2016年11月23日水曜日

名作短編で学ぶスペイン語




 『名作短編で学ぶスペイン語』(ベレ出版)が、明日かあさってから書店に並びます。
 10名の作家の11篇の短編を対訳で注とともに収録した語学書です。 

 2年前、『名作短編で学ぶイタリア語』という本が出たとき、ほかの言語でもという出版社の意向を受けて、イタリア語の翻訳家の関口英子さんに声をかけていただいたのがきっかけです。関口さんとは、まったく面識はなかったのですが、語学学校で講読や翻訳を教えているという共通項から、目をとめてくださったのかもしれません。
 イタリア語もお二人で作っているので、これもだれかとできないかと思い、声をかけたのが網野真木子さん。日本ラテンアメリカ子どもと本の会を立ち上げたとき以来のおつきあいで、快くひきうけてくれました。

 短編と言っても、対訳で載せるとなるとごくごく短いものに限られ、また、約10篇のうち、著作権料を払うものは4、5篇にという条件があり、国もとりまぜたいし、難易度もいろいろにしたい、なるべくこれまで翻訳されていないものをと、まずは作品探しから始まりました。
 著作権をとる作品をしぼりこむまでに半年以上かかり、著作権の手続きもなかなかすんなりはいきませんでした。スペインのどこのエージェントが扱っているかをこちらで調べたり、ペルーのリベイロに至っては、個人的なつてをたどってようやく著作権者がわかったり。
 載せられなくてとても残念だったのがアナ・マリア・マトゥーテ。いくつか候補で訳してみましたが、著作権をとるのは4つにしましょうということになって泣く泣くあきらめました。
 メキシコの作家が入れられなかったのも残念でした。オクタビオ・パスで、手頃な長さのしゃれたものがありましたが、翻訳がすでに出ていたのであきらめ、また、メキシコの著作権保護期間は100年なのでパブリックドメインの作品を探すのも困難だったのでした。

 私が担当したのは、ベッケル、リリョ、ルゴーネス、マリーアス、リャマサーレスです。
 対訳だからごまかしがきかない怖さが、あとになるほどに大きくなってきてドキドキです。「そこ、違うよ」というところを見つけたら、どうぞそっと教えてください。絶対に何かあると思います。
 対訳だからと、原文についついひかれがちになるのですが(これは私の言い訳!)、網野さんの訳文は、それぞれ文体に味わいがあって、とてもすてきです。網野さん、リベイロをもっと訳してみたいと言っています。短編選集を出したいという編集者さん、いませんか?
 網野さんと最後までチームワークよく、気持ちよくとりくめたのも幸せなことでした。

 この本を読んだ学習者が、「ああ、スペイン語の文章って、こんなふうに読みといていけばいいのだな」と、コツをつかんで、いろんな本に手をのばしてくれたなら、目的を果たせたことになるかなと思っています。巻末で、収録作家以外の作家の短編の原書も紹介しています。
 
 これで今年の仕事はすべて出そろいました。今年の奥付で、訳者、著者として、私の名前が出ているのは次の4点。



 そして、翻訳協力した本を入れると、次の7点。忙しかったわけです。どの仕事も、そのときの自分の精一杯ではあるのですが、1つしあげるたびに課題に気づかされて、精進、精進という気持ちになります。この仕事を続けていく限り、自分への不満は次の仕事で返していくしかないので。
 来年もがんばろうと、はや年末の気分です。
 


2016年10月23日日曜日

Una gran mujer



 井戸さんとはじめて会ったのは、17,8年前だったと思う。モンセ・ワトキンスの小さな講演に行ったとき、モンセに「この人を知っていますか?」と引き合わされた。小柄だけど元気そうな人だなというのが第一印象だった。
 留学から帰ったあと、以前アルバイトをしていた会社にもう一度来ないかと誘われ、翻訳の売り込みをしながらしばらく働いていたが、翻訳のサブの仕事もスペイン語関係にシフトしていけたらなあと、ぼんやりと考えるようになった。
 そこでふと思い出して一度井戸さんに、「何かスペイン語でやらせてもらえないか」と相談したが、特にないと言われた。

 それが、たぶん2003年の終わりごろ、頼めそうなことがあると連絡をもらった。「童話で学ぶスペイン語」という通信添削クラスを、別の講師からひきつがないかという話だった。そして、最初はおそるおそる、だんだんと自分なりに工夫しながら、教材の本を選び解説をつくって、添削の講師をするようになった。
 講師になって何よりありがたかったのは、月に1回学習会を開いてくれたことだった。土曜日の午後などに、通信添削の講師が集まってネイティブに質問をする。「そんなことまでこだわるか」というくらい、納得するまで徹底的に。「東京のかたすみで、スペイン語の単語一つでこんなに熱くなって話しているなんて、スペイン語圏の人たちが知ったらあきれそうだわね」と笑ってしまうほど、みんな凝り性だった。スペイン語ネイティブの友人が日本にまったくいなかった私は、一人で考えてわからなかったことをたずねられるのがうれしくてならなかった。 
 そして、そこで出会い、信頼しあえる関係を結んだ講師たちと、その後、さまざまな仕事をするようになっていった。大学の非常勤講師をするようになったのも、そこからのご縁だ。
 
 通信添削は講師の側も結構根気がいる仕事だが、1か月に1回、コツコツと答案を送ってくる受講生の訳文を添削することは、月1回、スペイン語から日本語にするとき、どんなふうに訳していけばよいかということを考えさせられることだった。否が応でもそれを繰り返すことで、私自身もとても多くを学んだ。おかげでそれまでスルーしていた用法に気づかされたり、文章を読むときに意識しなければいけないポイントがうんとクリアーに見えるようになった。
 仕事ではないけれど、なぜかスペイン語に魅せられ愛着を感じて勉強し続けている全国の受講生の存在は、いつも私を励ましてくれた。

「童話で学ぶスペイン語」という講座を担当するうち、やっぱり児童文学の翻訳も教えてみたくなって、「児童文学翻訳」というコースを開講してもらった。さらに、「童話で学ぶスペイン語」で、スペイン語の本を読むのに慣れてきた人たちが、ずっと読み続ける、生涯教育的講座として「物語を読もう」という講座も開講した。
 また、通信添削は8月だけお休みにしてもらうので、なら、8月に特別講座をしてみようかということで、「夏の半日翻訳講座」をするようになった。そして、溜池の教室が開いてから、通学の講読の講座もと、「みんなで読む物語とエッセイ」というクラスを始めた。
 こんなのはどうでしょうと持ちかけると、おもしろそうだと思うと、なんでもさせてくれた。私にとってイスパニカは、細々とながらさまざまなことを試させてくれる貴重な場だった。
 これらの講座は、どれも今も続いている。私にとってまさに原点だ。

 井戸さんは、30代後半でスペイン語を学び始め、その後それを仕事にしてしまったという、稀有な経歴の持ち主で、何よりポジティブで好奇心が強く、努力家だけれど、鼻の頭に汗をかいているようなところは人に見せない人だった。

 気が合ったのは、井戸さんも私も、あきらめの悪いところが似ていたからかもしれない。
 一緒に仕事をするとき、私たちにとって大事なのは、その仕事をいかに最良のものにするかだった。だから、最後になって、「こうしたほうがいいんじゃないか」というビジョンが見えてしまうと、たとえその仕事がすでに合格点には達していると思っても、自分の体が許す限り、最後までねばってよりよいものにしようとした。時には夜中の12時にスカイプで話し込むこともあった。それでも、いいものができると、何もかもが報われた気がした。仕事のあとで飲むお酒はとってもおいしかった。
 そこまで自分を酷使することもないだろうに、でもそうやって常にベストを求めてきたからこそ、次の仕事が来たのだろう。逆に、合格点に達することだけを目指していたのでは、イスパニカのように小さな会社は生き延びられなかったと思う。そうやって、彼女はずっとやってきたのだ。
 スペイン語で仕事をできることがうれしいというのも、私たちの共通項だったのかもしれない。きまじめでおもしろみのない私と違って、井戸さんはほがらかでポジティブで、いつも笑顔という違いはあったが。

 訃報を受けてから、講師仲間の1人が、「ずっとお世話になったから。井戸さんがいなかったら、今の自分はない」とメールに書いてきた。同じことを私も思っている。
 小さい体で人生を駆け抜けたような井戸さん。過去形で語るのが、今でも信じられない。

 ありがとうございました。どうぞ安らかに。

2016年9月17日土曜日

THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016


昨日から19日月曜日まで、THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016というイベントが、京都造形芸術大学・東北芸術工科大学外苑キャンパス@青山1丁目/外苑前 で開催されています。
くわしくはこちら

何にもなければ、このイベントについて知らずじまいだったのですが、ひょんなことから知りました。8月のはじめ、スペインのある出版社からメールが入ったのが始まりです。

このアートブックフェアに今年はブラジルが招待され、上記の絵本のイラストレータ、ブラジルのファビオ・ジンブレスが参加する、ついては、自分のところの絵本を持っていきたいと言ってきたが、今からだと、スペインからブラジルに送るのが間に合うかわからない。ミランフ洋書店に送るので、受け取って、9月にファビオに渡してくれないか、という依頼です。

本は、1週間ほどで送られてきました。B4サイズくらいのずっしりと重たい本が10冊!
ファビオは、「ポルトニョールがカンペキだから大丈夫」と言われ、預かっておくことになりました。

ファビオからそのあとポルトニョールで、東京に着くのは9月12日になると連絡があり、さらに、たぶん16日の午前に連絡してとりにいくと、メ―ルが入りました。
そして、昨日。
午前中待てども連絡こず。フェアは3時からだというのに、どうするのかと思っていたら、いきなり知らない人の携帯から、「外国人の人がお宅に行きたいと言っているのだが、道がわからない」と電話がかかってきました。行ってみるとファビオでした。

重たいし、道もわからないから、フェアの人が一緒に来てくれたのか、と思ったのですが、そうではありませんでした。グーグルマップでわかるだろうと直接来たけれど、わからなくなって、近所のお店にとびこんでたずねたら(不動産やさんだったもよう)、そこにいたダスキンのマークの作業着を着ているその親切な方が、案内してくれたとのこと。
いやはや。

きちんと連絡が来て、ぱっと渡してと、スムーズにはいかないかもと、危ぶんでいましたが、予感が的中。
ああ、ラテンアメリカ! 

