵本を、書籍小包で出した。

 到着の翌日、日本領事館に在留届を出しに行って帰ってみると、ポストに郵便局の通知が入っていた。日本からEMSで送ったダンボール8箱の引っ越し荷物の配達の不在連絡票だった。「翌日午前中に、もう一度配達をします」とある。早々と荷物を受け取れそうで、ほっとした。
 ところが、翌日、待てど暮らせど荷物が来ない。しびれをきらして、アパートの入り口の郵便受けを見におりてみると、2度目の不在配達票が入っていた。「2度目の配達をしたがいないので、2週間以内に郵便局にとりにきてください」とある。
 ええーっ! そんな殺生な!
 あんな荷物、運べるわけがない。それに、ずっと、呼び鈴が一番聞こえやすい居間にいたのに、気づかなかったなんてことがあるだろうか。ひょっとして、8箱の荷物をドア口まで運ぶのが面倒だから、最初から呼び鈴を鳴らさず、不在通知を入れたんじゃないの? まさかねえ。
 青くなって、私は郵便局に駆けこんだ。サルダニョーラの郵便局は、家から歩いて15分ほどのところにあった。
 窓口で、私は必死でくいさがった。
「昨日の通知をもらっていたから待っていたのに、呼び鈴は鳴りませんでした。私は9時からずっと部屋で待っていたのだから、聞き逃すわけがありません。もう一度配達してもらえませんか」
「2度目の通知が入っていたなら、配達したはずよ。それに、配達員が何時に帰るかわからない。一時半までに戻ってこなかったら、局の窓口は閉めてしまうからどうしようもないわ」
「でも、中には子どもたちが楽しみにしてたものも入っているんです。昨日の通知を見て今日は着くと待っていたのに。取りにくるっていっても、タクシーでも呼んでこないといけないし」。
「車はないの」
「ありません」
 黒いショートヘアーにめがねの女性局員は、ちょっと気の毒そうな顔をしてから、奥に入り、改めて出てくると言った。
「ともかく、配達の車が帰ってきたら、運べるかどうかきいてみるわ」
 家に帰って待つこと30分。もう、どうしてこんなことになるよッ! ああ、持ってきてくれなかったらどうしよう。あれこれ考えていると電話が鳴った。午後1時25分だった。
「今から届けにいくわね」
 よかったあ。
 私は子どもといっしょに、アパートの入り口に降りた。郵便局の黄色いワゴンがやってくる。配達員の人が、さっきのめがねの女性局員といっしょに、見覚えのあるダンボールをおろして台車にのせた。ちょっと強引だったかなあと思ったけれど、配達員の人がそんなに不機嫌でもなかったのでほっとした。その後、このめがねの女性局員とは、日本からの荷物がくるたびに局で顔を合わせ、すっかり顔なじみになった。
 アパートの入口の4、5段の階段をあがるときやエレベーターにのせるときは、同じアパートに住む中学生のアルバロくんとクリスティアンくんも手をかしてくれた。
 手がたくさんあったので、荷物はあっという間に運びあげられた。
 玄関に置いていかれた荷物を見ながら、言ってみるものだなあと思った。黙っていたら、たいへんなことになっていた。
 ビギナーズラックというべきか、結果オーライだったこの事件は、これからのスペイン人とのつきあいを象徴する出来事だった。なぜなら、買い物でもちょっとした修繕の依頼でも、スペインでは、苦情を言わねばならない場面にしょっちゅう出くわすからだ。交渉するなら、理屈を通して、ねばり強く説得しないといけない。私の場合、苦情を言うエネルギーがなくて、泣き寝入りするときもあった。今回のように、個人の裁量で融通をきかせてもらっていい結果に終わることがある一方で、マニュアルがあればありえない水準の低いサービスに泣かされることもあった。
 これを不快と思う人は、スペインでの生活は耐えられないだろう。時に憤慨しながらも、私はむしろこういうきちんとなっていない部分が、社会生活に余裕を生み出しているように感じられ、それほど悪い印象を持たなかった。失敗すれば無駄が出るし、効率も悪い。でも、それを包みこんでまわっている社会のほうが、ずっと人間的な気がする。日本のビジネスマンが、スペインに来ると苦労するわけだ。
 こんな洗礼の末に、到着3日目にして日本から持参した身の回りの細々とした品がそろった。アパートは、着々と我が家らしくなっていった。

2015年10月18日日曜日

バルセロナ到着

バルセロナの日々(11) 

到着の日
バルセロナ、プラット空港で
 翌日の朝、ホテルからタクシーでシャルルドゴール空港に向かった。ゆっくりと休んだが、疲れていたのだろう。私のひざにもたれてタイシが途中で眠りこんでしまった。ぶあいそだった黒人の若い運転手さんが、それを見てふっと笑ったのがサイドミラーにうつり、ゆかいな気分になった。
パリからバルセロナのフライトは2時間足らず。日本からのフライトと比べれば、あっという間だ。

「もう飛行機乗らないんだよね」
 着陸したとき、アキコがうれしそうにたずねた。気持ちがよくわかった。
 出口に向かう免税店のあいだの通路までくると、勝手を思い出し、私の足取りも軽くなる。今度はこの子たちもいっしょなんだ。普段着に運動靴、水筒をさげリュックをしょった3人がいとおしい。
 ふいに、ドラゴンズの青い野球帽をかぶった長男ケンシに、バカンス帰りふうのおじさんが声をかけてきた。戸惑いと照れの入りまじった顔で、「なんて言ったの?」といいたげにふりかえるケンシ。「『おう、チャンピオン!』って言ったんだよ。かわいいと思ったんだよ。だいじょうぶ」
 ああ、スペインだなあと思った。通りすがりでも、すっと声をかけてくる人間と人間の距離感。まるで子どもたちへの歓迎の挨拶のように飛び込んできた言葉。アキコは、ピンクのヘアバンドの両側に2,3本ずつ飾りピンをつけてぴっとおでこを出し、ものめずらしげに瞳を輝かせてすたすたと歩き、一番下のタイシは私にべったりとくっついている。
 ほんとにようやくたどりついた。来てしまったんだという実感がわきあがってきた。
 出口ではハルちゃんが待っていてくれた。ハルちゃんは私たちよりひと足先にバルセロナ入りしていた。喜びいっぱいの再会だった。

