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2026年3月20日金曜日

紙に書く


  昨年8月、豊﨑由美さんの「よんとも」に呼んでいただいたとき、「どうやって文章修行をしたのか」と尋ねられた。「どうやって?」と、そのときは首を傾げたのだけれど、あとになって、もしかしたら小学4年生から20年近くつけていた日記のおかげだろうかと思い当たった。

 書きはじめたのは宿題だったからだ。担任のO先生がきれいな朱筆でコメントを書いてくれるのに励まされて、その日やったことや思ったことをせっせと書いた。学期途中の転校で、遊ぶ友だちがほとんどいなかったのも手伝っていたのかもしれない。6年生になって担任が変わり、宿題ではなくなってからも書き続けた。

 最初の頃は日記帳を使っていたけれど、中学生になったくらいからは、文房具屋さんで選んだ大学ノートに書いていた。鉛筆、ボールペン、万年筆……、筆記具はさまざまだった。

 その日あったこと、思ったこと、感じたことなどを書きつらねる。大半は、友だちとも家族とも話さないようなことだ。紙に書くから、ワープロやパソコンのようにあとから大幅には直せない。一発勝負で、あとから読んだときに自分がわかるように綴って、毎日自分と向き合っていたのだろう。思うように書けたり、書けなかったり。反芻するように、あるいは傷をなめるように、何度も読み返すこともあった。

 考えてみると、私が物語に求めているのは、日常生活やメディアに飛び交うような言葉ではなくて、自分が日記にしたためていた、決して表には出さない言葉と関係しているのかもしれない。その物語がなければ思い至ることのなかった何か、普段は触れることのない深い何か。

「手で紙に書く」ことを改めて考えさせられたのは、ハン・ガン『光と糸』(河出書房新社)で、子どもの頃の手書きの詩集から自分を発見するというエピソードを読んだからだ。紙だから残るものがある。手書きの文字が記憶につながる。

 SNSやブログに書いたことは、AIで加工されるかインターネットの塵と化すのがおちだけれど、紙に書かれたものは厳然としてそこにある。もうこれからは『アンネの日記』のような本は、出てこないかもしれない。マンガが縦スクロールで変わるように、道具で表現も変わる。絵本の絵だって、フォトショップでしばしばノイズが取り去られる。紙とヴァーチャルで、記憶の形も変わっていくのだろう。

 そんな私も、自分だけの部屋を持てなかった年月の間に日記を書く習慣を失ってしまった。いまかろうじてつけているのは10年メモ。1日ほんの4、5行の、ほとんどはその日に何をしたかの記録だけれど、スクロールしないで自分の日々を追える。翻訳や仕事にパソコンは必須だけれど、ペンを持てる限り「紙に書く」ことは手放さずにいたい。

2026年1月31日土曜日

通信添削の講師を引退しました

  昨年2025年末で、スペイン語通信添削講座の講師の仕事を引退しました。現在講座のHPには、以下のようなご挨拶文を掲載していただいています。
 長年お世話になってきた通信添削講座を、2025年末で引退させていただきました。「童話で学ぶスペイン語」講座を別の講師から引き継いで以来20年余り、「児童文学翻訳」「物語を読もう」を開講させていただき、みなさまと共に30冊以上の本を読んできました。

 読み終えたあと、「次の本も」と継続受講していただけるのが大きな励みでした。答案に添えられたお手紙やコメントもうれしく、何歳になっても読解力は伸びると、実感したものでした。不明な点を残さず的確に説明できるようにと、辞書や文法書を調べることが、私にとってもかけがえのない学びとなりました。

 語学学習において実用的なスキルがもてはやされる昨今ですが、普段日本語で伝えられる情報では知り得ない、スペイン語圏の人々の歴史や文化や暮らし、論理やメンタリティーにじっくり触れることができるのは、文学を読む醍醐味だと思います。講座が終わっても、文学を読み続けていただければ何よりです。

 受講してくださったみなさまとイスパニカのみなさまに、心より感謝申し上げます。翻訳作品で、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
 始めたのは、長男が中学3年の時だったように記憶しているので2004年だったでしょうか。以前お会いしたイスパニカの井戸光子さんから、「童話で学ぶスペイン語」講座の講師がおりることになったので、かわりにやらないかと声をかけてもらったのでした。
 当時私は翻訳のかたわら(というほど、翻訳の仕事もなく)、週3日パートづとめをしていたのですが、サイドワークでもスペイン語を使いたいと思い始めたタイミングでした。

 大学生のとき、講読の授業で小説を読んだように、ほかの読者とともに作品をじっくり読むことに飢えていた私にとって、受講生とこの講座で本を読めるのはとてもうれしいことでした。受講生は自腹を切って受講しているからでしょう、概して大学生よりも熱心で、学ぼう、楽しもうという意欲に満ちていて、それに応えたいと思わずにはいられませんでした。

 受講生の訳文に赤字を入れ、わかりにくい箇所を解説する作業は本当に勉強になり鍛えられました。『太陽と月の大地』『フォスターさんの郵便配達』『小鳥たち マトゥーテ短篇選』『この銃弾を忘れない』は、この講座で読んだあとで翻訳することになった作品です。

 また、通信添削の講師仲間のなかには、今もおつきあいしている方が何人もいます。大学で非常勤の職を得たのも、ここで講師をしたのがきっかけでした。ミランフ洋書店も、これがなければ始めていなかったでしょうし、ニュースパニッシュブックスやNPO法人イスパJPにかかわることもなかったでしょう。
 私の人生を切りひらいたといってもいい、とても大きな仕事でした。

 10年以上継続してくださっている方もいらして、やめるのは一大決心でしたが、一定の期間内に答案を返すのが時に苦しくなり、そろそろという気持ちになりました。

 かかわったすべての方に、心から感謝しています。

2025年2月27日木曜日

海の向こうに本を届ける 著作権輸出への道



今月半ばの寒い朝、2月8日に栗田明子さんが亡くなられたという知らせを受けました。

栗田さんは、日本文学の版権輸出の道を拓いたパイオニアです。

縁あって私は、1997年10月ごろから1999年初夏までと、留学をはさんで2003年から2年くらい、栗田さんのアシスタントをしていました。海外からオファーが来たら、その内容を作家や出版社に連絡したり、契約書を作ったり、契約書を送って押印してもらったりという週3日のパートでした。