まあ、いいやね。無事、本を渡せたわけだから。
しかも、そのりっぱな本を1冊プレゼントしてもらいました! 書いてくれたサインがこちら。


ここのところ、ずうっと原稿でてんてこまいでしたが、なんだかゆかいな気分。

ファビオの展示は、こちらです。
上記の本を売っていますから、どうぞ買ってください。見てのとおり「パナマ」がテーマの本です。

「「DESENHO TERRÍVEL(酷い絵)」という絵のジャンルを確立したコミックアーティスト」とあるので、とんがった人かと思いきや、シャイなやさしい笑顔の人でした。
明日、ちらっと見に行こうかなと思っています。







2016年8月23日火曜日

言語文学教育課程大学院

バルセロナの日々(18)

 9月に到着後、カタランの授業が始まると同時にコロメール教授の属する教育学部言語文学教育過程大学院の事務室に寄った。スケジュールを確認すると、授業が始まるのは10月半ばだが、その前にガイダンスがあり、そのあとで正式な登録手続きをすることになるらしい。
  10月11日午後6時。ガイダンスの部屋に入った私は、真っ先に「ほんとだ!」と思った。スペインの大学院は、社会人が仕事の傍ら学びにくるところだときいていたが、本当だったからだ。私より長男に年が近い、カタランクラスの若者たちとは明らかに雰囲気が違う。正直ほっとした。
 でも、部屋にいる人たちは、まるで数年来の友人同志のようにすでに話の花を咲かせている。あいた席に座り、置いてあった書類を見ながらようすをうかがっていた私は、あれっと思った。カタランにまじって、今まで聞いたことのない響きのスペイン語が聞こえてくる。そういえば、顔つきがどことなくスペイン人と違っている人たちがちらほらいる。
 そのうち、「どちらから?」と聞かれ、「日本から、あなたは?」「メキシコだよ」と会話が始まった。
 その年、言語文学教育過程には5人のメキシコ人が加わった。毎年中南米の留学生は受け入れていたが、カタラン勢7人に対して、スペイン語を母語とするメキシコ勢5人、そして、私というのは、かなり異例の構成だったようだ。おかげで私は、ほとんどが現場の教師である忙しいカタラン人の同僚よりも、故郷を離れて勉強しに来ている、同じサルダニョーラ住まいのメキシコ人留学生に、よく助けてもらうことになった。

 さて、「大学院」と、ここまで当たり前のように書いてきたが、私が大学院の呼んできたのは、ドクトラードdoctoradoのことだ。バルセロナ自治大学の場合、各学部の学科ごとにドクトラードが開設されている。つまり、私が在籍していたのは教育学部言語文学教育過程ドクトラードだけれど、教育学部でも、ほかに自然科学教育、社会科学教育など、学科ごとにドクトラードがあった。ドクトラードは、大学卒業相当の学位があれば進学でき、そこで、一定の授業単位をとり、最初の論文が審査に通るとマスター(修士)の学位がもらえる。マスター取得後研究者能力試験に合格すると、博士論文を書く資格が与えられる。博士論文の審査に通ると、晴れてドクター(博士)の学位がもらえるという仕組みだ。
 ガイダンスでは、年間スケジュールと授業内容説明の資料が配られた。私たちのドクトラードの講義開始は10月19日。講義は毎週火曜日と木曜日の3時半から6時と、6時から8時半の時間帯で組まれている。10月から2月半ばまでが前期、2月半ばから5月までが後期で、前期だけですむ講義もあれば、両方にまたがった講義もあった。
 修士論文を書くには、20単位の授業をまずとらないといけないので、2年間で修士まで終わらせたい私は、1年目で20単位分、つまり7コマの授業をとらなければならない計算だ。結局私は、前期に3コマ、後期に翻訳学部の1コマを含む4コマをとることにした。前期の1コマは2月にある集中講義だから、10月に始まるのは2コマだけ。カタランの進み具合から考えても、それが一番無理のないスケジュールだった。

 勉強もさることながら、留学の1年目は手続きもややこしかった。7月の下見の際、必要な書類はないかと事務局にたずねたときには、特にない、と言われたのに、9月に行ってみると、正式な手続きの際に、大学の成績証明書がいると言われた。
 ないものは仕方がないので、大急ぎで父にたのみこんでとりよせ、その書類にアポスティーユ認証をとって送ってもらった。この認証がないと、海外では正式な書類として認定してもらえないからだ。さらに、届いた書類は翻訳をして、領事館で翻訳証明をもらわなければ、大学に出す正式な書類にならない。
 けれども、超特急で準備しても、手続きの期日にこの書類だけ間に合いそうにない。ここまできて、書類がそろわなくて大学院に行けなくなったらどうしよう。真っ青になって、学科のコーディネーターの教授に相談した。すると、こういうところがスペインだ。教授が大学院事務局にかけあうと、あとから提出でかまわないと、あっけなく返事がきた。
 間に合うかどうかと、毎日ドキドキしていたのはなんだったのだろう。ここでは何事も言ってみるものなのだ。
 しかも、慣れない手続きは、戸惑うことの連続だった。

 たとえば写真。スペインでは手続きというと、たいがい証明写真が必要になる。準備書類の欄には、「証明書用写真」という言い方をしているのだけれど、最初はそれが何かわからなかった。日本なら、3センチ×4センチの写真というような言い方をしているから、「どのくらいの大きさですか?」とたずねても、いっこうに要領を得ない。それもそのはず。証明写真というのは、DNIなどと呼ばれている身分証明書を初め証明書類全般に使われるもので、証明写真と言えばサイズはひとつしかない。だから、だれもサイズなど測らないし、どこの写真屋でも言えばわかるのだった。。
 大学の卒業証明書、つまり学位証明書もややこしかった。私の場合「文学士」なので、教育学部の大学院に入るには、文学部の学部長に学位流用認定のはんこをついてもらってこなければならないと言われた。「手続き上のことだから、問題ないわよ」と、コーディネーターの教授は言ってくれたけれど、どこに行けばいいかまで教えてくれるわけではない。ただでさえ不案内な大学の中で、文学部に行って、あちこちでたずねながらようやく事務局を探しあてて手続きを頼むだけで、結局半日つぶれてしまった。
 そんなこんなで、10月末、授業の登録が無事終わって学生証を手にしたときは、とにもかくにもホッとした。2005年7月まで有効の学生証。
 やっと正式にバルセロナ自治大学大学院の学生になれたという実感がわいてきた。

2016年7月9日土曜日

ブラティスラヴァ世界絵本原画展 絵本の50年これまでとこれから

カタログと、金のりんご賞受賞のスペイン人作家の絵本2点。

 さいたま市のうらわ美術館で、今日から「BIB50 周年 ブラティスラヴァ世界絵本原画展 絵本の50年これまでとこれから」が始まりました。
 うらわの展示は8月31日まで、そのあとは次の4館を巡回します。

 2016年10月29日~12月11日 岩手県立美術館
 2017年1月4日~2月26日 千葉市美術館
 2017年4月8日~5月28日 足利市立美術館
 2017年7月8日~8月27日 平塚市美術館

 展示は2部構成で、1部は「BIB歴代参加作品でたどる〈日本の絵本50年〉」と題して、1965年から2013年までの参加作品の原画約30タイトルが展示されています。赤羽末吉、長新太、瀬川康男、スズキコージなど、絵本好きの方なら、「ああ、読んだ、読んだ」という作品が必ず入っているはず。
 今日はオープニングに仲町小学校の子どもたちが何人か招かれていましたが、多くの子が原画よりも、子どもの目線の高さにある展示作品の絵本にとびついて、「おれ、これ幼稚園のとき見た!」などと言っているのがほほえましかったです。
 私が「わぁ」と思ったのは、村上康成『ピンク! パール!』。1991年に金牌をとっているんですね。ちょうど会社を辞める直前に、隣の児童書編集部で出来上がりを見た絵本です。原画に、セロテープのあとがあって、編集者の息遣いを感じるようでした。
 
取材の腕章をもらったので、場内のようすも少しだけ。

 第2部は「BIB2015参加作品にみる〈絵本の今とこれから〉」。今年の日本の参加作品15点と、入選作が並んでいます。
 金のりんご賞に、スペインのハビエル・サバラとエレナ・オドリオソラが入賞したので、解説を書くところで私も関わりました。エレナ・オドリオソラは、これまで日本で出ている絵本5点では名字がオドリオゾーラとなっているのですが、今回、オドリオソラとしてもらいました。ゾーラじゃないから、ずっと気になっていたのです。
 彼女は、今、切り絵に凝っているのか、この作品は描いた絵を切りとって舞台にしたものを、写真どりした作品です。
 
 グランプリは、ローラ・カーリン。日本では、『やくそく』(ニコラ・デイビス文/さくまゆみこ訳/BL出版)などがでている作家です。図録の表紙の洗濯バサミ人形は、彼女の作品だとのこと。
 そのほか、さまざまな試みのある作品が並んでいて、とても見ごたえがありました。
 出たところには、人気投票のコーナーがあります。気に入った絵にシールを貼って帰りましょう。
 

 
 浦和は高校の3年間通った町ですが、西口方面はひさびさで、ぜんぜん知らない町のようでした。でも、うらわ美術館のすぐ左には、高校時代にときどき寄り道した本屋さん、須原屋が今もありました。ここだけタイムスリップしたような感じがしました。


 

2016年7月6日水曜日

『アウシュヴィッツの図書係』




『アウシュヴィッツの図書係』
アントニオ・G・イトゥルベ著
小原京子訳
集英社
2016.7.5刊行


絶望にさす希望の光、それはわずか8冊の本――
強制収容所を生き抜いた少女の強さを描いた、実話に基づく感動作。
(出版社HPより)