 電車を乗りついで、サルダニョーラに到着。駅のそばの中華料理屋で奇妙奇天烈な中国料理を食べ、4時半に不動産屋さんに行った。大家さんのマルタはもう来ていた。契約書をひととおり読み合わせて双方でサインをし、1ヶ月分の家賃と1ヶ月分の敷金、1ヶ月分不動産屋さんへ手数料を払ったら手続きは終了。あっけないほど順調だった。
 子どもたちと荷物を見るとマルタは、「車で送ってあげるわ」と申し出てくれた。お言葉に甘えて、スムーズにアパートに到着。
 アパートの入り口で遊んでいた高学年くらいの男の子が、東洋人の一家を目を丸くして見た。中に入ると、子どもたちは大はしゃぎで家中を見てまわった。「広ーい!」と気に入ったようす。4つあるベッドルームの部屋割りをまず決める。
 ハルちゃんに1部屋。私に1部屋。残りのツインとシングルの部屋をどうわりふるかが問題だった。3人とも1人部屋へのあこがれがある。でも、1人で寝ることを考えると、アキコとタイシは尻込みし、1人部屋はケンシのものとなった。
 一休みしてから、食料や野菜、トイレットペーパーやシャンプー、シーツなど、当面必要なものを買いにいった。

2015年10月9日金曜日

いざ出発

バルセロナの日々(10)


 出発は9月6日に決めた。学生ビザの場合、法的には授業の始まる二週間前からでないと入国できない。守らなくてもばれやしなかったのかもしれないが、カタルーニャ語の語学クラスの開始日から逆算すると、一番早いのがこの日だった。
 奨学金の通知を受け取ってからの1ヶ月は慌ただしかった。
 8月中に、学生ビザ(子どもたちは、学生の家族ビザ)の申請をし、航空券の手配をした。ビザをとるには、戸籍謄本をとりよせた上、外務省でアポスチーユ認証というのをもらうなど、思いもよらない手間がかかった。
 心配なのは飛行機だった。大人1人でもしんどい長時間のフライトだ。3人はおとなしくしていてくれるだろうか。しかも、バルセロナに行く直行便はない。正午ごろ成田を発って、12時間のフライトで日本の夜中にヨーロッパに着き、待ち合わせを入れるとそこからさらに4、5時間はかかる計算だ。大丈夫だろうか。3人とも眠りこけてしまったら身動きがとれない。着くとバルセロナは夜だというのに。
 考えた末、トランジットのパリで1泊することにした。そうすれば、一休みして、翌日昼ごろにバルセロナに着き、そのまま家の契約に行ける。
 9月に入ると、いよいよ秒読みに入った。
 ベランダの鉢植えを近所の人にあずけたり、着られなくなった子どもの服を処分したり、冷凍庫の買い置きを片づけたり、身の回りをどんどん軽くしていった。
 毎日ふだんどおりにすごしてきた子どもたちも、夏休みが明けると、担任の先生とクラスメイトから励ましをいただいて送りだされ、ようやく気持ちが切りかわった。
 そして、9月6日。とうとう出発の朝が来た。
 3人の子連れの移動は、どんなに余裕を見ていても時間がおせおせになるものだ。保育園に送っていたころも、「さあ、行くよ」と声をかけてから、3人そろって玄関を出るまで30分かかるのはざらだった。
 前の晩、明け方近くまでかかって準備をしたにもかかわらず、成田に行くこの朝もそうなってしまった。ほとんど駆けるようにして電車にとびのり、新宿でリムジンバス乗り場についたのは発車の5分前。新宿まで送りにきてくれたつれあいと、別れの惜しむひまもなかった。リムジンの席もばらばらになってしまった。
 さらに、新宿を出て30分すぎたころから、タイシとアキコが酔いだした。うかうかしているうちに成田エクスプレスの切符がとれなくなったことが悔やまれた。電車にすべきだったのに。一人旅ならリムジンに乗ると、スペインに行くんだなあという感慨が湧いてくるのに、日本を離れる感傷にひたるどころではない。
 成田空港に着くと、見送りにきてくれた私の両親が待っていた。長旅はあきるだろうと、おもちゃをプレゼントしてくれる。さっきまでの青い顔はどこへやら。タイシとアキコはたちまち元気になった。現金なものだ。忘れないうちにと、私も冷蔵庫からさらえてきた野菜を母に渡した。とことんケチな性分だ。
 荷物をあずけ、喫茶店で人心地ついたとき、孫の写真をパチパチととっていた父が、水のコップを倒した。あっ。とっさにおしぼりでふく母。ニ人ともそわそわしているのがわかった。鼻の奥がツーンとなった。
 ゲートに入るとき、ならんで手をふる、小さな母と帽子をかぶった父に手をふりかえしていると、涙がこぼれてきた。やるといいだしたらきかない、いい年をした強情な娘を心配しながら見送りにきてくれた両親。なんの因果かこんな娘に育って、二人ともどう思っているのだろう。 2年間孫に会わせることもできない。私の涙に、子どもたちはキョトンとしていた。「なんで泣いてるの」と、タイシがたずねた。
 元気でいてね、私、がんばってくるからね、と胸のうちで言った。
 出国審査をぬけて出発ロビーについても、子どもたちはひょうしぬけするほど普段どおりだった。ちょっとしたきっかけですぐふざけだし、ちっとも落ち着かない。飛行機に乗る前にこれだけは言っておこうと思っていたことを、私は伝えることにした。
「ここからは日本じゃないんだよ。あんたたちのパスポートはおかあさんが持ってるから、迷子になったら、会えなくなっちゃうよ。おかあさんのあとをしっかりついてきてよ。それから、自分の持ち物は自分でしっかりと持っててね。置きっぱなしにしたら、すぐなくなっちゃうよ。自分のとなりに置くときも、ぜったい手をはなしちゃだめよ」
 見ているつもりでも3人いると、ときどき一人が意識の外に出てしまうことがある。私は視力にも自信がない。だから、はぐれないように3人が自分から気をつけてほしかった。それに、手荷物のリュックに詰まっているのは、着替え3組とパジャマとお気に入りのおもちゃ、筆箱、色鉛筆、はさみなど最低限の文房具は、最低限の身の回り品だ。バルセロナまで無事持っていってくれないと困る。
 子どもたちははじめての飛行機にまいあがっていた。ベルトをしめると、忙しく前のポケットに入っているものをすべてとり出し、ヘッドホンをはめてみて、テーブルを出し、いすを倒して注意された。
「おかあさん、これ開けていい?」「おかあさん、お菓子だしていい?」「おかあさん!……」「おかあさん!……」
 ああ、やかましい。そういえば、ここ数年で何回か私は飛行機に乗ったけど、そのときはいつも子どもから解放された旅だったんだっけ。でも、今日はみんないっしょ。いつも大人として楽しんでいた空間。子どもたちはまるで異分子だ。
 子どもたちはちょっとおとなしくしていたかと思うと、こぜりあいからけんかをし、ヘッドホンのプラグがへんなふうにはまってしまったの、もらった飲みものをこぼしたの、機内食をめずらしがってつついてみたものの、「おかあさん、これ残していい?」「おかあさん、ケーキだけ食べてもいい?」とほとんど手をつけず、機内が仮眠のために暗くなっても騒ぎ続け、何度もほかの乗客から注意を受けた。
 3人がようやく眠りこんだのは、着陸の2時間前。パリに着いたときには、出したおもちゃや本をかたづけさせるのがこれまたひと苦労だった。