出産後、文化的刺激がほとんど皆無の毎日を過ごしていたときだったので、海外とつながり、文学の話題が飛び交うなかで働くのは楽しいことでした。

「出版ニュース」への連載のあと本になった『海の向こうに本を届ける』(晶文社、2011)には、驚くような冒険の数々が綴られています大胆で、思い切りがよく、明るく、たくましく、すごいなあとため息が出ることばかりです。なかには、私がリアルタイムで見ていたこともあって、あのとき栗田さんは、こんなことに挑戦なさっていたのか、とドキドキします。

情熱、言い訳をせず、驕ることも卑下することもなく、正直に人と向き合うことが仕事のうえで大切だということは、栗田さんの仕事ぶりから学んだことかなと思います。

引退されて、芦屋に移られてから2度ほど訪ねましたが、2019年9月、芦屋文学サロン「小川洋子の世界を語る」に小川洋子さんとともに登壇されたときにお話を聞いたのが最後になりました。

静かに逝かれたとのこと。どうぞ安らかに、とお祈りします。

2024年5月19日日曜日

ある金曜日

 1か月以上前に頼まれた、やっかいな原稿の締切日だった。JBBY(日本国際児童図書評議会)会長名義で書く文章で、余裕をもって頼まれていたのに案の定難航して、ゴールデンウィークごろから落ち着かなかった

 構成を考えて、資料を読んで、どうすれば説得力を持たせられるかと悩んで、書いては消し、消しては書き。削除したけれど復活させるかもとプールしたテキストが積もり積もって2000字にもなるのにまだできない。

 もう一息と思いながらwordを離れると『ハリケーンの季節』の担当編集さんからメールが来ていた。「選考会の時間は、会社で待機しております。」

 この日は、日本翻訳大賞の最終選考会が5時から7時まであって、入賞した訳者にだけ電話連絡がくることになっていた。

 その後、再び担当編集さんからメール。日本翻訳大賞の選考・運営委員の西崎憲さんからのメールを転送してくださる。ありがたい言葉。

 正午すぎ、ようやく4000字あまりの原稿が仕上がって、副会長と事務局に、とりあえずこれで提出しますと連絡。長い長いトンネルを抜けた気分。

 スパゲティをゆでて、冷凍してあったミートソースで昼ごはん。我ながらおいしい。

 朝ほした洗濯物がきれいに乾いていたので、とりこんでたたむ。

 ミランフ洋書店で発送する本があり、梱包する。郵便局に行こうと自転車に乗ったら、ペダルを漕ぐなりキーキーいやな音がする。

 アパートの前の駐輪スペースで、カバーをかけてある隣の自転車が、風が強いと必ず倒れかかる。その前日もまきぞえをくって、自転車が横転していたのを思い出す。よく見ると、チェーンガードの一部がへこんでいる。まいったなあ。

 なるべくペダルをこがないようにして、郵便局に行って帰ってきて、自転車屋さんにいつ持っていけるかなと考える。

 少し前に翻訳原稿をおさめたノンフィクション絵本の進行が気になっていたので、某出版社に電話。「出すのは来年かな」と言われて、ちょっとホッとする。

 昨年、スペインの翻訳助成金をもらった絵本の出版報告の文書がそろったので、提出手続きをする。担当編集に完了の連絡をして、6月になったら一度、ゆっくりお会いしましょうと、メールでやりとり。

 スペインの翻訳助成金の申請サイトに入ったついでに、今年の申請時の記入事項を一通りチェック。去年とかわりがなくて安心する。

 くだんの原稿を、メールで送信して納める。

 夕方、『赤い魚の夫婦』の編集者さんとの待ち合わせ場所に向かう。「前のときは、一緒にいられなかったから、今度は一緒にいますよ」と、声をかけていただいていた。

 電波が入りそうな焼き鳥屋を予約してくれていて、近況報告をしあう。

 生ビール2杯目に入る。普段の家飲みだと350cc缶で十分なのに、どうして飲みにいくと2杯は飲んでしまうのか。

 窓際の席から、だんだん暮れていく街が見える。ずいぶん日が長くなったなと感じる。

 7時をまわって、「もうないかな」と思ったけれど、担当編集さんに電話したら、受賞したと勘違いされそうで申し訳なく、テーブルに置いたスマホをただ見ている。

 スマホに着信があり、とると担当編集さん。

「来ませんね」「ダメでしたね」「引き続き売りますよ。また別の作品も」「すみません」みたいな会話。気づかいに、いたみいる。

「2時間です」と、焼き鳥屋を追い出される。

 沖縄料理屋へ。

 最近の仕事のこと、秋に予定している本のこと、腹立たしく思ってしまう赤字とそうでない赤字がどうしてあるのだろうという話、メキシコ大使館のイベントで声をかけてもらってから『赤い魚の夫婦』に至るまでの思い出話、「ネッテルは、ほんとによかったね」「ゴーヤが苦くておいしいね」「シークワーサーサワー、濃いね」「ネッテル、またよろしく」など。

 沖縄料理屋を出て、地下鉄の入り口近くの、植え込みのレンガのところで、さらに30分以上おしゃべり。かたい握手で別れる。

 帰りの地下鉄のなかで、「人様の運命を少し変えるかもしれないことなので、できればやりたくない。逃げだしたい。」という、西崎憲さんのツイートを読む。

 だいじょうぶ。賞がなくても、運命は変わらないよ、と思う。

 2年前と違って、これからも自分なりの仕事ができる自信がついたから。もういいよ、という気持ち。

 悔しくなくはないけど、審査員に読んでいただき、真剣に討議していただけたのは、信じられない僥倖だ。10年前の自分に教えてやりたい。

 審査員にも賞の運営スタッフにも、応援してくれた読者の方にも感謝。10回も続けてこられたなんて、スゴイ。

 日曜日は、受賞者をたたえよう(と、思えたのは、ほんとうは翌土曜日)。

2024年4月18日木曜日

広瀬恒子さんのこと

 