 アルベルト・マングェル『図書館 愛書家の楽園』(白水社)の中に、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の三十一号棟に秘密の図書館があり、そこにあった八冊の本の管理は一人の女の子にまかされていた、というくだりがあります。
 スペインの作家イトゥルベは、この文章に目をとめ、その少女のことを調べていくうちに運命の導きのように現在イスラエルで暮らす当時の図書係と出会い、この本を書きあげました(このあたりのことは、本書巻末の「著者あとがき」にあります)。

 実は私も翻訳協力という形でこの本の誕生にかかわってきたので、こうして本になり喜びもひとしおです。
「感涙」とか「感動」という語がオビに躍っていますが(笑)、人が生きるために、「本」がどれほど大きな力を持っているかを見せてくれる意欲作です。
 ぼろぼろになった8冊の図書館の蔵書ばかりか、かつて読んだ本の記憶も、絶望的な毎日の中でディタを支えます。『ニルスのふしぎな旅』などの物語をおぼえていて語ってくれる人、つまり「生きた本」のエピソードも、物語の力を感じさせてくれます。

 もうひとつ、私がとてもおもしろいと思ったのは、ジャーナリストの著者らしく、アウシュヴィッツで生きていたさまざまな人々の姿を物語にもりこんでいるところです。視察団が来たとき、アウシュヴィッツは普通の収容所だと見せかけるために作られた家族収容所を中心に、さまざまな立場の人の姿が描かれています。歴史書ではなくこうしてフィクションで語られることで、歴史的事実として知っていた出来事を読者は改めて心で感じることができるでしょう。

 本好きで、うらやましいほどスペイン語の実力がある小原京子さんは、フィクションの翻訳はこれが初めてですが、著者とも連絡をとりあって、物語の魅力をたっぷりと引き出しています。これからの活躍がとても楽しみです。

 びっくりしたことに、主人公ディタは、野村路子さんが『テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち』(ルック)で紹介しているディタ・クラウスだというのが調べていくうちにわかりました。アウシュヴィッツに送られる前、テレジンで彼女が描いた絵やインタビューがその本におさめられています。

 もともとは、スペイン大使館商務部が5年ほど前から行っているニュースパニッシュブックスという、スペインの新刊の版権を日本の出版市場に売り込もうというプロジェクトで2013年に紹介されていた1冊です。その紹介文を集英社の編集者が目にとめ、翻訳出版となりました。
 『青春と読書』7月号46ページ、豊﨑由美さんの紹介文『この世の地獄で、生きる力を与えた「本」』を読めば、本好きな人たちは読まずにいられなくなることうけあい。
 本屋さんで、図書館で、手にとっていただけたらうれしいです。 
 


2016年7月4日月曜日

講演会「『ちっちゃいさん』が生まれるまで ―翻訳と子育てとー」

 イソール作『ちっちゃいさん』(講談社)刊行のあとお声がけいただき、下記のとおり、2016年7月16日午後2時から千葉市でお話することになりました。

 普段翻訳するとき母親としての自分は顔を出さないのですが、『ちっちゃいさん』は例外的に、子育ての経験をめいっぱい使って訳した本でした。

 たまたま3人の子を授かり育ててきたので、20年あまり、子育てとがっぷり四つに組んできたわけですが、若い頃の私は、子どもを欲しいと思ったことは一度もありませんでした。どちらかというと苦手なくらいで、「赤ちゃんはまだ?」と聞かれると、「がんばっています」と言ってお茶を濁していたのでした。
 それが変わったのは甥っ子を見たときです。「へえ、赤ん坊っておもしろいな」と初めて思いました。そして、自分の子がこの世に出てきたときには、「こんなに大事なものが人生にできてしまってどうしよう」と思うくらい、とにかく我が子はかわいくてたまりませんでした。まさか、自分がそんなふうになるとは思ってもみないことでした。今では赤ん坊を見るとついつい近づいてしまう、おせっかいなおばさんと化しています。人生というのはわからないものです。
 
 会留府の阿部さんから、スペインと日本の子育ての違いなども触れてほしいと言われています。訳文をどんなふうにねりあげていったか、具体的にどこかの部分をとりあげながら、お話したいと思っています。
 毎日新聞の千葉地方版に7月1日に掲載された告知記事はこちらです。
 お近くのみなさま、よろしければお運びください。


2016年6月24日金曜日

『ちっちゃいさん』紹介情報1



 イソール『ちっちゃいさん』、刊行から2ヶ月たちました。
 ゆかいな絵本『ちっちゃいさん』、読売新聞のあともあちこちでとりあげられています。

 1つめは、5月27日(金)「毎日新聞」千葉版の「阿部裕子の絵本だいすき」。リンクはこちら。いいなあと思った箇所を少し引用します。
つまり、この絵本はあかちゃんのことが良くわかるというだけでなく、おとなにもみんなあかちゃんだったことを思い出させてくれるのです。これはとっても大切なこと、このことは他の人に寛容な気持ちになれるからです。そして、幸せだった子ども時代を持ったおとなはやさしさをあかちゃんに伝えようとします。 
ともかく忙しい世の中は手のかからない子ども、育児を望む人がみられる傾向です。安心育児の本は多い、けれどそれはおとなからの安心であかちゃんからの安心ではありません。
千葉市中央区にある児童書専門店「こどもの本の広場 会留府(えるふ)」を運営する阿部さんは、お店のブログでもいち早くとりあげてくださいました(リンクはこちら)。ありがとうございます。

 2つめは、6月10日(金)の「東京新聞」朝刊。クレヨンハウスの岩間建亜さんが「子どもの新刊」のコーナーで紹介してくださいました。
 出産のお祝いや、「ちっちゃいさん」と読み合うのに、いま、これ以上の絵本を思いつかない
という文を見て、プレゼントに購入してくれた友人もいます。

 3つめは、6月19日(日)の「ラジオ深夜便」。月に1回登場される書評家の松田哲夫さんが「私のおすすめブックス」のコーナーでご紹介くださいました。松田さんがスペックを読み上げてくださるだけでドキドキでした。ひまごさん(とおっしゃいましたよね? 孫ではなく???)が生まれたばかりだそうで、夜泣きの場面のことなど、実感のこもったお話でした。
「赤ちゃんという存在とそれとつきあっていくまわりの人たちの反応は世界共通なんだなということを、改めて感じさせてくれる絵本でした」 
「赤ん坊のときのことは、自分も赤ん坊だったから、思い出すわけにいかない。それを振り返ってみるという意味でもいい本だと思いましたね」
「なかなかユーモアもあって、絵がとってもいいですね」
ちなみに、この日一緒に紹介されたのは、桂望実『総選挙ホテル』(KADOKAWA)と瀬戸内寂聴『求愛』(集英社)です。
 自分が訳した本に限らず、だれかが本のことを語るのを聞くのは楽しいことだと改めて思いました。

 4つめは、大田区の絵本の店、ティール・グリーンin シード・ヴィレッジ刊行の『コガモ倶楽部』第182号(2016.5.20刊行)。
「アルゼンチンの作家イソールが「あかちゃん」のことをユーモアたっぷりに教えてくれる絵本」と紹介してくださっています。
 お店では、お話の会や読書会、ワークショップなど、いつもさまざまなイベントが開催されています。「いつか」と思いながらなかなか行けずにいますが、いちどたずねたいと思っています。お店のHPはこちら

 ありがとうございます!
 ただ、こうして引用を読むと、「じゃあ、大人の絵本なの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも私は、やっぱり子どもたちに読んでほしいと思っています。
 そのあたりのことは、また改めて。

2016年6月18日土曜日

スペイン語は耳じこみ!?

バルセロナの日々(17)

カルナバルでネコになった、クレンフォル校のP5「階段の下のネズミ組」

 学校に通いはじめて1ヶ月くらいたったある日、夕方お迎えに行くと、タイシの担任のフアニが、待ってましたとばかりに勢いこんで話しかけてきた。

「今日ね、タイシがはじめて私に話しかけてくれたの。『テンゴ ピピ フアニ』って。ちゃんと『フアニ』もつけてよ」
 すごーい! やったじゃない、タイシ!
 照れくさそうなタイシを、ぎゅうっとひきよせながら、うれしいやらおかしいやらで笑ってしまった。
 最初のまともな文章が「フアニ先生、おしっこ」だったとは、なんともタイシらしい。おしっこは、要領のいい末っ子タイシの唯一の泣き所だった。
 その何日か前、タイシは学校ではじめておもらしをした。家でもしょっちゅうちびり、盛大な失敗もときどきやらかしていたから、とうとうやっちゃったかというところだった。だが、フアニに、
「『ピピ』って言うとか、前を押さえてこう体をゆすってみせるとか、とにかく伝えてくれればよかったのに。こういうことがありそうならありそうだと、おかあさんも言っといてくれないと」
と、けわしい顔をされると、母子ともどもショボンとなった。着替えがないので、パンツを脱いだまま、しめったズボンをじかにはかされているタイシが不憫だった。
「おしっこがしたくなったら、『ピピ』って言うんだよ」私はタイシに言いきかせた。
 きっとフアニも、身ぶり手ぶりで、何度も言いふくめたに違いない。
 そして、晴れて「テンゴ ピピ フアニ」と、なったわけだった。

 ところが、その大喜びの日、家に帰ってから、
「ねえ、フアニにどんなふうに言ったの?」
とたずねた私は、タイシのこたえを聞いて愕然とした。
「『センゴ ピピ フアニ』だよ」
「えっ、テンゴじゃないの? セじゃなくてテでしょ」
「ううん。『センゴ ピピ』。サムエルもそう言ってるもん」
 耳じこみの外国語、おそるべし。
 子どもたちは、文字を介さず、状況から、耳で聞いた音の意味を類推しながら、スペイン語を習得していっていた。耳に聞こえたままを、彼らは口に出す。この場合、テンゴ ピピ(Tengo pipi=私はおしっこがしたい)が正しく、センゴという言葉はない。ところが、イントネーションがばっちりだから、状況からフアニ先生はテンゴと理解し、あんなに感激したのだった。