2015年8月11日火曜日

サルダニョーラのアパートへ

バルセロナの日々(9)


 でも、祈っていただけではない。留学生課の人に会う前に、ひとつ、やっておくことがあった。
「ラ・バングアルディア」という新聞の不動産欄をあたってみることだった。バルセロナで最もポピュラーな新聞、ラ・バングアルディア紙には、日曜日を中心に不動産の欄がある。市内の不動産情報は、これが一番詳しいと聞いていた。
 バルセロナに着いてから一応チェックはしてみていたが、寮というあてがあったし、新聞で物件を見つけたところですぐ契約できるとは思えなかったので、ざっと眺めただけだった。これは、もう一度きちんと見てみなければ。市内ならいくらくらいでアパートが借りられるのか確かめておきたいし、アパートの事情ももう少し通じておきたい。コンパクトな市街地図を買いこんで、地図と首っぴきで物件を調べはじめた。
「○○通り、○部屋、家賃xx」等、びっしりと字が並んだ不動産欄。見ているうちに、少しずつ事情がわかってきた。通りと番地がわかれば、地図ですぐ位置が確かめられる。スペインのアパートはたいてい、居間兼食堂と寝室という構成なので、寝室がいくつあるかが、家の大きさの目安になる。複数の寝室がある場合、ひとつは夫婦の寝室、つまりダブルベッドかツインが入る部屋だ。家具付と明記していなければ、家具なしの物件。ためしに何軒か、電話で問い合わせてみた。
 家賃は、全体に、日本の住宅と比べると安い感じだった。ほとんどは、前にハルちゃんにきいた金額の半額以下だ。家族寮くらいの家賃のところもたくさんある。
 見ているうちに、やっぱりバルセロナ市内がいいや、大学の寮にしなくてかえってよかったかもしれない、と楽天的な気分になってきた。
  
 翌日、事情を話すと、留学生課の年配の女性は言った。
「バルセロナ市内は、アパートをさがすのも小学校をさがすのも難しいわよ。その点、ここサルダニョーラなら大学に近いし、アパートは安くてさがしやすい。バルセロナだと、たとえ家が見つかっても、遠くの小学校に通わせなくてはならない可能性があるけれど、サルダニョーラなら、きっと歩いていける小学校が見つかるわ。サルダニョーラにしたらどう? 子どもと住むならそのほうがいいわよ」
 まったく予想していなかった展開だった。寮でなければバルセロナ市内と、勝手に決めつけていたからだ。
 どうしよう。自治大のあるベリャテラは、サルダニョーラ市の一部だというが、サルダニョーラという名前自体、それまで聞いたこともなかった。子どもとならそのほうがいいって、本当だろうか。
 でも、きっとそうなんだ。ずっと学生の世話をしてきたこの人が言うのだもの。私一人の力であたっても、この旅行中に家は決められないだろう。ここで忠告をきいて、ともかく落ち着き先を決めておくのが得策かもしれない。9月に子どもを連れて来てから家をさがすのは、おそらく不可能だ。大学までバスで15分くらいだというし、カタルーニャ広場から国鉄で20分ほどだというから、バルセロナに出るのもそんなに不便ではない。どうしてもいやなら、あとで引っ越しという手もある。1分くらいの間に、そんなことを思いめぐらした。
「あさってには日本に帰らなければならないので、それまでに決められるなら決めたいんですけれどどうしたらいいですか」
 サルダニョーラにしようと決断して、私はたずねた。
「不動産屋に物件があるかどうか電話してみましょう」
 係の女性は、「寝室はいくつ?」「家具付? 家具なし?」と途中で条件を確認しながら不動産屋に電話で問い合わせてくれた。すると、4つ寝室のある家具つきのアパートが3軒あるので、その日の午後案内してくれるという。しかも、値段をきいてびっくり。高いところで月8万7千ペセタ。安いところだと6万8千ペセタ。あのキャンパスの寮よりも、ラ・バングアルディア紙で見た市内の物件よりもずっと安い。
 サルダニョーラという町と大学とバルセロナの位置関係さえわからないまま、教えられた大学内の停留所からバスでサルダニョーラに向かった。運転手さんにたずねて、サルダニョーラの役場前の停留所でおろしてもらい、留学生課でもらった地図だけをたよりに、約束の地点に午後4時半に行った。