 広瀬恒子さんが亡くなられた。

 広瀬さんのお名前をはじめてきいたのは、『ペドロの作文』(アントニオ・スカルメタ著 アルフォンソ・ルアーノ絵 アリス館 2004)が翻訳出版されたときだった。

「高く評価してくださった」と、編集者からきいてうれしかった。だけど、ご本人にお会いしたのは、もっとあとになってからだ。

 親地連(親子読書地域文庫全国連絡会)に呼んでいただいて、2012年6月に話をしたことがあったが、あのときは広瀬さんが代表だったろうか。

 日本子どもの本研究会の機関誌「子どもの本棚」2014年1月号(No.543)で、「スペイン語圏の子どもの本の世界 翻訳家宇野和美のしごと」という特集を組んでいただいたとき、広瀬さんは「子どもの可能性への信頼」という文章を寄せてくださった。そこでとりあげられていたのは、『ペドロの作文』と『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ作 鈴木出版 2011)だった。

『雨あがりのメデジン』に登場するマールさんという図書館員のことを「本当の司書ってマールさんのような人ではないかと共感させられた」と書かれている。この本のこと、マールさんのことは、会うたびに話題にしてくださり、ご講演でもとりあげてくださった。心許ない翻訳者にとって、そういうご縁をいただけたのは、とてもありがたいことだった。

 最後にお会いしたのは、東京外国語大学で非常勤講師をしていたときだ。コロナになる前の年かその前くらいか。帰り道の西武多摩川線で、ばったりお会いした。夜にかかる会合などには、もうお出にならなくなっていて、しばらくお会いしていなかったので、1駅だけだったけれどうれしくて、疲れもふっとんだ。

 訳書が出たとき、広瀬さんはどう読んでくださるだろうと考えずにはいられない、鋭く厳しく、そして子どもを大切にする読み手だった。広瀬さんのような方がいるから、いい仕事をしたい、いいかげんなことはできない、といつも思わせてくださる存在だった。

 子どもの本の翻訳をするようになって出会った、ふたまわりかそれ以上か年上の、一家言ある活動的な先輩の多くがあの世の人となっていき、いつのまにか自分も、当時の先輩たちの年齢に近くなった。

 今はただ感謝し手を合わせている。ありがとうございました。

2023年12月24日日曜日

クリスマスの思い出

  幼い頃、クリスマスというと、母がクリスマスツリーを出してきて、クリスマスソングのレコードをかけて、鶏のモモ肉を1人1本焼いてくれた。母はどこで、そういうクリスマスの祝い方を仕入れてきたのだろう。クラッカーを鳴らして、ささやかなプレゼントとはなやいだ空気がうれしかった。
 一番よく覚えているクリスマスプレゼントは、小学校低学年のときにもらったお裁縫箱。中に入っていた母がフェルトで作った長靴型の針山は、今も私の裁縫道具の中にある。

 10代の頃は、鶏の丸焼きというのにあこがれて、姉と一緒にスタッフト・チキンを作った。あの頃、新しい料理のレシピの情報源は雑誌で、雑誌の記事を切り抜いて、見よう見まねで、フィリングをつくり、オーブン皿に野菜を敷いて焼いた。胸のところにある、ウィッシュボーンの実物をはじめて見たのもあの頃だった。

 留学していたとき、amueblado つまり家具・家財道具つきのアパートのオーブンに串がとりつけられるようになっていて、スイッチを押すと、オーブンの中でその串がくるくる回るのがわかってうれしくなった。

 クリスマス前日、近所の市場の鶏屋さん(ここでは、鶏や七面鳥やウズラと卵、ウサギ肉だけを売っている)で、はじめて丸鶏を買った。丸鶏を買うと、「どうしますか?」と店の人が聞いてくれる。鶏屋さんには、台に固定された巨大なハサミがあって、大きな部分はそのハサミでジョキジョキ切ってくれた。私ははりきってAsí. とこたえた。「そのままで」ということだ。一度言ってみたかったので、それだけで、またまた気分があがった。
 そして、栗やらマシュルームやらたまねぎやらプラムやらをつめて鶏を串に刺した。ドキドキしながら、温度を設定して、串をまわしながら焼きはじめた。

 ところが、しばらくすると、バッタンバッタン音が聞こえはじめた。いったい何かと思ってみたら、はしたなく大股開きになった鶏の脚が、オーブンの底面にぶつかっているのだった。
 凧糸がなかったので、穴のところを軽く爪楊枝でとめただけだったのが失敗の原因だった。詰め物があちこちとびちって、オーブンの中は惨状と化していて、笑ってしまった。仕方なくオーブン皿に鶏をおろして、続きは回さずに焼いた。
 味がどうだったかはよく覚えていない。3人の子がいれば、どっちみち、あっという間に鶏は原型をとどめなくなる。作った料理を競いあって食べる子どもたちを見るのが、何より幸せだったなと、今となればなつかしい。

 配偶者の家が寺で、もともとクリスマスを祝わない人だったので、子どもたちにクリスマスプレゼントをあげるのも、ケーキや特別な料理を作るのも、どこか罪悪感があって、いつのまにかクリスマスはそれほど楽しみではなくなった。
 でも、今年は生協の宅配カタログを見ているときに魔がさして、丸鶏を買ってしまった。冷凍庫にでーんと鎮座している鶏をいつ焼こうかと思っているうちに、クリスマスは過ぎていきそうだ。
 
 

2023年9月9日土曜日

はじめての青森(1)

  9月6日から8日まで青森に行ってきました。

 仕事が一段落したら、何日かすっかりオフで過ごそうと決めていて、このへんなら大丈夫かと、日程を決めたのは8月下旬。楽しみに予定を立てました。

1日目 青森

 なんとはなしに行き先を青森に決めてから、そういえば、アフリカ子どもの本プロジェクトでおつきあいがあった沢田としきさんは青森の人だったなとか、4年前に亡くなった友人が、最後の夏にねぶたを見に行ってたなとか、母の十八番が「津軽海峡冬景色」だったなと思い出して、案外、ご縁があるじゃないと思ったことでした。