 それからというもの、子どもたちのオウム返しのスペイン語は、私の日本語なまりのスペイン語より、くやしいほど威力を発揮しはじめた。
 アキコは登校何日目かで、クラスメイトに「ホセマノエって子がいる」と言った。文字で書けばJosé Manuel。この名前、普通にカタカナ書きすればホセ・マヌエルとなる。ところが、スペイン語の「ウ」は、日本語の「オ」に近い。耳を柔らかくすれば、確かにホセマノエだった。
 また、ある日、家に帰ってきたタイシが、わけのわからない歌を歌いだした。
「ミルノウセン ヌランターノウ」
 なんじゃこりゃ。呪文のように、繰り返し繰り返し口ずさみながら遊んでいる。カタルーニャ語だ。意味をたずねても、「わかんなーい」。習いたてのカタルーニャ語にアップアップしていた私は、しばらく考えこんでから、はっとわかって笑ってしまった。
 なんてことはない。タイシは「1999(年)」と歌っていたのだ。きっと先生が毎日、黒板に日付を書きながら唱えていたのだろう。その頃の学校のノートを見ると、どのページも一番上によれよれの字で、「Taishi, el dilluns 15 de novembre de 1999(タイシ、1999年11月15日)」のように日付が書いてある。クレンフォル校は、家庭でスペイン語を話す子が多かったので、年の読みを、先生が節をつけて繰り返し唱和させていたのかもしれない。

 こんなふうに、子どもたちの頭の中に、新しい言葉がだんだんと植えつけられていった。
 どんなときに、どんなふうに言うのか。耳で聞き、まわりの態度を見ながら、意味を類推して使ってみる。うまく言えると、スペイン人はたいがい力いっぱいほめてくれる。間違っても、口に出してみた勇気をたたえ、決して落ち込ませない。こういうところ、スペイン人のいいところだなあと思う。
 自分がほとんど大人になってから文字と頭でおぼえた言葉を、子どもたちが耳からとりこんでいくのは、ふしぎな感覚だった。文法上の数の観念も、性の観念も、時制の観念もないのに大丈夫なのだろうかと、ハラハラする一方で、いや、そんなのなくたって、このままどんどんおぼえて、話せるようになるのかもしれない、と期待したい気持ちがあった。
 ともかく早く友だちと通じ合えるようになるといいね、と祈るように私は見守った。

2016年6月8日水曜日

夏がくると…『ピトゥスの動物園』


サバスティア・スリバス著/スギヤマカナヨ絵『ピトゥスの動物園』(あすなろ書房)が、なんと12刷になりました!

2006年に刊行されたこの本は、2007年に青少年読書感想文全国コンクールの小学校中学年の課題図書になり、その後も、教科書や読書感想文の書き方の本で紹介されました。私の訳書のなかで最も多くの読者に手渡されている本です。

けれども、この本も長いことかかって刊行に至りました。
そのあたりのいきさつを、2007年に、母校のスペイン語学科の同窓会「イスパニア会」の会報にまとめましたので、ここで再録してご紹介します。字数が限られていたので、ちょっと書きたりないところもありますが。


『ピトゥスの動物園』翻訳出版の舞台裏

 翻訳者と言うと、辞書を片手にひたすら翻訳している姿を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、私の場合、そうでない時間がかなりあります。では何をしているのかというと、本探しや情報収集、売り込みといった営業活動です。これはと思う原書を出版社に持ち込み、検討してもらい、翻訳出版につなげていくわけです。これまでに出版された11冊の訳書のうち8冊が売り込みの所産といえば、その比重の高さがわかるでしょう。
 2006年暮れに刊行されたサバスティア・スリバス作『ピトゥスの動物園』も、このような売り込みから出発した作品の一つです。

出会いは15年前
 初めて原書を手にとったのは、もう15年も前のこと。別の本の巻末にあった刊行案内リストの中で、増刷の数が際立って多い作品を見つけ、とりよせたのが始まりでした。
 病気の仲間が外国の医者に行くお金を作るため、バルセロナの下町の子どもたちが一日動物園を開くという物語です。こんなことありえないという部分もありますが、ここに描かれた子どもたちのエネルギーや底力は、息苦しい状況を生きる今の日本の子どもたちを元気づけてくれるように思われました。
 そこで、何社にも売り込んだのですが、結果はすべてボツ。「古くさい」「友情だの助け合いだの教訓的」など、ネガティブな反応しか得られませんでした。

カタルーニャで最も愛されている作品
 売り込みでは、作品のよさや、その作品を今の日本で出版する意義を自分なりに説明するのですが、何度か却下されると、見切りをつけざるをえなくなります。
 でも、この作品の場合、そこであきらめなかったのは、1999年から2年半のバルセロナ留学中、小さい頃この本が大好きだったと、目を輝かせて語る大勢の人々と出会い、この作品がいかにカタルーニャ地方で愛されてきたかということを痛感したからです。
 実はこの作品、私が最初に読んだのはスペイン語版でしたが、原書はカタルーニャ語。その成立事情は、本書の後書きに書いたのでここでは述べませんが、カタルーニャの人々に長く愛されてきた作品だったのです。
 これほど大勢の人々の心に残る作品というのは、そうめったにありません。やはり力を持った作品なのだ、機会を見てもう一度売り込んでみよう、と思うに至ったのでした。
 
二度目の挑戦
 翻訳出版の提案をするとき、私たちは普通、その本の概要やあらすじをまとめたシノプシスや部分訳を用意します。前に売り込んだとき使ったのも、この2点でした。
 けれども、再度売り込むにあたって、私は一大決心をし、作品の全訳を用意しました。というのも、スペイン語の場合、原文をまったく読めない編集者が、シノプシス等で採否の判断を躊躇するのは、当然と言えば当然だからです。でも、仕事になるかどうかわからない作品を、何ヶ月もかけて訳すのは、こちらにしてみれば冒険です。
 きちんと評価してもらいたい、だが、そこまでする価値があるのか――葛藤の末、カタルーニャ語版からの全訳を用意したのは3年前でした。
 そして、これを持ち込んだ2つ目の出版社で、とうとう「いい作品ですね。やりましょう」という返事をもらったのです。

すばらしい日本語版
 持ち込み企画でありがたいのは、採用してくれた編集者が、作品にほれこんで、本当に真摯に本作りに取り組んでくれることです。
 本書の場合も、編集者はすばらしいエディターシップを発揮してくれました。特に、日本語版で新たに起こした挿画は見事でした。絵がストーリーを補い、日本の読者がより楽しめるようになりました。装丁も文字組みも、届けたい読者層にぴったりの、子どもの本ならではの配慮の行き届いた本を手にしたときは感無量でした。
 さらにうれしいことに、本書は今年の第53回青少年読書感想文全国コンクール小学校中学年の部の課題図書に選ばれました。
 あれほど何度も拒否された作品のため、どう受け入れられるか、私自身最後まで不安があったのですが、この選定は大きな励みとなりました。課題図書にスペインの作品が入るのは、記録がある第8回以降で初めてのこと。全国津々浦々の子どもたちが手にとってくれると思うと、うれしくてなりません。
 スペイン語からならではの物語や新しい視点、知識や生きる喜びを提供してくれるような作品を、これからも探し、紹介していければと思っています。


2016年6月4日土曜日

『ポーランドのボクサー』がおもしろい!




『ポーランドのボクサー』
(書名は出版社HPにリンクしています)
エドゥアルド・ハルフォン著
松本健二訳
白水社刊
2016.5










 グアテマラの新鋭エドゥアルド・ハルフォンの翻訳が出ました!
 昨年、書評で見かけて読んだMonasterio(修道院)が鳥肌ものだったので、普段、話題の本にものりおくれがちな私としてはめずらしく、ぱっと手に入れ、昨日一気に読みました。期待を上回る濃密な読書体験でした。

 ハルフォンがどのような作家かは、その出自と深くかかわっています。その説明部分を、まず後書きから引用します。
 著者エドゥアルド・ハルフォンは、一九七一年にグアテマラのユダヤ系一家に生まれた。本書の表題作でも描かれている母方の祖父はポーランド生まれ、アウシュヴィッツなど強制収容所を生き延び、第二次世界大戦後にグアテマラに移住したアシュケナージ系ユダヤ人だった。それ以外の三人の祖父母はレバノン、シリア、エジプトといった地中海周辺のアラブ世界にルーツをもつセファルディ系ユダヤ人である。ちなみにハルフォンとはレバノンから移住してきた父方の祖父の姓だ。両親はグアテマラ生まれのため、エドゥアルドと本書にも登場する弟と妹はそれぞれスペイン語の名を授かり、家庭でも学校でもスペイン語で育てられたが、幼いころからユダヤ教の習慣はもちろんのこと、祖父母が話していたイディッシュ語やアラビア語、また彼らが持ち込んだ料理をはじめとする東欧やアラブの諸文化にも少なからず触れていたようだ。
 一九八一年、一家は内戦の続く首都グアテマラシティから米国に移住する。当時十歳だったハルフォンはそれ以降英語で教育を受けるようになり、やがてノースカロライナ州立大学工学部に進学、二十二歳になって戦火の落ち着いたグアテマラに帰国したときはすでに母語のスペイン語を忘れかけていたという。(283ページ)

 けれども、ハルフォンは今、スペイン語で書いているわけです。このことについて詳しくは、月刊世界2014年8月号の飯島みどりさんによるハルフォンのインタビュー「人間の真髄を嵌め込むモザイク」を参考にしてください。

 オリジナルの『修道院』は、妹の結婚式のためにエルサレムを訪れた私が、ポーランドのボクサーのおかげでアウシュヴィッツで命拾いした祖父のことを下敷きにしながら、旅のあいだ自分のなかのユダヤ性を問い続けるという物語をオートフィクションの形で描いたものでしたが、この日本版『ポーランドのボクサー』は、オリジナルの『ポーランドのボクサー』と『ピルエット』と『修道院』の3冊を、日本用にリミックスしたとのこと。