 不動産屋の人は、私と同年輩のパート社員ふうの女の人だった。電話では3軒と言ったけれど、1軒はもう決まってしまって見せられるところは2軒しかない、と言ってから、車に乗せられた。客を案内する仕事の割には口数が少ないが、いやな感じはしなかった。短い丈のTシャツの下からは、細いとは言えないウェストとおへそがのぞいている。こんなくだけた服でお客さんを案内するのも国柄かしら。車で案内してくれるとは親切だなあと思ったのだが、これは留学生課で紹介してもらったからだったようだ。
 1軒目は、日本の団地のようなアパートだった。7階か8階にあったアパートは、寮よりはよさそうだったけれど、ぴんとこなかった。全体にほこりっぽく、子どもが落ちてもふしぎでないくらいベランダの手すりが低いのが気になった。
「どう?」と聞かれて、こんなときどんなふうに答えればいいんだろうと口ごもっていると、「まあ、いいわ。次のを見てから考えて」と言われた。
 そして、2軒目。大家さんがくるはずだからと、アパートわきの植え込みの縁石に座って待つこと10分。鍵を持って大家さんが現れた。30前後の、めがねをかけた、色白でふっくらとした顔だちの、感じのいい女の人だった。
「まだ男の子たちがいるんだけど、7月ちゅうには出ていくことになっているし、ことわってあるから自由に見てちょうだい」といって、案内されたのは、6階建てのアパートの2階。室内を見て、私はひと目で「これだ!」と思った。
 家族寮のよりずっとしっかりしていそうな居間の家具。壁はやわらかい色のペンキが塗られ、どの部屋にも勉強机と本棚、ベッド、たんすがそなえつけてある。今使っている男の子が貼ったのだろう。奥の部屋の壁のドラゴンボールのポスターを見て、気持ちがなごんだ。台所も使いやすそうだ。洗濯機も冷蔵庫も新しいし、食器も鍋釜もひととおりついている。何よりも、全体にこぎれいな感じがする。まわりにはお店も病院も学校もあるという。これで家賃が7万5千ペセタ(当時の相場で約5万円)なら、寮のテラスハウスより格段にいい。
 もうひとつ気に入ったのは、街の雰囲気だった。10階だてくらいのアパートが建ち並ぶ間に、ちょっとした遊び場や木立があるようすは、今住んでいる場所と雰囲気が似ていた。生活観のある街だ。子どもをひとりで歩かせられないときく市内より、こういうところのほうが、確かに子どもには住みやすいかもしれない。
 よし、決めた!
 こんなにすぐ決めていいものだろうか。でも、決断のしどきだと思った。
 予約の手続きは簡単だった。手付けとして1ヶ月分のお金を置いていけば、9月に正式な契約をするまで、それまでの家賃は払わなくてもとっておいてくれるとのこと。外国人というとアパートも借りられない日本を思うと、パスポートと大学の紹介だけで、あっさりと外国人にアパートを貸してくれることだけで驚きだった。
 手付け金の領収書と予約を証明する書類をもらい、とりあえず家の問題がかたづいた。だまされてたらどうしようという疑いが、ちらっと頭をよぎったけれど、留学生課経由だから信じてしまうことにした。これで9月にくれば家はあるはず。
 大きな課題が思わぬ方向で解決し、再び希望がわいてきた。

2015年7月19日日曜日

家族寮の夢やぶれ

バルセロナの日々(8)


 次なる懸案は住むところだ。私たちは、母子4人プラス1名が住める家を確保する必要があった。
なぜプラス1? それは、ハルちゃんがいたからだ。
 ハルちゃんは、卒論の資料提供が縁で知り合った大学の後輩だった。私よりひと回り以上若かったが、バルセロナ好きと児童文学という共通項で親しくなり、1997年のスペイン旅行に同行してくれた仲でもあった。
 行き先をバルセロナと決めたとき、すぐさまハルちゃんのことが頭に浮かんだ。ちょうどその頃、ハルちゃんはバルセロナに留学していたからだ。
 1年滞在を延ばして、いっしょに住んでもらえないかな。
 ふいに、そんな考えが浮かんだ。
 同居してもらえたら、どんなに心強いだろう。共同で借りれば家賃も安くあがる。ハルちゃんも、もう少し勉強したいと思っているかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきだったが、人生のタイミングというものだろうか。ハルちゃんはすぐにオーケーしてくれた。ありがたかった。「母子4人じゃないんです。前から留学している後輩もいっしょなんです」という説明は、留学をめぐる周囲の奇異の目からの緩衝材にもなった。
 もっとも、ストレスいっぱいの不安定な母子に1年つきあわされたハルちゃんはたまったものではなかっただろう、と今になってつくづく思う。これについては、後であらためて書きたい。

 バルセロナ市内に下宿していたハルちゃんは、6月の一時帰国したが、それまでにバルセロナのアパートのことを調べてくれた。けれども、ハルちゃんの友だちで、子連れでバルセロナにきているという人が借りていたアパートの家賃は、私の奨学金の3倍、とても手が出なかった。その地区は、ペドラルベスという高級住宅街だとあとで知ったが、その時は、バルセロナはどこもそんな値段なのかしらと、暗澹とした気分になった。
 旅行者として行ったことしかない私には、バルセロナの住宅事情も土地事情も見当がつかなかった。
 そんなとき、自治大学のキャンパス内に家族寮があるという情報をもらった。インターネットで調べると、家賃105,000ペセタ。4LDKの3階建てのテラスハウスだった。家具つきなので、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品や食器もついていてすぐ住める。よさそうだ。
 ただし、問題がひとつあった。子どもの学校だ。コロメール教授によれば、キャンパス内にも公立の小学校があるが、空きがないらしかった。「空きがない」とは、いったいどういうことだろう。住んでいる地域で自動的に学校が決まる、日本の公立小学校の制度からすると、わけがわからない言葉だった。公立の学校でも定員があるのだろうか。学校のことは、住宅事情以上に不明なことだらけだった。
 ともかく、7月の旅行で家族寮の見てみよう、そのうえで、子どもの学校のことや市内のアパートのことを留学生課の人にきいてみようと決心した。