 午前中に到着し、涼しさを喜びながら、まずは県立美術館へ。「メイキング・オブ・ムナカタ」という、大規模な企画展をやっていました。特に興味があったわけではなかったのですが、今回改めて全体像を見て、作品のデザイン性を強く印象づけられました。

 心に残ったのは、キリストの十二使徒を描いた作品と、最後の展示室にあった大きな壁画のような作品。これはそのうちのひとつ。もっと大きなのもありました。


 また、地元出身の奈良美智さんの作品のコレクションもおもしろかった。最近話題の「あおもり犬」にも会えました。

 美術館は順路が複雑で、要所要所にスタッフの女性が立っているのですが、ユニフォームが、ワンピースというか、長めのスモックのような服で新鮮でした。ランチをした美術館のレストランも、ゆったりしていて、とても居心地がよかったです。

 午後は、美術館に行く途中にバスの車窓から見えた古書らせん堂さんへ。ぱっと目に入ってX(旧twitter)ですぐに検索するとアカウントがあったので迷わず行けました。文学や人文関係、美術書、郷土資料その他、充実した品揃え。青森にいらっしゃる方はぜひお立ち寄りください。

 読んだことのない倉橋由美子の初期の作品と、読み返したかった短編が収録されている有名な英米文学、2冊の文庫を購入。青森に来てよかった! という気持ちになりました。

 そのあと海に出て、海沿いのウッドデッキをぷらぷら歩いて港のほうへ。曇っていても、いつでも海の景色は好き。

 それから、ねぶたの家ラ・ワッセで、ねぶたを見て圧倒され、ビデオで雰囲気を少し味わってきました。若いねぶたの作り手がいるのがすごい。いつかお祭りそのものを見たいな。

 夜は、らせん堂さんで、青森で一番おいしいと教えてもらった一八寿司へ。たいへん満足。

 特に予定を決めず、体の動くままの旅の1日目、無事終了。

 

2023年7月24日月曜日

聞かぬは一生の恥

  今、ゲラを見ている作品で、どうも自信のないところがあり、ネイティブに確認したところ、「何できいてくるのか、わからない。これしかないだろう」というような返事が来て、ちょっと凹みました。

 そうなんだろうけど、「ねえ、ここってこうだよね?」というのを、確かめたいことはときどきあるんですよね。「そうだよ」と言ってもらえたら、それで気がすむのですが、ときにはぜんぜん勘違いしていることもあるので。

 行き場のない思いをかかえて、「あーあ」と思いながら歩いていたら、母がよく「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言っていたのを思い出しました。

 どんな文脈で言われたか、もう覚えていないけれど、もじもじしていると、そう言って、肩を押されていたような気がします。

 で、まあいいか、わかったんだから、という気持ちになりました。

 でも、そのあとで、父によく「見てわからんもんは、きいてもわからん」と言われていたのも思い出しました。

 父は、人にものをならうのが好きじゃなくて、なんでも本を買って独学でおぼえようとする人でした。でも、年をとるほどにあきっぽくなって、何もかも中途半端で投げ出していたのを見ると、先生にちょっとコツを教えてもらったら、もっと伸びて、続けられたのでは?と思いもしたものでした。独習の限界もあるなと思えて。でも、楽しかったのなら、あれはあれでよかったのか。

 いや、「見てわからんもんは、きいてもわからん」と言ったのは母だったか……? 小学生のころ、母がやっている刺繍を「教えて」とたのんだら、本を渡されて、「これを見てやりなさい」と言われた気もします。もう記憶があやふやです。

 でも、孫がクロスステッチをしたいと言ったときは、母は手とり足とり教えていました。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」から、父母のことをあれこれと思い出した日でした。



2023年7月1日土曜日

2年間よろしくお願いします

  昨日は、近所の神社で大祓茅の輪くぐりという行事があって、今年も半分過ぎたのかと驚いています。

 昨年末から4月までは、今年12月に刊行予定(もともとは今年6月のはずだったのがずれました)の作品の翻訳に追われ、その後、しばらくは何もしないぞと思っていたのに、べつの初校ゲラを1本チェックし(こちらは幸い9月に刊行される予定)、来年刊行のむかし話絵本の調べ物などをし、こまこました仕事をするうちに、初校ゲラが手元に届きました。

 そして、このところの何より大きな出来事は、1週間前、一般社団法人日本国際児童図書評議会(JBBY)の会長に選出されたこと。

 こういう肩書きが欲しい人もいるのでしょうけれど、私の場合は、なりたかったわけではもちろんなく、逃げきれなくて観念した、というのが正直なところです。

 あ、JBBYって何?と思った方は、こちらをご覧くださいね。 https://jbby.org/

 JBBYに入会したころ、当時会長を務めていた方は、みなすごく偉くりっぱに見えたものでした。それが、自分のところにお鉢がまわってくるとは。しかも、来年JBBYは50周年……。でも、順番なのかな、そういう年回りになったのかという気持ちもあります。

 気づかないうちに恩恵に浴していることというのが世の中にはあるものです。たとえば地域の盆踊り大会。子どもが小中学生のころ、中学校の校庭にやぐらを建て、ちょうちんを飾り、テントをはり、夜店用に2日間、毎日400食のカレーを作るなど、5、6年はボランティアをしていました。また、谷根千地域の不忍ブックストリート主催の一箱古本市だって、実行委員の方々の無償の尽力で成り立っています。それを大事に思う人たちによって支えられ、継続されていることはたくさんあります。日本翻訳大賞とかね。

 長く翻訳をし、子どもの本にかかわってきた私としては、JBBYが存在していることは大事なこと、という気持ちがあります。さまざまな視点から子どもの本のことを考え、人権や子どもと本の自由や多様性を大切にし、世界規模で誰ひとりとりのこさないで本を届けることを考える組織はほかにないから。だから、やるっきゃないとも思うわけです。不安に揺れながらも。