 3冊を合わせて1冊にしたものだと知ったとき、オリジナル『修道院』だけでもおもしろいのに、なんかもったいないなあという気がしたのですが、それは杞憂でした。冒頭の、世界文学の短編を読み詩を書くグアテマラの青年の物語(オリジナル『ポーランドのボクサー』所収)や、絵葉書を送り物語を語るジプシーのピアニスト、ミランの物語(オリジナル『ピルエット』所収)と響きあって、編み直されることで、かえって作品世界が濃厚になり、印象が強烈になっていると感じました。
 全体としては、後書きから引用させてもらうと、
 三冊を合わせた本書を読めば、全体に共通する語り手であるハルフォン自身が、一族が背負ってきたユダヤ的なものとどう距離を置くかという問題を中心軸としつつ、いくつかの特定のテーマや鮮烈なイメージを、その都度その都度の即興で変奏し続けているということに気づく。(286ページ)
という物語になっています。

 思いがけないけれど、そう言われるとイメージが鮮やかに喚起される比喩も、ハルフォンの魅力の一つです。出自に見るハルフォンの文化背景がすべてからみあってか、実に豊かな言葉が繰り出されます。そのおもしろさを十二分に引き出した訳文に、感嘆と羨望のため息が出ました。
 後半になって目についた表現をメモしはじめたのですが、きりがありません。たとえばこういうもの。
  老人が何かジプシーの言葉で尋ね、そのあと同じくジプシーの言葉で何かを語り始め(セルビア語を話せなかったか、あるいは話したくなかったのかもしれない)、それをペータルがセルビア語に訳し、それをスロボダンが英語に訳し、最後に私がそれを、マトリョーシカ人形のいちばん内側の形が崩れた小さな人形のように、スペイン語に直した。(206ページ)

 昨年夏にスペインに行ったとき、文学カフェのような書店で、ハルフォンやサマンサ・シュウェンプリンなど、ラテンアメリカの若手作家の作品が平台に並べられていました。スペインで注目されるのも、さもありなんです。
 そのハルフォン作品を、これほど刺激的な独自版で手にとれる日本の読者は幸せです。

2016年6月3日金曜日

『ちっちゃいさん』2刷できました




昨日、『ちっちゃいさん』の2刷見本が届きました。
版元さんが、A3のポスターもつくってくださったので、合わせてご覧ください。

ところでイソールさんの本名は、マリソル・ミセンタ。イソールはその名前の一部から来ています。

アルゼンチンの長いコミックの歴史のある国ですが、コミックの作家さんの中には、1語のペンネームの人がほかにもいます。
スペイン語圏で絶大な人気を誇るコミック『マファルダ』の作者はキノQuino。
「ラ・ナシオン紙」で10年連載が続いている人気コマまんが『マカヌドMacanudo』の作者はリニエルスLiniers。
スペインで活躍する絵本作家のグスティGusti も、アルゼンチンの出身です。
日本でも、名前だけの芸名の芸能人やモデルさんがいるので、同じようなものでしょうか。

イソルとしてもよかったのですが、イソルと表記したら、スペイン語を知らない日本人のほとんどが「イ」を強く読むのです。
ソを強く読んでもらうにはオンビキを入れたほうがいいかと、『かぞくのヒミツ』を訳したとき、イソールという表記を使うことにしました。
もしもこれが、イソル・ミセンタだったら、オンビキは不要だったでしょうね。
本当は音が長いわけじゃないので苦渋の決断(オーバー!)。
名前ひとつとっても悩ましいのでした。

2016年6月1日水曜日

頭部への打撃?

大学のスペイン語読解の授業でのこと。

4月から専攻でスペイン語を習い始めた1年生は、直説法現在の動詞の不規則変化をひととおり学んで、少しずつ文章を読めるようになってきています。
彼らと今、ある幼年童話を読み進めているのですが、その中にこんな文章が出てきました。

Reconozco que ha sido un coscorrón muy gracioso.

辞書をひくと、次のような意味が出ています。
reconozco はreconocer で「認める」
coscorrón は「頭部への打撃」
gracioso は「おかしい」「面白い」

これをつなげると、「とてもおかしい頭部への打撃だったと私は認める」となります。

でも、こうすると、学生たちも「くすっ」と笑います。そりゃそうですよね。日本語で発話するとき、こんなふうに誰も言わないから。

そこで、つまり、「さっき僕が頭をぶつけたのは、確かにおかしかったよな」ということだよね、というと、学生たちはまた笑って納得します。

ささいな例ですが、翻訳って、こういうことですよね。
辞書は1語1語の意味は書いてあるけれど、たいがいの文はそのままつなげても内容は伝わりにくいものです。

また、その文全体が持つスタイル(上から目線だとか、くだけた言い方だとか…)も、経験がないと読みとれません。もちろん1年生でそこまでは求めませんが。

とはいえ、その1語1語の意味の核をおろそかにして、あいまいなまま勝手に訳してもうまくいきません。

翻訳の本質が見え隠れして、楽しい気分になるひと時でした。




2016年5月28日土曜日

在日アルゼンチン共和国大使館へ


ブエノスアイレスの老舗書店エル・アテネオ
ただしプレゼンがあったのはフロリダ通り340番地の店舗。


 イソール作『ちっちゃいさん』(講談社)ですが、うれしいことに、はやくも重版となりました! 私の訳書としては異例のはやさです。担当編集者さんのお話だと、児童書売り場だけでなく、文芸書のコーナーなどにも置いてくださる本屋さんが増えているとのこと。版元さんの強力な後押しに感謝です。

 そして、昨日は編集者さんとともに在日アルゼンチン共和国大使館を訪問し、公使にお礼をしてきました。この本の出版にあたって、アルゼンチンの外務省のプログラマ・スールという翻訳助成プロジェクトで翻訳助成金をいただいたからです。
 ここ数年、このプロジェクトは世界各国でアルゼンチンの作品の翻訳出版を助けてきました。コルタサルやボルヘスといった大作家のものも、新人や児童書の作家のものも、みな平等に助成してくれるという、民主的で太っ腹なすばらしいプロジェクト。来年の応募があるかはまだわからないそうですが、続けてほしいなあと思います。

 お会いしたガルデラ公使は、昨年夏に、ブエノスアイレスの老舗書店エル・アテネオで行われた、イソールさん自身によるこの本のプロゼンテーションに足を運ばれたそうで、そのときのお写真を見せてくださいました。日本版がとてもよくできているとほめていただけてうれしかったです。

 実は別の版元さんですが、アルゼンチンの別の作家さんの絵本の刊行を来年初夏に予定しています。ちょっとアルゼンチンづいていて、遠いけれど、ブエノスアイレスの冬や春も体験してみたいなあと思いをはせています。

2016年5月21日土曜日

カタルーニャ語クラス

バルセロナの日々(16)

当時使っていたカタルーニャ語の教科書
 9月の最終週に、カタルーニャ語の授業が始まった。
 10月下旬に大学院の授業が始まるから、それまでにいくらかでも授業で使われるカタルーニャ語をわかるようになっていたい。なのに、困ったことに、私は準備万端とはとても言えない状態だった。
 バルセロナに着く前に、カタルーニャ語の文法はひととおりさらっておくつもりだった。けれど、準備や翻訳に追われ、何ひとつできていなかった。バルセロナに着いてからも、子どもの学校のことや生活を整えること、大学院の手続きで、勉強はあとまわしの状態だった。
 私がとることにしたのは、大学のカタルーニャ語事務所が主催する40時間の入門クラスと、続く40時間の初級クラス。バルセロナ自治大学にスペインの他の地域や中南米からやってくる学生向けの講座だ。どちらも1ヶ月間の構成で、月曜日から金曜日まで連日午後2時から4時までの授業だった。
 ちょうど入門クラスを終えたころに大学院の授業が始まることになる。40時間終えたら、少しはわかるようになるだろうか。
 カタルーニャ語は、学生時代にはじめてバルセロナを訪れたときに興味をいだいて以来、ずっとおぼえたかった言葉だった。それを、またとない環境で学べるのだから、自然と胸がはずんだ。でも、バルセロナに来るまで人が話すのを聞いたことすらない言語を、こんな年齢になってからそう簡単に習得できるのか。私は会話向きの積極性も社交性も持ち合わせていない。不安でいっぱいだった。しかし、カタルーニャ語の習得は、今回の留学の大前提だ。だからともかく前進あるのみだった。

 クラス初日。大学の講義は18年ぶりで、それだけでドキドキしながら指定の教室に入った。スペイン語でおしゃべりをしている子たち。新入生らしい。若いなあ。大学1年だと、若い子はまだ17歳だ。平気な顔をよそおっていたが、自分より長男に年が近いのかと思って、内心動揺していた。
 時間になると、あまり背の高くない、私と同年輩くらいの、きさくそうなジーンズ姿の男性が入ってきた。教材をかかえて、まっすぐに教壇に向かっていったところをみると先生だ。と、いきなり、その男性が口を開き、カタルーニャ語で言った。
「ぼくはジョルディ。きみの名前は?」
 みながきょとんとしていると、もう一度、最前列にすわっていた子に向かって、同じことを繰り返した。さすが若い学生だ。女の子はすぐにルールをのみこみ、となりの子に向かって言った。
「私はサラ。あなたの名前は?」
 ああ、名前をたずねているのか、と私がわかったのは、3人目を過ぎてからだった。自分の番がまわってきて、しどろもどろに声をだしたとたん、どっと汗がふき出してきた。いきなりしゃべらされるなんて、さすが本場の授業だ。