 家族寮は大学のキャンパス内、カタルーニャ鉄道の駅を降りて、教育学部とは反対方向に行ったところにあった。
 駅から上り坂を歩くこと10分あまり。両脇に夏草がぼうぼうしげり、じりじりと夏の太陽が照りつける片側一車線の道だ。たちまち喉がカラカラになった。これが本当に大学の中かと疑いたくなる。寮の事務局まで、歩いている人とはひとりも出会わなかった。
 寮の事務局は、キャンパスの端っこにあるホテルの隣にあった。アポイントメントをとっていた係の女の子が、さっそく連れていってくれたのは、事務所から駅のほうへ少し戻ったところにあるテラスハウスだった。7,8軒の家が連なった箱のような建物。女の子は、左から2軒目の家の鍵をあけた。
 中に入れてもらって愕然とした。
 確かに家具つきの4LDKだ。でも、ついている家具といったら、まるでベニヤをはりつけたみたいなしろものだし、壁も床もコンクリがむきだしだ。とても素足ではたえられそうにない。この殺風景なコンクリートの箱を子どもたちがほっとできる空間にできるだろうか。カーペットを敷いたり、壁に何か貼ったり、かなり手を入れないといけないなと直観的に思った。
 それに、まわりにお店もない。こんなところで、どうやって家族4人の胃袋を満たすだけの買い物をできるだろう。女の子に思わずたずねた。
「みなさん買い物はどうしているんですか」
「車ですぐのところにスーパーがありますから」
「でも、私、車を持つつもりはないんです……」
 案内の女の子は黙りこんだ。
 それに、10軒たらずのテラスハウスで、子どもたちの友だちが見つかるだろうか。こんなさびしいところで、どうやって暮らしていけるだろう。
 ここじゃだめ。絶対にだめ。
 家がすごく快適なら、思いきってここに決めて、子どもの学校の問題はあとで解決することも考えられる。でも、快適でもないのに、不便さを我慢しながら、わざわざここに住むことはない。
 家族寮に住むという考えは、私の中で完全に消えた。
 仕方がない。留学生課の人と相談してから考えよう。
 留学生課の人には、その翌日、会うことになっていた。どうかいい展開になりますように、と祈るような気持ちだった。

2015年7月1日水曜日

テレサ・コロメール教授

バルセロナの日々(7) 

 奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
 テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
 初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
 住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
 コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
 さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
  
 バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
 鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
 カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
 
 キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
 電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
 研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
 白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
 電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
 と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
 教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
 壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
 ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。

「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
 来ていいんだ!
 その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。

2015年6月9日火曜日

 Contarで始まりContarで終わる

バルセロナの日々(6)

 4月を10日ほどすぎたころ、スペイン大使館から電話が来た。
「書類審査を通過しましたので、20日の午前10時20分に大使館においでください」
 日本人の女性職員が事務的に告げた。
 やったー! 面接に行ける! 
 面接官は何人だろう。話がききとれるだろうか。ちゃんとこたえられるだろうか。不安が押し寄せてきた。でも、今さらじたばたしても始まらない。今のままの自分でぶつかるしかないと、腹をくくった。
 当日は、お気に入りの服で気持ちをもりたてた。水色のハイネックと、花をあしらった紺系の長めのスカートに、丈の短い黒いジャケット。誕生石のトルコ石が揺れるピアスをぶらさげ、若い頃、気合いを入れたいときに愛用していたシャネルの十一番の口紅をひいた。
 早めに神谷町に行き、駅のそばのドトールで一息いれる。オフィス街をいきかう人々をながめながら、今この中でいちばんドキドキしているのは私かもしれないと思った。
 大使館の一階のサロンで待っていると、指定の時間を過ぎたころ、40前後の頭部のややうすい男性が階段をおりてきた。この人が面接官だろうか? 二階の事務室に案内され、真ん中に置いてあるいすにすすめられるままにすわると、その人はいきなり言った。
―クエンタCuenta.
えっ? 何を言われたのか、とっさに判断できなかった。数えろ? 動詞contarには、「数える」「話す」の意味がある。でも、数えろなんてへん。じゃあ、話せっていうこと? 
「書類を読んだけれど、何をしたいのかもう一度説明してくれますか?」
 助け船をだしてもらって、面接官はその人だけなのだとわかった。
 児童文学の作品を通して、おさない日本の読者が、ステレオタイプに陥らないスペイン人の姿を知ることは、真の国際理解に役立つことだ。すぐれたスペインの作品を日本に紹介していくため、ぜひともスペインで学びたいという、計画書の趣旨をどうにかこうにか説明する。面接官が言った。
「よくわかった。私はとてもいいと思う。やりたいことがはっきりしているし、計画もしっかりしている。ただし、ふたつ問題がある。一つはスペイン語の能力を証明する書類がないこと。つまり、スペイン外務省は、せっかく奨学金を与えた人間が、スペイン語ができないために勉強が続けられなくなるのをおそれている。もう一つは、年齢がややオーバーしていること。30歳で年とっている人もいれば、50歳で若々しい人もいるのだから、私は年齢制限などばからしいと思うし、何で『36歳』と定めたかも不明だ。だけど、本国の審査員の中には気にする者もいる。この面接のあと、世界各国から集まった書類が本国で審査される。あなたのやろうとしていることは、とても意義があると私は思う。私はおすよ」
 喜びがわきあがってきた。だいじょうぶかもしれない。空気がいきなりやわらいだ。
「そのピアスはインディアンのかい?」
 トルコ石のぶらさがったピアスは、確かにネイティブアメリカンふうのアクセサリーだった。
「いえ、トルコ石は私の誕生石なので縁起をかついでつけてきたんです」
 関係ない話をしてるけど、何気なく私のスペイン語力を確かめてるんだろうなと思いながら、私はもうひとつのことを考えていた。話ついでだ。あれを言ってしまおうか? やっぱりやめておこうか。でも、このぶんなら言ってもだいじょうぶかも……。
 ずっと心にひっかかっていた言葉を、私ははきだした。
「実は私、ひとりで行くんじゃないんです。子どもを連れていこうと思っているんです。3人」
「子連れ」と言ったら不利になるかもしれないと、書類では一切触れなかった。でも、言っておいたほうがいいんじゃないかと、ずっと迷ってきたことだった。
 面接官はあっさり言った。
「それはいい。子どものときから異文化を知るのはとてもいいことだ。私も子どもをこちらの学校にかよわせている。そんな子が大人になったとき両国の架け橋となっていく。子どもがいっしょなら、いっそう価値がある。どうして書類にそう書かなかったの?」
 なごやかに面接は終わった。ドアまで送ってくれたとき、面接官が言った。
―Cuenta conmigo.
 動詞contar+con+人。人を当てにする。つまり、「まかしとけ」!
 うれしさがこみあげてきた。やるだけやった。地下鉄駅までの帰り道、春の陽射しが気持ちよかった。