 3期6年会長を務めたさくまゆみこさんは在任中ずっと、翻訳をする時間がないと嘆いていらっしゃいました。私にとっても、本業である翻訳とどう折り合いをつけていくかが最大の課題です。どうなるでしょう。

 つい先日、理事としてかかわっているNPO法人で、自分のヘマが原因ですが、へたりそうになることがありました。そんなことがあると、翻訳の時間を削ってこういうことをして、自分はいったい何をやっているのか、そんなのは自己満足、単なる思い上がりでは、という気分にもなります。いろんな人がいるんだなとも、思い知ります。

 だけど、これもめぐりあわせ。抽象的なこと、具体的なこと、ポジティブなこと、ネガティブなこと(これは少ないといいけれど)、さまざまな出会いを期待する心持ちを持ち続けられたらと思っています。

 どうぞみなさま、お手やわらかに。

2023年1月14日土曜日

和顔愛語

人生のなかでいくつか、繰り返し思い出す日がある。子どもが生まれた日とか、子どもたちとバルセロナに降り立った日とか……、きっと昨日もそういう日になるだろう。

5年前に父が他界し、その頃には母も認知症が出てきていて、新しい訳書を見せても、「あら、きれいな本ね」くらいしか言わなくなっていた。その母が、1月2日にあの世に旅立ち、昨日葬儀が終わった。ここ数年、母はもういない、という気持ちだったけれど、ほんとうにいなくなるのとそうでないのは違うのがわかった。

12月31日の朝方、携帯が鳴って、画面に姉の名前が踊っていて、出ると母が「ああ、和美ちゃん。ごめんね、今図書館でしょ?」とたずねてきた。はっと目が覚めて、夢だとわかり、胸騒ぎがした。祖母が亡くなったとき、祖母が夢枕に立った記憶があったからだ。

一昨年くらいから母は、「そうね」とか「はい」くらいしか答えず、しゃべる言葉も不明瞭で、何を言っているか聞き取りにくくなっていたのに、夢の中の母は、携帯で電話をかけてきていた頃のように、明るい声で話しかけてきた。

現実に戻って携帯を見ると、泊まりこんでいた姉から午前5時20分に「体温36.8度、酸素飽和度88、体温(ママ。血圧の間違い?)測定不能。脈は首筋でしか測れず。足裏にチアノーゼ、急に出てきました。そろそろ疲れてきてしまったようです。」というLINEが入っていた。

そして、大晦日からは私も泊まりこみ見守るなか、2日の午前4時半ごろ、母の呼吸が止まった。享年90歳。

法名は「釈和顔(わげん)」。無量寿経にある「和顔愛語 先意承問」という言葉からとったとのこと。姉と私は、母の繰り言もさんざん聞いて、勝ち気なところも見てきたが、孫たちは、「おばあちゃんはいつもにこにこしていて、やさしかった」と口をそろえていう。母らしい名前がうれしい。

昔、電話交換手をしていた母は声が自慢で、子どもや孫に本を読んでやるのが好きだった。子どもの頃、本を楽しむことのできなかった母は、姉と私が寝る前に物語の本を少しずつ読みながら、自分も楽しんでいたのだろう。夢見る少女のようなところのある人だった。

得意だったのは怖い話だ。赤ん坊のミルクを買うお金がなく、いけないと知りつつお寺の賽銭箱のお金を盗んでいた女の素話は忘れられない。あるとき賽銭箱のところにいた男に、このところ、お金を盗まれて困っていると言われた女が、いったい誰がそんなことを、とたずねると、「それは、おまえだ!」。いきなり大きな声で母が言い、私たちは自分に言われたような気がして、怖くて震えあがった。細部は記憶違いがあるかもしれないが、とにかく怖かった。姉の子たちは、母に絵本を読んでもらった思い出がたくさんあって、『さんまいのおふだ』はものすごく怖かったと言っていた。

年の近い孫7人がひさしぶりにそろい、葬儀のあとの会食はにぎやかで、大いに食べて飲み、解散のあと、男子4人は麻雀にくりだしていった。

お正月は、姉と私の家族が集まって、百人一首をしたりトランプで大富豪をしたりするのが恒例だった。みなが集まるのをいつもとても楽しみにしていた母は、子どもたちが大勢でふざけあう姿を見たら喜んだことだろう。

どこか呆然としていて、まだ言葉が出てこない。こういう気持ちにも、だんだん慣れていくのかな。

2018年9月 思い出の地、直島で

2022年9月16日金曜日

ハビエル・マリアスの最後のコラム

 ハビエル・マリアスの訃報を聞いてから、亡くなったことと同時に、日本ではこれっぽっちの扱いだというのがショックで、今週はずっと、なんで? なんで? と思いつづけていました。

 彼の小説を読みこなせなかった私が言うのも口はばったいのですが、スペインでは死去のニュースが新聞の1面で報じられるくらいの作家であり、スペインを代表する作家という言い方がこの人以上に似合う人はいないだろうというような人物だったというのに、日本ではどの新聞にも訃報が載らないか、載ってもほんの数行だなんて、そんなの、あるだろうかと、信じられない思いでした。それは日本の読者のスペイン文学への関心の低さ、あるいは、スペイン文学の遠さを如実に物語っているようでした。

 マリアスは、エル・パイス紙に2003年からコラムを書いていました。私のある友人のスペイン人は、マリアスの小説は好きになれないけれど、コラムは好きだと言います。彼の小説をなかなか読めない私も、彼のこだわりや時の話題にについてのウィットに富んだ文章はちょくちょくのぞいていました。例年8月は休載するので、9月に再開したときのためにと7月に新聞社に渡されていた939個めのコラムが、9月11日に掲載されました。それは「芸術への最も真の愛」El más verdadero amor al arteと題された、翻訳へのオマージュのようなものでした(NG覚悟で引用します……)。

 書き出しはこんなふうです。

「今もなつかしく思う活動があるとすれば、それは翻訳だ。小さな例外(詩や短編、私の小説に登場する英仏の作家の引用)を除いて、私は数十年前にやめてしまったが、自分の本と、その極めて重要な労働に対する報酬の少なさがなければ、また手がけていることだろう。翻訳が、世界一重要であるのは間違いない。」