 こうしてカタルーニャ語の入門クラスが始まった。
 授業の中の自己紹介で、クラスメートはすぐ顔なじみになった。アストゥリア出身の17歳の女の子2人組と、ウエルバ出身で言語聴覚士の勉強をしている女の子、マドリードに彼女がいるというカナリア諸島出身のやんちゃぼうず、アンダルシア出身の20代後半の化学の大学院生の若者。
 そして、カタルルーニャ出身の男性と結婚したばかりのメキシコ人のほがらかな女の子と、魚を使って研究をしているというウルグアイの女の子、黒髪に黒い大きな瞳がかわいらしいエクアドルの女の子という中南米勢が、数日後に加わった。
 スペイン語もカタルーニャ語もあやしい私のようなのは、政治学を勉強しにきている20代半ばのまじめなドイツ人の女の子と、獣医学部の背の高いクロアチアの女の子、そして、すぐにやめてしまったフランス人の女の子だけだった。
 ジョルディはカタルーニャ語だけで授業を進めた。いわゆるダイレクトメソッドだ。説明にもいっさいスペイン語を使わない。なのに、新しい表現や語彙を次から次へと、口に出して使わせていく。
 願望の文が出てくれば、「あなたはこのあと何がしたいですか」、未来形が出てくれば「今週の週末、何をしますか」、家族の名称をおぼえたら、自分の家族の写真をみんなに見せて紹介するなど、初歩的な文法で身近な会話がひきだされていった。
 寮でカタルーニャ出身のルームメイトがいるというアストゥリアスの女の子たちは、みるみる上達していった。文法も語彙も似かよっているのだから当然だけれど、それにしても速い。
 一方私は、しだいに落ちこぼれていった。みんなから何歩も遅れて、よろよろとどんじりを行くような感じだ。自分だけジョルディの指示がわからないこともある。思い切って聞きなおしてみても釈然としない。対話形式の練習でクラスメートからペアを組むのを敬遠されているのも感じた。悔しいけど、そうしたい気持ちもわかる。
 こうして、落ちこぼれ状態のまま、1ヶ月は瞬く間にすぎた。院の授業の開始は目前だ。けれども、わかってきたという実感はいっこうに湧いてこなかった。音もぜんぜん聞こえてこない。台所に立つとき、ラジオを聞くようにしていたが、ヒアリングはからきしだめだった。ちょうど『イスカンダルと伝説の庭園』(徳間書店)の校正がぶつかっていた。次々とたたきこまれることを、消化して自分のものにしていくには時間が絶対的に足りなかった。
 悔しさとなさけなさで、授業が終わって教室から外に出たとたん、ぼろぼろ涙がこぼれる日が続いた。ああ、私はどうなっちゃうんだろう。子どもを連れてここまで来て、最初からこの体たらくだ。
 でも、落ち込みも長くは続かなかった。その足で子どもたちを迎えにいくと、母親に戻るしかないからだ。子どもたちは子どもたちでたいへんな時期だった。学校から帰ったら、寝る時間までは彼らとできる限り向き合いたい。そうなると机につけるのは10時か11時、しかもその時には、ほとんどよれよれだった。
 けれどもその一方で、子どもたちは救いでもあった。ストレスでけんかも激しかったが、3人いると、ふいに思わぬところで笑いが起こる。笑顔を見ると、この子たちが元気なら、あとは何とでもなるかという気分になった。
 泣いていても、だれも助けてくれやしない。自分でふんばるしかない。あきらめたらそれまでだ。
 子どもたちの生命力にすがりながら、最初の試練の日々は過ぎていった。

2016年5月16日月曜日

奇遇というのはこんなこと!?


昨日、偕成社の展示の最終日にかけこんだ帰り道、丸善丸の内本店の児童書売り場にちらっと立ち寄りました。
『かぞくのヒミツ』のときから、イソール作品を応援してくださっている売り場で、『ちっちゃいさん』がどうなっているかなとちょっと気になって・・・。
うれしいことに、新刊コーナーのまん中に面出しで並んでいるのを見て、感謝感謝。それに『かぞくのヒミツ』も、特集のコーナーで並べてくれていました。

そして、児童書売り場の担当者さんに、「さっきまで、さかなつりのイベントをしていたんですよ」と言われて、文渓堂の方を紹介されました。
そこまでは、書店さんでよくある出来事なのですが、編集者さんと話を始めたところ、イベントの主役だった『よるのさかなやさん』の著者の穂高順也さんが、いきなり
「ケンシくんのお母さんですか?」
と、話しかけてきたのです。

「えっ?」

「ぼく、保育園に勤めていたんです。豊玉第二保育園」

「えーーーーっ!!!」

「むかしは、名前が違ってましたけど」

もう、びっくり仰天でした。

練馬区の豊玉第二保育園は、長男が1歳児のときにはじめて通った保育園です。2年間だけお世話になって引っ越したのですが、当時男の先生は、昔の穂高さんである I先生だけでした。1学年が6,7人しかいない、こじんまりした保育園でしたが、まさか親の顔まで覚えていらっしゃるとは! 
「あの頃はまだ勉強中で、訳書が出ていませんでした」と言うと、「ぼくもです」と。

出版界の中で、前にA社にいた方がB社にいたり、C社にいた方が翻訳をしていたり、というのは、けっこうありますが、これはまた別の話。長男が今25歳なので、23年も会っていなかったのに、よくわかったなあと、ほんとうにびっくり。

あのころのあのあたりの街並、長女が生まれた、長男が2歳のころのこと、保育園の帰り道に、目白通りと千川通りとが交わる交差点のところで、前輪も後輪もタイヤが2つずつ並んでいるトラックを10台見るまでは動かなかったこと…などなど、久しぶりに思い出して、なつかしくなりました。
もうすっかり忘れてしまっていたようなことが、ちょっとしたきっかけで蘇ってくるから人間の記憶というのは不思議なものです。

『よるのさかなやさん』に、長男の名前でサインをしてもらってきました。お互い、今の仕事でがんばりましょうという気持ちで別れました。
生きているといろんなことがあるものですね。

2016年5月15日日曜日

『ちっちゃいさん』読売新聞で紹介されました

4月20日に刊行になったイソール作『ちっちゃいさん』ですが、5月1日の読売新聞「本よみうり堂」で早くもとりあげられました。

こちらです→読売新聞HP

この本のすてきなところが、よく伝わってくるご紹介です。

このおかげでしょうか、全国津々浦々の書店さんに置いていただけているようです。
このところ気になって、出かけた先々で書店さんに立ち寄っていますが、平積みや面出しで並べてくださっているところも多くてうれしくなっています。

ついでに前作の『かぞくのヒミツ』と『うるわしのグリセルダひめ』(エイアールディー)も、見ていただけるといいな……と、これは欲張り!

2016年5月8日日曜日

米原万里没後10年 文庫フェア

 

 近所の本屋さんの店頭で『米原万里ベストエッセイI』(角川書店)というのを見かけ、思わず手にとりました。読み始めたら止まらず、もう一度本屋さんに走って、『米原万里ベストエッセイII』も買い込んで、この連休の楽しみとなりました。

 前に読んだことのあるのも中にはあるはずですが、どれも実に新鮮。「痛快」とか「型やぶり」という語はこの人のためにあるのかと思えてきます。まさに頭の中をひっかきまわされるような快感。
 人間への尽きせぬ興味にあふれています。よく見、よく聴き、いつも「なぜそうなるのだろう」と考え続けていく。

 巻頭のエッセイ「トルコ蜜飴の版図」は、ターキッシュ・ディライトと聞いて、「あ」と思う人におすすめ。「遠いほど近くなる」の方言の転記には舌を巻きました。全編驚きに満ちています。

 外国語を使って、どうにか相手をもっと知ろうとすることを私もなりわいにしているから、この本をおもしろいと思うのか、こういうことをおもしろいと思う人間だから、今のような仕事をしているのか。
 
 読み終えてから表4側のオビを見て、「米原万里没後10年文庫フェア」というのを7つの出版社が一緒に展開しているのに気づきました。ご存知のとおりロシア語の同時通訳者であり、書評家、エッセイストとしても活躍した米原さんは、1950年生まれで、2006年の5月に亡くなっています。ちょうど10年前、今の私と同じ年齢で亡くなられたのか、と今でも惜しい気がします。

 フェアで出ているほかの本も読みたくなりました。
 次は『ガセネッタ&シモネッタ』かな。スペイン語通訳の横田佐知子さんの凄さを確認してみます。

2016年5月7日土曜日

El Meninoが『ちっちゃいさん』になったわけ



『ちっちゃいさん』の原題はEl Meninoです。

 menino は、たとえば白水社の『現代スペイン語辞典』をひくと、「[スペイン宮廷で女王・王子付きの]小姓、[特に]若い女官」と書いてあります。

 ベラスケスの名画Las meninas のmenina と同じです。
 だとしたら、このタイトルはいったいどういう意味なんだろうと、原書を手にとったとき、まずひっかかりました。イソールさんは、どうしてこのようなタイトルをつけたのでしょうか。

 アルゼンチンだと違う意味があるのだろうかと、まず疑いました。スペインと中南米のスペイン語は、しばしば同じ単語でも違う意味が持つことがあるからです。そこで、アルゼンチン人の知人にたずねたところ、アルゼンチンで赤ん坊をmenino とは呼ばないが、ポルトガル語で子どものことをmenino というので、El Menino と聞くと赤ん坊のことだと想像がつく、といわれました。

 
 このあたりでなんとなく、このタイトルのココロはほの見えてきたのですが、やっぱりこれは本人に確かめようと、思いきってイソールさんにたずねてみました。
 すると、次のように説明してくれました。
タイトルのEl Meninoは、El Bebé(赤ちゃん) と言っても同じです。だけど、赤ちゃんを言うのに、ここでは違う言葉を使い、un bebé とは一度も言っていません。そこがこの本のミソです。ほかの言葉でもよかったのです。最初はEl Bimboにしようかと思っていました。 イタリア語で赤ちゃんの意味の言葉です。だけど、英語でbimbo というとまるっきり違うものになるし、有名なパンのメーカーの名前でもあるので変えました。El Bambino とかEl Nino にしようかとも考えました。
ちょっと変わってますよね。そうかもしません。でも、あまりヘンなら別の言葉を使ってもかまいません。普通には使われていない名前、だけど、ちょっと調べれば赤ちゃんのこととわかる名前がいいですね。
 こうして考えているうちに思い浮かんだのが「ちっちゃいさん」でした。
 長男が生まれたとき、甥っ子を連れて会いにきた姉が、「xxくんは、ちっちゃい、ちっちゃいね」と言って、長男の頭を2歳にならない甥っ子になでさせていたのが頭に残っていたのかもしれません。
 タイトルについては、編集者さん(あるいは版元さん)の意向で再検討することもよくあるのですが、今回はこのままで通りました。うれしいけれど、ちょっとドキドキしています。

 本文でも、イソールさんにたずねたことはほかにもいろいろあるのですが、それについてはまたあらためて。
 

2016年5月6日金曜日

タケノコごはん

40センチ以上ありました!