 そして7月26日。スペインから通知が届いた。ちょっとお使いに行こうとした出がけに郵便受けを開けると、スペイン外務省から封筒が来ていた。待ちきれず、びりびりと封をあけた。お役所ことばのかしこまった手紙。でも、かんじんな文字はすぐ目にとびこんできた。
「1999-2000年度 月額97,500ペセタの奨学金を授与する」
 ずうっともやもやしていた霧がぱあっーっと晴れ、いきなり視界が開けたような気分だった。これで勉強できる。勉強しなさいって、スペインの外務省が言ってくれたんだ。すみわたった夏空を見上げて、深呼吸をした。「わあーっ!」と叫ぶかわりに、マンションのエントランスの階段をダーッと駆けおりた。

2015年5月27日水曜日

奨学金をとろう

バルセロナの日々(5)

 もうひとつの問題は、奨学金だった。
 スペイン留学のガイドには、3つの奨学金が紹介してあった。しかし、応募資格を見ると、かろうじて可能性がありそうなのは、スペイン外務省の奨学金だけだった。かろうじてと書いたのは、応募要件に「36歳までが望ましい」とあったからだ。私は年齢がオーバーしている。でも、「まで」ではなく、「までが望ましい」だもの、望みがあるかもしれない。
 そこで、この奨学金で留学したことのある大学時代の友人にたずねてみた。彼女によれば、当時もこの条件はあったが、かなり年配の合格者もいたらしい。
 よし、それならものはためしだ。
 請求していた募集要綱が大使館から送られてきたのは1月はじめ。応募の締め切りは3月末日。スペイン語で用意しなければならないさまざまな書類があった。
 ひとつ困ったのは、提出すべき応募書類の中にある、スペイン語能力検定の証明書がなかったことだ。だが、問い合わせてみると、ないのは不利だが、応募ができないわけでないことがわかり、一安心した。
 書類のメインは、研究歴や職歴、留学計画の概要などを書いた申請書と、それに添える研究計画書だ。「行かせてやろう」と審査員が思ってくれるようにまとめなければならない。これには、何かと企画書を出させたがる職場で、曲がりなりにも7年勤めた経験が役立った。
 もちろんスペイン語の表現力も試される。そこで、ひととおり書いたものを、友人のモンセ・ワトキンスに見てもらうことにした。モンセは、鎌倉に住み、日本文学の翻訳のかたわら、在日日系人のルポルタージュなども書いている、バルセロナ出身の女性だった。人間的で理性的な彼女の視点を深く信頼していたから、今回の留学について彼女がどんな意見を持つかも知りたかった。
 待ち合わせの鎌倉駅に、自転車を押しながら、紺の作務衣で現れたモンセの姿を今でもはっきりとおぼえている。早春のうららかな日だった。そばやで腹ごしらえをしているとき、私は切り出した。
「カタルーニャ語がとっても不安だけど、どうしてもバルセロナ自治大に行きたいの」
 すると、モンセは大きな目をあきれたように見開いて言った。
「手紙をもらったときから本気かなと思っていたけど、本当みたいだね。でも、カズミ、無理だよ。カタルーニャ語はスペイン語よりラテン語に近くて、語彙も音も違う。なんでマドリードやサラマンカにしないの? そのほうが子どものためにもいいよ」
「自治大の先生がいちばん興味のある研究をしているの。読むのはすぐできるというし」カタルーニャ語も繰るモンセの即座の否定的意見にかなり動揺しながらくいさがった。
「がんばろうというのはわかるけど、これは努力の範囲を超えてる。思ったことができないと、苦しむのはカズミだよ」
 そうだろうか。私はただ意地をはっているのだろうか。
 食事がすむと、小町通の入り口にある昔風の喫茶店に移った。私はなんだか心細い心地で、書類の文字をたどるモンセの手元を目で追っていた。すると、モンセがいきなり笑い出した。「年をくっているけれども、学びたいという意欲はかえってあるつもり」と、留学への意欲を訴えた箇所にきたときだった。
「『年をくっている』ねえ……。その年になって、子どもを連れてでも勉強しに行くというのは、若いときの留学の何倍も貴重なことだよ。私はたいへんだと思うし、別の場所にしたほうがいいと思うけど、そこまで言うなら、がんばったら」
 このときの、モンセのあたたかなまなざしを思い出すたび胸がいっぱいになる。これがモンセと会う最後となったからだ。モンセは私が留学中の2000年秋、ガンが再発し帰らぬ人となった。
「ほんとにたいへんだった。でも、行ってよかったよ」と、一番に報告をしたい人のひとりがモンセだったのに。