 そのあとで、マリアスは、創作と翻訳の違いを論じ、翻訳家はかなり自由ではあるけれども、勝手に文章をつくるわけにいかないことを論じます。

 そして、彼が手がけた、最も困難だった3つの翻訳として、ジョゼフ・コンラッド『海の思い出』(The mirror of the sea)、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(Tristram Shandy)、トーマス・ブラウン『医師の信仰 壺葬論』(Religio medici / Hydriotaphia)を、冷や汗と大きな喜びとともに思い出すと言っています

「(訳しているとき)もうだめだ、自分にはできないと思った。だが数か月すると、スペイン語の読者がその作品を知らないままになるのは残念だと思い、改めて自分を鼓舞してとりくみ、訳了した。訳しても、読む読者は決して多くはない。彼らがその作品を読むことが、どうして自分にとってそれほど重要だったのか。それはわからない。ただ、たとえ数少ない好事家の楽しみのためだったにせよ、そのすばらしい作品は私の言語で存在するに値すると、私は判断したのだ。」

 さらに、「翻訳では食っていけない」ことに話が及び、『ドン・キホーテ』の翻訳が、刊行の7年後の1612年にはイギリスで出たことを語り、「翻訳家の仕事ほどに、『芸術への愛ゆえに働く』という表現がふさわしい仕事はない」と語っています。そして、翻訳家の報酬が限られていることを皮肉を交えて指摘します。そして、こうしめくくるのです。

「それでも、なお……、さきほどあげた私の3つの翻訳の場合がそうであったように、自分ではとうてい生み出せないすばらしいテクストを自分の言葉で『書き直す』ことが、どれほど私を満足させ感動させたかは覚えている。読み、修正し、1ページ1ページ読み直し、考えるのだ(常に誤りはつきもので、人は自分がすることに対してすぐれた裁判官ではない)。『うん、うん、コンラッド、スターン、ブラウンがスペイン語で表現したなら、こんなふうに書いただろう』と。」

 この最後のコラムを読んで、ああ、この人は翻訳を、文学を愛していたのだなと、心から思いました。自分もそんなふうに翻訳したいなとも。

 マリアスの言葉に共感し、胸を熱くしながらも、せつなくて、悔しくて、歯痒くて、地団駄を踏んでいます。これほどスペイン語圏の読書人が悲しみ惜しんでいる作家が日本の読者に知られていないというのは、スペイン語文学を紹介しようとしてきた私たちの力不足でもあるわけなので。

 追悼記事で知ったのですが、マリアスは、自らReino de Redondaという出版社を持っていて、絶版本の復刊などにも尽力していたとのこと。王立アカデミアの会員で、必ずベストセラー入りする、知的で哲学的で観念的で重厚な長編小説を書く作家以外に、そんな顔があったのですね。

 まずはCuando fui mortalを訳せたらと、私は思っています。信用ならない語り手が活躍する12篇の短篇集です。一度はマリアスをきちんと読みたいと思って、7、8年前に大人向けの講読講座でとりあげた本で、たくらみに満ちた、意地悪で、謎めいた、ちょっと怖い、おもしろい話ばかりでした。そのうちの1篇「新婚旅行で」は、以前『名作短編で学ぶスペイン語』(共編著、ベレ出版)で訳出しました(ほとんどページ数の制約から選んだので、これがこの本の中で一番好き、というのではありません)。いつか、いつかと思いながら書けずにいるレジュメ、さっさと書けよと自分のお尻を叩いています。

 みあった報酬を望めないことはマリアスも認めていますが、もっともっと多くの翻訳者が愛を共有して、多様なスペイン語の作品が訳されるようになるといいなあと、心から思います。

 それにしても悲しい。


※追記(9月17日)

>マリアスの長編小説は2点翻訳されています。

『白い心臓』(有本紀明訳 講談社 2001 絶版)

『執着』(白川貴子訳 東京創元社 2016)


>El Paísのコラムの原文はこちらです。

https://elpais.com/eps/2022-09-11/el-mas-verdadero-amor-al-arte.html

2022年9月2日金曜日

説明をお願いします

  ここ数年、いろんな出版社の方と仕事をする機会にめぐまれ、それはとてもありがたいことなのですが、とまどうことも増えています。

 それは、編集者ごとに手順が微妙に違うこと。というよりも、その手順をきちんと説明してもらえないことです。

 絵本も読み物も、デジタル化が進んで、編集者によって進め方が異なります。呼び方ひとつとっても、たとえば絵本の場合、翻訳をして、デザイナーが文字をいれたものを「初校」と呼ぶ人もいれば、それは「デザインしたものの出力」とか「レイアウト校」とか呼ぶ人もいます。「初校」が、ゲラの「初校」というわけではないのです。

 呼び方の問題だけならいいのですが、私が知りたいのは、それぞれの過程の内容です。

 私の一番好きな進め方は、翻訳の第1稿を出したところで編集者にコメントをいただき、もう一度推敲した第2稿で入稿してもらうこと。編集者の赤で必ず気づきがあるので、けっこう私はそこで修正を入れたくなるからです。少量でも的確で本質的なコメントをもらえると、ほかにも同じ視点で修正すべき箇所が見えてくるし、原稿を大きくつかんでの印象や方向性の確認をしてもらえると安心します。甘えているのかもしれませんが。

 最初から、第2稿の質に持っていけたらと思うのですが、残念ながら、私はまだそれができません。タマネギの皮をむくようにしか進められないのです。

 第1稿がすぐにゲラになった場合、赤字が多くなり、戻すときにいつも「すみません。かなり赤字が多いんです」と謝ることになります。でも、読み物でも絵本でも、最近は「まずレイアウトして」という傾向が強くなっている気がして、「ヤバイ」と感じています。

 私が出版社に入社したころ(ワープロもなかった時代です)は、原稿はなるべく完全な形に仕上げて、ゲラの赤字は極力減らすようにというのが基本でした。ゲラでの直しが多くなると、それだけ費用がかさむし、誤植の可能性が高くなったからです。