 先日、実家に行ったとき、タイミングよく親戚から届いたタケノコを1本もらってきました。巨大なタケノコは、半分に切ってもまだ鍋からはみでるほど。でも、たっぷりの糠を入れてゆでると、まさに自然のごちそう、春の味です。

冷蔵庫にあったシメジも入れて

 やっぱり、これはタケノコごはんでしょうと、圧力なべいっぱいに作り、美容室勤めの娘にも届けてきました。
 傷まないうちにと、ここ3日、タケノコづくしです。

この絵本のタケノコごはんは、どんな味だったのかな。
 大島渚文/伊藤秀男絵『タケノコごはん』(ポプラ社)。
         ↑タイトルは、出版社のHPにリンクしています。




 魂のこもった伊藤さんの絵。
 思い出しながら、タケノコごはんをほおばりました。

2016年5月5日木曜日

持ち物はおやつ?!

バルセロナの日々(15)

 9月15日、小学校が始まった。
 さあ、いよいよだ。小中学校で3回の転校を経験した私は、新しい学校に初めて行く日の緊張は身に覚えがある。朝、つとめて元気に声がけをして起こしながら、ケンシたちの不安を思った。
 朝食を食べさせ、早めにうちを出る。持ち物は「おやつ」だけ。
 えっ、学校におやつ? なんでも、午前中の休みの時間に、サンドイッチやビスケットなどを食べるらしい。見学の日、初日の持ち物をたずねたら、「おやつだけでいいわよ」と言われたのだ。それにしても、ノートも筆箱も持たずに、おやつ?
 9時少し前に着くと、学校のまわりにはもう、わさわさと親子づれがいた。話には聞いていたが、やはり小学生の間は大人が登下校の送り迎えをするようだ。3ヶ月近い長い夏休み明けだ。子どもたちもにぎやかだし、久しぶりに会ったおかあさんたちもかしましい。
 へえーっ、これがスペインの小学生か。
 心配そうな我が子をよそに、私は思わず見とれてしまった。髪が茶色くて、くりくりっとした目の子が多い。高学年になると、私よりりっぱな体格の子もいる。こういう子たちに向けて、これまで読んできたスペインの児童文学作品って書かれてきたのか。不思議な気がした。
 9時ちょうどに学校の小学部側の扉が開いた。校舎前の小さな中庭で、担任の先生が学年ごとに子どもたちを集めている。校長のエドゥワルドは2年生の担任だった。私たちを見つけるとやってきて、「だいじょうぶ、安心しなさい」といいながら笑顔で、さっさとアキコとケンシをそれぞれの学年の場所に連れていった。学年の最初の日と言っても、入学式も始業式もないのだった。
 そこで私はタイシを連れて、建物の反対側にある幼児部の入り口にまわった。幼児部では、教室の入り口まで親が子どもを連れていくと、先生は子どもの両頬にキスをしてあいさつし、子どもを部屋に入らせる。担任のフアニが、
「ボン ディア タイシ」
とキスをした。タイシがもじもじしていると、同じクラスだというジョルディという子が、いきなりタイシの肩をだきかかえて、部屋の中にひきこんだ。
 慣れた保育園でだって、別れ際、ぐずる日はぐずるものだ。朝は、先生にお願いしたら、潔く立ち去るに限る。私はバイバイを言って、そのままタイシを残して立ち去った。こうして、第1日目の幕が切っておとされた。

 クレンフォル校は、9時に始まり、午前の部が1時まで、午後の部が3時から5時という時程だった。午前の部と午後の部の間の2時間がランチタイム。3分の2の子どもは、家に帰って食べる。だから、家に帰る子の親は、昼にも送り迎えをする。両親とも働いているような子だけが、学校に残って給食を食べる。
 スペイン人は、朝はあまり食べない。コーヒーや子どもなら牛乳と、コーンフレークやマリービスケットくらいですませてしまう人も多いから、昼ご飯までの腹つなぎが必要なのだろう。12時前後のバルには、ボカディーリョ(バゲットで作ったサンドイッチ)やドーナツをほおばる勤め人がたくさんいる。子どもたちは、11時ごろ、「パティ」と呼ばれる休み時間におやつを食べる。1時には昼ご飯になる子どもに、おやつは不要な気もしたが、一般の大人の昼ご飯は2時か3時なので、それならうなずける習慣だ。
 みんなどんなものを持ってきているのだろう。子どもたちにきくと、小さなボカディーリョや、ビスケット、チョコレート、クロワッサン、バナナなど、さまざまだった。
 ちなみに、一度、読書の調査で、午前の休み時間に中学校に行ったことがあったが、中学生の男の子はのきなみ、20センチか30センチはありそうなボカディーリョをほおばっていた。
 1日目、タイシはチョコクリームをはさんだクロワッサン、アキコはジャムをはさんだクロワッサン、ケンシはソーセージをはさんだコッペパンを持たせた。タイシが帰ってくると、「あしたもクワガタのパンにチョコをはさんで!」と言った。タイシには、クロワッサンは、三日月ではなく、クワガタに見えたようだ。だが、最初の頃こそめずらしがってクロワッサンを使っていたが、クロワッサンは普通のパン(つまりバゲット)と比べるとうんと高い。その後おやつは、おにぎりやボカディーリョなどに変わっていった。
 午後5時。いったいどんな顔をして出てくるだろうと思いながら、3人を迎えにいった。校長のエドゥワルドは、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と笑顔で言うと、ちょっと待ってと事務室に行き、各学年の買い揃えるべき教科書や学用品のリストを持ってきた。やっぱりノートや鉛筆だって必要だったんじゃない! 「順々に持ってくればいいですよ」なんて、のんびりしたものだ。でも、そんなわけにはいかないだろう。その日、帰りがけに、教えてもらった本屋と文房具屋に買いにいった。
 子どもたちは、それぞれに表情がかたかった。「何言ってるかぜんぜんわからない」とケンシ。「遊びに入れてくれなかった」とアキコ。「1人でいたいのに、さそわれていやだった」とタイシ。
 これからどうなるのだろう。
 校長のエドゥワルドがいくら「だいじょうぶ」と言ってくれても、私の胸の中では期待と不安が錯綜していた。でも、エドゥワルドの言葉や態度には、思いがけずやってきた日本人の子どもにいい学校生活を送らせてやろうという、教育者らしい思いやりが感じられた。「だいじょうぶ」と、私も信じたかったし、子どもたちにがんばってほしいなあと思うのだった。

2016年4月29日金曜日

イソール作『ちっちゃいさん』刊行になりました!!!


アルゼンチンの絵本作家イソールの『ちっちゃいさん』(原題El Menino) が、いよいよ刊行になりました。
赤ちゃんがテーマの絵本です。

最初に手にとったとき、ひと目見て、「わ、かわいい!」と思いました。単純な線で描かれていますが、どの絵も赤ちゃんの特徴をとらえて、実に愛らしいのです。
でも、かわいいばかりじゃないのがイソールなんですね。ほかの絵本のような毒気はないものの、予定調和とは無縁な意外性あふれる展開で、読者をうならせます。

赤ちゃんの本なのに、パパ、ママという言葉は、赤ちゃんがやってくるシーンにしか出てこないのもポイントです。ユニセックスな赤ちゃん本です。

講談社のホームページ用に書いた紹介文は、こちらをご覧ください。→講談社特設ページ
かなり力が入ってます(笑)

『かぞくのヒミツ』の、髪の毛が逆立ったお母さんや、『うるわしのグリセルダひめ』(どちらもエイアールディー刊)の、王子や騎士の首がころころころがる絵を見て、ええーっと思った人も、この本を見て、イソールの作家性を見なおしてくれるといいなあと思っています。

「だって、こんなふうに考えたらおもしろいじゃない?」と、イソールが投げかけてくれる視点が、読者のかたまった脳みそをやわらかくし、心を自由にしてくれるように思います。
人間性とユーモアにあふれた、スケールの大きな作家です。

それに、この絵本の何よりの特徴は、プレゼントにうってつけだということ。訳しながら私も、あの人にもあげたい、この人にもあげたいと、いろんな人の顔が浮かんできました。
刊行後すぐに、「友だちのプレゼントに買ったよ」と言ってくれた友人知人がいたのも、うれしいことでした。読むと、だれかにあげたくなる本です。

テキストは単純ですが、実によく考えられています。編集者さんに多分に支えられたこのあたりの翻訳の裏話は、またあとで。

手にとっていただけたらうれしいです。

2016年4月11日月曜日

クレンフォル校

バルセロナの日々(14)