 書類が整い、投函したのは3月20日頃だった。
 書類審査に通れば、4月になって連絡があり、面接に進めるらしい。何人受けるのかも、何人受かるのかもわからない。でも、倍率は気にならなかった。「研究計画書」に、書けるだけのことは書いた。やれるだけのことはやった。落ちたらくやしいけれど、悔いはない心境だった。



2015年5月6日水曜日

行き先さがし

バルセロナの日々(4)

 行けるかどうかを調べると言っても、いったい何から手をつけたらよいのだろう。
 決めたいことはふたつあった。ひとつは行き先。もうひとつは奨学金。
 子どもを連れていくのだから、住む場所や子どもの学校など手配が必要だ。あらかじめ行き先が決まっていなければ始まらない。単身の留学ならいざ知らず、行きあたりばったり、ともかく行ってから考えるというわけにはいかない。
 それに、児童文学はどこででも勉強できるものではない。勉強できるかわかりもしないで、行くのは暴挙だろう。
 一方、奨学金は、資金面のほかに、説得材料としてどうしてもほしかった。
 いきなり留学と言っても、だれが賛成してくれるだろう。奨学金をとれたなら、少しは留学を正当化できるし、ちゃらんぽらんな気持ちでないことが示せる。

 スペイン留学のガイドブックを読むと、スペイン語学留学という場合、行き先はたいてい、大学の1年履修の外国人コースか、公立や私立の語学学校のようだった。それ以外の情報はほとんどのっていない。だが、どちらも私が求めているものではなかった。子どもを連れていくのに、それだけでは足りない気がした。
 そこではじめに思いついたのは、その前年旅行で訪れた、サラマンカのヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団、国際児童図書センターだった。アナヤという大手出版社の創業者ヘルマン・サンチェス・ルイペレスが、青少年の読書推進を目的として、ミュンヘンの国際青少年図書館をモデルに1985年に設立した、スペインの児童文学研究の要とも言うべき機関だ。
 ミュンヘンの国際青少年図書館では日本の研修生を受け入れているという話だから、ひょっとしてサラマンカの国際児童図書センターも同様の制度があるかもしれない。1年なりあそこに身をおいて勉強できたらどんなにいいだろう。
 けれども、問い合わせへの答えはノー。数週間なら可能かもしれないが、何か月という単位での受け入れは前例がないし、日本やアジアがらみの仕事はないとのことだった。
 次にあたったのが、「読書へのアニマシオン」の著者サルト氏の率いるエステル協会だった。エステル協会は、スペイン文部科学省の要請で、「読書へのアニマシオン」の指導者講習のほかに、児童文学の専門家養成講座を開いていると聞いている。全部で200時間の大学院レベルの講座だそうだ。
 けれども、いくら催促しても返事は来ず、ノーと判断された。あとでわかったのだが、その養成講座は短期のプログラムで、継続的なものではないようだった。

 どうしよう……。
 ここにきてやっと私は、一か八か、大学で児童文学関係の研究をしている先生にあたってみようと決心した。
 目的からすれば、真っ先にここにアプローチしてもよさそうなものだ。なのに、なぜ二の足を踏んでいたのかと言えば、ひとつには、大学への正規留学はむずかしいと留学ガイドブックにあったからだ。それに、何の面識もない名の通った先生に、いきなり連絡することへの気後れもあった。
 でもほかにあてはないのだから、あたって砕けろだ。
 以前から目をとめていた3人の児童文学研究者の連絡先は、調べるとあっけなくわかった。ヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団のレファレンスサービスで教えてくれた。
 どの先生からあたろうか。
 一番ひかれていたのは、バルセロナ自治大学のテレサ・コロメール教授だった。3人のうちの唯一の女性で、発表された文章を読む限り、私が関心のある児童読み物についていちばん詳しかった。
 それに、バルセロナだ!
 「スペイン」に住めればいいと言いながらも、心の底の底には、せっかくなら「バルセロナ」がいいという思いがあった。バルセロナは、1983年に卒業旅行の一人旅ではじめて訪れて以来、いつかは住んでみたいとあこがれ続けてきた町だった。
 でも……。バルセロナで本当に大丈夫かなあ。
 バルセロナは、スペイン語とカタルーニャ語のバイリンガル地域だ。子どもたちの学校の授業もカタルーニャ語。自分だって話せないカタルーニャ語の言語圏に子どもを連れていくなんて、無謀すぎやしないか。ちんぷんかんぷんの言葉がいっぺんにふたつも飛び込んできたら、子どもたちはどうなってしまうだろう。
 でも、実を言うと、カタルーニャ語は前々から学びたかった言語だった。カタルーニャ語の児童文学にも興味があった。
 ここでコロメール教授にあたってみなければ、一生後悔する。返事がくるかどうかわからないんだもの。ともかく問い合わせてしまおう。 
 今ほどメールが普及していない時代だった。いきなりメールは失礼な気がして、ファックスで手紙を送信した翌日、コロメール教授からメールで返事が届いた。
「手紙を読みました。それならうちの大学院で2年間勉強してはどうですか。中南米からの留学生はじきにカタルーニャ語をマスターしています。スペイン語が身についているなら大丈夫でしょう」
 やったー! 信じられない気持ちで、ノートパソコンに届いたメッセージを何度も何度も読み返した。
 大学院で2年? 大丈夫かな。2年なら長男が中学にあがらないうちに帰ってこられる。うん、大丈夫だよ。よーし、行ってしまえ。
 奨学金がとれようがとれまいが、9月には絶対バルセロナだ、と私の心は決まった。年が明けた1999年1月末のことだった。