 だから今も、初校で気づくべきと自分が思うところを見落とすと、すごく申し訳ない気がします。でも、DTPの達人がいる出版社は、そういうのはあんまり関係ないのかも。また、これまでの仕事で、原稿でも初校でも編集者がほとんど内容をチェックせず、再校になってから原稿吟味をしている気配を感じたこともありました。

 だから「説明をお願いします」と思うのです。

 その本を、どういう手順で作るつもりなのか、どんなスケジュールで、それぞれの段階でどんな作業をするつもりか、すべきか、説明してほしいのです。校閲がどこで入るのかだって大問題です。あるいは、校閲が入らないなら入らないと教えてほしいです。そうすれば、覚悟できます。

 初校がいつ、再校がいつだけでは、手順や心づもりがわからず、同じ用語でも内容が違っていることもあって、行き違いがあるたびに消耗します。それに、私がやりにくいときは、編集者さんもやりにくくて、困っているはずですよね。たとえば、途中で予定が違ってくること、調整することは、場合にもよりますが、私は基本オーケーです。明らかに先方の不手際で皺寄せが来ていると思われると腹が立ちますが、人間のやることにミスはつきものだし、お互いさまだし、仕方がないことは仕方がないので。それよりも、自分が思ってもみなかったことが、まるで当然のことのように途中で出てくるほうがストレスがあります。そのくらい、予想がつかないのです。

 要は、自分のキャパが限られているので、一番いいパフォーマンスが出せるように仕向けていきたいということなのだと思います。子育てを主にしていた20年間、1年365日、スケジュールが自分の一存で決められず、不慮の出来事に対応しながら時間をつくって仕事をしてきたから、よけいそんなふうに思うのかもしれません。人それぞれやり方があるので、そんなふうにぎちぎち考えないほうが気楽でいいという方もいらっしゃるのは承知しています。でも、同じようなことで悩んでいる翻訳者さんはいらっしゃらないのかなと思います。

 手順を説明してくださいと、私はできるだけ言うようにしているつもりですが、あたりまえすぎるのか、当然のことのようにささっと流されてしまうこともあります。今さら、説明することもないでしょう、というふうに。でも、面倒かもしれませんが、きちんと説明してもらえると、少なくとも私はとても助かります。だって、編集者お一人おひとり、ほんとうに違っているのです。互いの常識がかみあっていないことにそこで気づけば、すりあわせればいいわけですし。

 気づくと、自分より年下の編集者と仕事をすることが圧倒的に増えていて、こちらが何か言うとびびられることもあるようです。翻訳者は怖がられるようなエライ人ではないし、権威は無用で、先生でもないのですが。互いに敬意をはらいつつフラットな関係というのが、私は心地よいです。

 対面での打ち合わせが減っているので、「そういえば」などと言って、補足的な話をしにくいということもあるのでしょうね。

 愚痴っぽく思われたならすみません。何はともあれ、よりよい仕事ができるように今日もがんばります。

2022年5月20日金曜日

今のきもち

最終選考対象作品になったときお祝いにいただいたロバ

第8回日本翻訳大賞の受賞作が発表になりました。

昨年翻訳出版されたグアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』(現代書館)に多くの推薦をいただき一次選考に残り、さらに最終選考候補の5冊の中に入りという、昨年の今ごろには考えられなかった展開になりました。

少なくなったとはいえ、1年間に翻訳出版される本は1000点以上にのぼり、話題にならなければ店頭からはすぐに退散させられてしまうことを思うと、昨年8月に海外文学とはあまり縁のなさそうな(?)出版社から出たこの作品が、今も書店の店頭に並べてもらえていること自体、すごいことです。

でも、そういう優等生的な発言の傍らで、あわよくばという気持ちがまったくなかったわけではなくて、発表前の数日間は思った以上に平常心が失われて自分でも驚きました。煩悩にまみれた、ちっこい人間です。だけど、私にとってはとても大きな出来事だったので。

だめだったとわかったあと、編集の原島さんに「残念でした」とメッセージを送ったら、「こんな舞台まで楽しませていただいて、感謝しています」と返事をいただき、ハッと我にかえりました。

ネッテル『赤い魚の夫婦』を多くの読者のみなさま、そして選考委員の方々に読んでいただけたこと、日本翻訳大賞という舞台で翻訳者と読者のすばらしいコミュニティーに入れてもらえたことがとてもうれしいです。

昨日は、長男に残念会をしてもらいました。去年4月15日に「ネッテル、進めたいと存じます」と連絡をもらうまで、しばらくこの本を出せるかわからなかったこととか、刊行前に原島さんと書店まわりをしたこととか、いろいろあったんだよと話しておきたくて。

もうとっくに大人の長男は、何を言っても「この人は、しょうがねえな」と聞いてくれて、すっきりしました。ついでに、20数年前のスペイン留学のとき、9歳の彼はどんな気持ちだったのか話を聞けて、いい夜でした。

残念会はモダンメキシカン カボスで

これからもやることは同じで、読んで、訳すのみ。

「もっと読みたい」「こんな作品があったんだ」と言ってもらえるような本を手がけていけたらいいなと思っています。

ネッテルの次作もあるし、アルマダもあるし、メルチョールもあるし、楽しみなYAもあるし、精進していきます。

2021年12月31日金曜日

2021年のしめくくりに



12月30日 不忍池にて

 昔、ピアノを習っていたころ、何度練習しても弾けなかったパッセージが、ふっと弾けるようになる瞬間がありました。先生に言われるようにしているつもりなのに弾けず、こんなに練習しているのにと投げ出したくなっていたのが、いきなり、ふっとできるようになる。
 ものごとは、スロープではなく階段状にできるようになると実感したものでした

 30代の終わりに留学したときも、留学して1年半をすぎたくらいのときに、自分が前よりも読めたり話せたり聞いたりできるようになっていると、ハッと気づかされた瞬間がありました。その後、2年の予定だった留学を半年だけ延長したのですが、逆にいうと、その瞬間までは、自分の非力に泣きたくなることの連続(でも、意地でもつらいとは言えなかった・・・)の日々でした。