シャラウ校に行った翌日の9月13日、サルダニョーラの地図と7月に留学生課でとりよせてくれた市内の学校リストをもう一度取り出し、改めて通えそうな私立校さがしにとりかかった。
 スペインの住所は通りの名前と番地からなる。番地は、通りの片端からだんだんと大きくなっていき、大きくなる方に向かって道の右側が偶数、左側が奇数、つまり右側は、2、4、6……となり、左側は1、3、5……となる。だから、住所がわかれば、どの通りのどこらへんで、道のどちら側にあるかまでわかるしくみだ。
 手始めに、郵便局や駅に行く途中で見かけた学校らしき建物の場所を地図で確かめ、校名をつきとめて2校に電話してみた。だが、どちらもあきはなし。どうせ、少し遠いから、と自分をなぐさめる。
 そこで、学校のリストにある私立校の場所を、一校一校地図で確かめにかかった。クレンフォル校を見つけたのはそのときだった。なんだかスペイン語らしくない校名の学校が、案外近そうなところにある。少なくともシャラウ校よりだんぜん近い。普通の学校だろうか。
 電話で用件を告げると、元気のいい男性の声が、あきならある、いらっしゃいと言った。
 あんまりあっさりと言うので、「日本から来たばかりで、スペイン語はもちろん、カタランもてんでわからない子どもですよ」と思わず念を押した。「だいじょうぶ、面倒みますよ」と自信たっぷりの返事。ほんとかなあ。あまり調子がよすぎるのも考えものだ。
 スペイン人ははったりが得意だ。というか、間違いを恐れないというのか、あやふやさを感じさせまいとするというのか、そのくせ途中であっさりこけて、謝るどころか自信たっぷりに言い訳する。もちろんそうでない人もいるが、もともと責任に対する考え方が違うのだろう。少なくともこういうとき謙遜する習慣はない。
 電話だけで決めるわけにはいかないので、翌日一度学校を見にいく約束をした。「だれをたずねていけばいいですか」とたずねると、その男性が、「私をたずねてきてください。校長のエドワルドです」と言った。校長先生だったのか! 1年間、担任として本当によくアキコの面倒を見てくれたエドワルド校長との出会いだった。
 翌朝9時過ぎ、3人の手をひいて学校を訪ねた。子どもたちはおっくうがって、「えっ、また別の学校に行くの? こないだのとこにするんじゃないの?」と、士気があがらない。それはそうだろう。シャラウ校をやめにしようと思っているとは、子どもたちには話していなかったからだ。「でも、こないだのところ、遠かったじゃない。もっと近くていいとこがあるかもしれないから」と、ともかくひっぱっていく。
 5分ほどで書いてあった住所の付近に来た。5分なら上々だ。でも、学校ってどれ? 番地のところに立っていたのは、4階建てだかのアパートのような小さな四角い建物だった。見ると、建物は二つの通りにはさまれており、狭い通りの門と建物の間には、縦横20歩ずつくらいの大きさのコンクリの狭い庭らしきものがある。片方の隣は建物だが、もう片側は小さな公園になっている。これが学校?!
 門の呼び鈴を鳴らすと、女の先生が2人、にこやかに迎えてくれた。エドワルドは用事で出かけたが、話は聞いているので案内しますと言う。校長先生がいないのにがっかりしたが、いい学校でありますようにと祈るような気持ちだった。
 1フロアに、教室は2つか3つだけ。中に入ると、建物の3階に体育の部屋(体育館と呼ぶにはあまりに狭い)、屋上に幼児の遊び場など、思いがけない空間があった。幼稚園・小学校とも、クラスは各学年1クラスだけ。タイシの入る年長は11人、アキコの入る2年生は13人と人数だと言う。多い学年でも20人いない。
 何もかも小さな学校だった。校庭がこれっきりじゃ、体育はどうしているんだろう。けれど、小さいのはこの子たちにとっては好都合かもしれない。案内してくれた先生は2人とも穏やかで感じがよく、歓迎ムードだ。翌日から始まる新学期のために整えられたこぢんまりした教室も、あたたかい感じがする。これなら、よく面倒をみてもらえるかもしれない。
 またまた決断のしどきだと思った。新学期は翌日9月15日からだ。初日からなんとしても通わせなければということはないが、最初から入るにこしたことはない。子どもたちは、これ以上学校をさがす気力はなさそうだし、私も時間がない。よーし、直観を信じよう。経済的に可能ならクレンフォルに決まりだ!
 おずおずと月謝をたずねた私は、耳をうたがった。聴き取った数字を頭の中でアラビア数字に直して、きき間違いかと思ったのだ。「5500ペセタですか?」たずねてみると、そうだという。間違いない。日本円なら4000円にもならない。そろばん塾じゃあるまいし。
明日からお願いしますと、私は頭をさげた。
 あとで知ったのだが、スペインでは私立校でも人件費は自治州から出るらしい。だからこそ、こんな小さな学校がやっていけるのだ。だが、自治州もそれほど鷹揚ではなかったようだ。それがなぜかは、あとでわかる。
 ともかく新学期前日、いちおう納得のいく形で子どもたちの学校さがしにけりがついた。ほっとした帰り道、学校近くの感じのいいパン屋さんに入った。一人一つずつ菓子パンを買う。エンサイマーダという粉砂糖をまぶした、やわらかいパンをほおばる。うれしさと期待がほんわりと心に広がった。

2016年2月21日日曜日

豊中と吹田の講演のお知らせ

3月1日(火)、3日(木)に大阪の豊中、吹田でお話させていただくことになりました。関西にお招きいただくのは初めてで、とてもうれしい。詳細は以下のとおりです。お近くの方、よろしければお出かけください。




私は略歴に「大阪生まれ」と書くことがありますが、転勤族だった父がたまたま大阪府箕面市にいたときに生まれただけで大阪との地縁はありません。とはいえ、生まれてから2歳までと、幼稚園年長から小4の1学期までは箕面、小4の2学期から小6の1学期までは大阪市北区の、今の大阪帝国ホテルのすぐ隣あたりに住んでいたので大阪弁に親しみがありますし、つれあいが奈良の人なので、いわゆる姻戚は奈良京阪に大勢います。
万博の夏は、あちこちの親戚が泊まりにきました。箕面では同じ学区に小松左京さんのお宅があり、みやこ蝶々さんのお宅がいつも行く八百屋さんの前にありました。
昔住んでいたあたりは学生時代に再訪したことがありますが、それも30年前。今はどうなっているのかな。

2016年1月3日日曜日

小学校さがし

バルセロナの日々(13)


 7月に下見に行ったとき、小学校について書かなかったのは、事情はわかったものの、決めるに到らなかったからだった。
 留学生課の人がいうには、小学校にはそれぞれ定員があり、公立の小・中学校は3月末に一斉に9月からの転入希望をとるらしい。その後、定員にあきがあるかどうかは、各学校にきいてみないとわからない。だが、7月には学校にだれもいなくなるので、9月にならないと問い合わせようがないとのこと。ともかく、どんな学校があるのか、サルダニョーラの小学校のリストを、役場からとりよせてくれた。
 リストを見ると、サルダニョーラの公立校は、小学校と幼稚園が、ほとんどの場合併設されていることがわかった。とすると、うちの子たちは三人とも同じ学校に通えばいいということになる。これは好都合だ。

 9月。在留届の手続きが終わると、真っ先に小学校さがしにとりかかった。お金をかけられないので、公立校と決めていた。
 サルダニョーラの地図と学校リストを照らし合わせて見ると、家から一番近そうな公立校はセラパレーラ小学校だった。歩いて2、3分というところか。
「スペイン語もカタルーニャ語もまったく話せない日本人の5歳と7歳と9歳の子どもなんですけれど、そちらの学校に9月から入れませんか」としどろもどろに電話でたずねる。電話口に出た人は、まず子どもたちの生まれた年を確認した。生まれた年で、学年が決まるので、ケンシは4年、アキコは2年、タイシは幼稚園の年長になるらしい。そして、うれしいことに、「あきはありますよ。明日にでも来てみてください」と言ってくれたのだ。よかった!
 ところが、これで終わらないのがスペインだ。
 翌日、すっかり気をよくして3人を引き連れて行ってみると、校長先生から、「よく調べたら、2年生のあきがなかったんです」と言われてしまったのだ。
「電話であるって言ったじゃない」と言ってみても始まらない。ないものはないのだ。ぼう然としていると、「近所の別の公立校にあきがあるか調べてみるから、ちょっと待っていてください」と言われた。
 待っているあいだ、事務所の横の廊下に掲示してある行事の写真や、子どもたちの図工の作品をながめる。日本の保育園の発表会や小学校の学芸会を思いだし、親近感がわいてきた。よさそうな学校なのにな、とますます残念な気持ちになる。
 15分くらい待ったろうか。ようやく校長先生が出てきて「歩いて10分くらいのところにある小学校に連絡をしてあるから、今から行ってみなさい」とおっしゃった。
 街路樹のプラタナスがくっきりと歩道に影を落としている暑い日だった。少し歩くと、喉が渇いてくる。通うことになる学校に行ってみるだけのつもりだった子どもたちは、
「ねえ、もう帰るんじゃないの?」「今度はどこ行くの?」とたずねてくる。途中、お店も見つからず、水も買えないし、説明する気力もない。土地勘がないからか20分近くかかって次の学校にたどりついたときには、子どもたちはくたくたになっていた。
 校長先生は、いかにも教育者という感じのあたたかい目をした年配の女性で、子どもたちが疲れているのを一目で見てとり、「あなたが話しているあいだ遊びたかったら、好きなところで遊ばせてやっていいわよ」と言ってくれた。この炎天下、外の遊具で遊ぶっていうのもなあ、と思ったが、ケンシとタイシはさっそく校庭の遊具で遊びはじめた。校長室についてきたアキコには、紙と鉛筆と消しゴムをもらって、お絵描きを始めた。
「大丈夫。あきはあるし、面倒をみますよ。子どもたちも疲れているようだから、とりあえず書類のことだけ説明しますね。あさって持ってきてくれたら、そのときにまた詳しく話をしましょう」と校長先生はおっしゃって、公立の小学校に入るために必要な書類を教えてくださった。市役所で住民登録をして、その証明書をもらってくること、証明写真、戸籍謄本、パスポートのコピーなど。
 そのあとで、校舎を案内してもらった。1クラス25人で、各学年2クラスずつ。教室は、日本の普通の教室よりややこぶりだった。黒板の上に張ってあるアルファベットの文字、壁に並んだフックにつけてある子どもの名前、小さな机や椅子が、日本の保育園や学校と似通った空気をかもしだしている。一つびっくりしたのは、チェスの部屋があったこと。この学校では、高学年で選択でチェスの授業があるらしかった。
 感じのいい学校だと思った。だけど、一つ気がかりが残った。アパートまで帰るのに15分以上かかったのだ。1キロはありそうだ。途中、けっこうきつい坂もある。ケンシはいいけれど、タイシははたして歩けるだろうか。3人そろって保育園に通っていたときのことが思いだされた。3人がその気になるタイミングがなかなかそろわず、家から連れ出すのだけでも一苦労だったのに、この距離だ。本当に通えるのだろうか。
 どうしよう。校長先生はよさそうな方だけれど、この学校で本当にいいだろうか。
 納得のいかない気持ちをかかえ、私は翌日、もう少し動いてみる決心をした。ほかに学校がないか、もう少し調べてみよう。なければ、その学校に通えばいい。私立に範囲を広げれば、もしかしたらもっといいところがあるかもしれない。
 そして、そこで出会ったのが、3人が1年間通うことになったクレンフォル校だった。