2015年4月25日土曜日

迷いをふりきって

バルセロナの日々(3)

 いや、むしろ最初は、「連れてっちゃえ」というよりも、「連れていくっていうのも、もしかしてありかな?」くらいの気持ちだった。
 そう思い至ったのには、実は現実的な理由があった。
 いくらかまとまった自己資金があったのだ。結婚前にためたお金をつっこんであった10年満期養老保険が、その年の春に満期になっていた。何か大事なことに使おうと思っていたお金。1年間(この時点では、留学は1年のつもりだった)子どもと留学できるくらいの額はあった。お金の工面に奔走しなくていいのは、大きな強みだった。

 けれども、本当に子どもを連れていってよいものだろうか。
 幼い頃の海外経験は、きっとかけがえのないものになる。翌年から1年連れていったとしても、帰ってきたとき上の子は小学校5年生。中学受験の予定もなし、勉強はなんとかなるだろう。けっしてマイナスにはならないはず。
 でも、そんなにうまくいくものだろうか。都合よく考えすぎてはいまいか。3人とも、スペイン語はおろか、外国が何かすらわかっていない。どのくらいで話せるようになるのだろう。言葉がわからないのはきついだろう。友だちと別れさせるのもつらい。母親の身勝手で、子どもたちによけいな努力を強いてよいのだろうか。
 そんな迷いの真っ只中で出会ったのが、次の文章だった。
 須賀さんが私の目をのぞきこんで、いつにない語気でいったのを思い出す。「あなたみたいな人は一度は外に出るべきよ。子どもたちも少し大きくなったら、 じゃなければ三人連れてってもいいじゃない。どうにかならないの」(『追悼特集須賀敦子 霧のむこうに』(河出書房新社)所収 森まゆみ「心に伽藍を建てたひと」より)
 タイトルからして「これは!」と思った。
 須賀さんの『ヴェネツィアの宿』という本の中に、「大聖堂まで」という章がある。そこで須賀さんは、大学院の女ともだちとの議論はほとんどいつも「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのか」ということに行きついたと回想し、さらに、そのころ読んだ「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」というサン=テグジュペリの文章に揺り動かされたと綴っている。須賀さんの文章の中でも一番好きで、何度も何度も読み返してきた箇所だった。
 そこに持ってきて、「いつにない語気で」だ!
 自分が「あなたみたいな人」にあたると思ったわけではない。けれど、外国に住むのに、3人の子を連れていくという選択肢もある、少なくとも子どもにとって悪いことでない、と肩を叩かれた気がした。
 よし、もう子どものことで迷うまい。子どもたちにも得るものがあると信じて連れていこう。
 私は本腰を入れて、スペインに行けるかどうかを調べ始めた。

2015年4月18日土曜日

留学してしまえ!

バルセロナの日々(2)

 それにしても、学生や学者でもあるまいし、なんでまた留学しなければならなかったのか。
 一度外国に住んでみたいという気持ちは、さかのぼれば高校時代からあった。けれど、思い切れないまま、大学を出、就職し、結婚し、子どもを持った。あーあ、一生外国暮らしとは縁がないのかと、思ったものだった。
 心の底に押しこめていた日本脱出願望が再燃したのは、長男出産後、本格的に翻訳にとりくみだした頃からだった。やっぱり留学してみたい! 翻訳を一生の仕事にしたいという意志がかたまるにつれ、このままでいいのか、という思いがふくれあがっていった。
 現地の経験がないのは大きなコンプレックスだった。旬の野菜や果物の味、季節ごとの風や光の感じ、町の景観や匂い。そういったことを実感として知らないままの翻訳は、ためらいと不安があった。文字にあらわれない人々の表情や仕草、声の調子など、想像の土台となる体験がほしかった。
 会話ができないのもつらかった。読むのはよくても、話すとなると腰がひけた。翻訳に携わるなら、外国から作家を招いたとき案内できるくらいしゃべれないとなあ、という思いがあった。
 翻訳修行を始めてから、旅行で2回スペインに行きはした。一度目は、末の子がおなかにいた1994年春、翻訳中の作品の著者に会いに。2度目は97年秋、児童図書館とブックフェアを見るため。一度目のとき恩師から、「作家に会ったりしたら、こんなにスペイン語のできない人が自分の作品を訳すのかと、がっかりされますよ」と、さんざんイヤ味を言われた。実際、会話力のなさには、ほとほと泣かされた。
 それに、旅行は所詮旅行だった。留学が無理だからと、子どもの世話を母や家人に頼みこんで駆け足で旅行をしても、できることは限られている。腰をすえて勉強したいという思いがかえってつのった。
 スペインのことをもっと知りたい。スペインの児童文学を理論的に語れるようになりたい。自己流でなく、一度きちんと勉強したい。現地の書店や図書館で本をじっくりとさがしてみたい。スペイン語を話せるようになりたい。
 だけど、どうして留学なんかできるだろう。
 子どもはどうするの? だれが面倒を見る? 
 留学と言うと、まずネックになるのは子どもだった。第一、つれあいがうんと言うわけがない。両親も卒倒ものだ。子どもの友だちの母親たちや近所の人からも、どんなふうに言われるだろう。
 やっぱり、子どもが高校を卒業するくらいまで待つしかないか……。
 でも、行きたいなア。住みたいなア。勉強したいなア。
 留学願望の内圧が、そんなふうに高まりきった1998年夏の終わりか秋のはじめだったろうか。はじけるように、「じゃあ、子どもも連れてっちゃえばいい」という考えがひらめいた。
 そうだよ、連れてっちゃえばいいんだ。どっちみち子育てはほとんど一手に引き受けてるんだもの。日本にいようが、外国にいようが同じじゃないか。小西章子さんが『スペイン子連れ留学』を著されたのは、もう20年以上前のことだ。行けない、行けないと、うじうじうらめしそうにしけた顔をしているくらいなら、いっそ、飛び出してやってみればいい。
 これがすべての始まりだった。