 そして今年は、もしかしたら一段、階段をのぼれたのだろうかと思える年でした。
 昨年の12月28日、見直した訳稿を編集の原島さんに渡したものの、どうなるかわからなかったグアダルーペ・ネッテルの『赤い魚の夫婦』が8月に現代書館から刊行になり、多くの方に読んでいただけ、とりあげていただけました。

 趣味ではなくプロフェッショナルとして、ずっと翻訳をしていけるようになりたいと思いながら、気づくと30年余りたち、会社勤めの同級生のあいだで定年とか再任用という言葉をきくようになってようやく、少しだけ目の前がひらけた気がします。昨年は、還暦なのにまだ何もできていないという焦りに苦しみましたが、今はちょっぴり開き直り、気持ちを落ち着けて新しい年を迎えられそうです。

 今年1年お世話になったみなさま、袖ふれあったみなさま、ありがとうございました。
 新しい年がよい年となりますよう願っています。



 今年出版された本たち

2021年12月14日火曜日

誕生日を迎えて

12月7日は誕生日でした。

7日に見にいったOnionさんのモザイク

去年の誕生日のブログに「どうしたらずっと翻訳をしていけるかとばかり考えている」と書きました。今もまったく同じ気持ちです。

でも、今年8月にグアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』(現代書館)が刊行されて、これまでとちょっと違うステージに入った、そんな感じがしています。

幻覚かもしれないけれど、やっとここまで来られたという気持ち。

自分の意地で翻訳にかじりついているだけで、弱気を見せたら、「ならやめれば」と言われるだろうという心もとなさがあるのは、今も変わりませんが、翻訳の同志たちに支えられています。

すごくうれしかったのは、先週末に立ち寄った大型書店2店で、『赤い魚の夫婦』だけでなく、新刊のアナ・マリア・マトゥーテ『小鳥たち マトゥーテ短篇選』(東宣出版)も平積みになっていたこと。『赤い魚の夫婦』をきっかけに、他の訳書を手にとってもらう機会が増えたのなら、それはすごい快挙だなと。

アンドレス・バルバ『きらめく共和国』(東京創元社)や、マルセロ・ビルマヘール『見知らぬ友』(福音館書店)にも手をのばしてもらえますように。どっちもおもしろいよ。ビルマヘールは、大人でも楽しめるという呼び声が高いので(自分で言うか!)。

おもしろいと自分が思った作品を翻訳する機会が少しでも増えるよう願いながら精進します。来年も穏やかに誕生日を迎えられますように。

2年ぶりに家族で誕生日会食。

2021年10月3日日曜日

何かを求めて読まないでください

 NPO法人イスパニカ文化経済交流協会(イスパJP)主催の「オンライン対談 松本健二x宇野和美 今読みたい! スペイン語圏の女性作家たち ーフェミニズム? マジックリアリズム? それとも……?」が終わりました。




時間が許せばまだまだ話せそうでしたが、PCやタブレットの画面を見ながらだと(見なくてもいいのですが・・・)2時間が限界でしょうか。ぎっしり詰まった内容になりました。

ご視聴いただいたみなさま、ありがとうございました。

タイトルに「フェミニズム? マジックリアリズム? それとも……?」という文章を添えたのは、私としては、ラテンアメリカ文学というと作品にマジックリアリズム的なものを探し、女性の作家というとフェミニズム的なものを探してしまいがちだけど、ほんとうにそうなの? という気持ちからでした。
むしろ、そういう定義に縛られないで、作品を楽しんで、何かを感じてはどうかと。

なので、イベントの中で松本さんが冗談まじりに言った「何かを求めて読まないでください」という一言は、まさに至言。
文学は、予測や期待を持って読むよりは、まっさらな気持ちで作品に向き合うほうが楽しめ、自分のものになる。
原書を読むときも、できるだけ心を真っ白にして、聞こえてくる声、自分が感じることを大切にします。
そういうことかなと。
イベントの中で、読んでみよう、読んでみたいと思う作家や作品に出会っていただけたなら、とてもうれしいです。

今回のイベント、1つだけ私がこだわったのは、リアルに対談することでした。
去年から、オンラインイベントは参加者としても主催者側としても多数経験してきました。最近、書店で開催されるイベントにいくつか会場で参加してみて、今回に関しては、パソコンの前でずっと前を向いてドアップの顔を並べて話すより、できるだけリアルに近い形でやりたいなと思いました。

当日は、Hagi Studio が運営するKLASS というスペースから、ウェブカメラとマイクで映像と音をとりこんで配信しました。
「本屋さん?」「どこ?」と、あとで人から聞かれましたが、現場は上の写真のような感じでした。後ろに並んでいるのは、建築関係の本です。
実は、うちうちで声をかけた方数名に、会場で聞いていただきました。なごんだ雰囲気があり、ときどきバックに笑い声が入る臨場感があったのは、そんなわけです。

とりあげた本は、松本さんのブログも見ながら、自然と決まってきました。もっと付け加えられるかなと、ここ2ヶ月、ずっと原書ととっくみあってきたのですが、気になっているけれど読めなかった作品もたくさんありました。その中にまたおもしろい本があるといいなあと思っています。

イベントは、10月10日までアーカイブ視聴の受付をしていますので、よろしければお聞きください。お申し込みはこちらからどうぞ。




2021年7月14日水曜日

7月14日・・・

 


27年前の7月14日は朝からからりと晴れて、夏らしい日差しがぎらぎらしていました。覚えているのは、その日、末っ子が生まれたから。
へその緒が首に巻きついて出てきて、すぐには産声をあげなかったけれど、助産師の野本寿美子さんがおでこに水をぴしゃっとかけたら泣きはじめたのでした。

誕生日くらい祝いたくて、「プレゼントに欲しいものある?」とラインしたら、何日かしてリクエストしてきたのはオーブンレンジ! 
就職してから、しばらくシェアハウスにいたけれど、1年少し前から一人暮らしを始めて、今はいろいろ作っているらしい。予算オーバーだけど、料理をつくる男になったらうれしいので奮発しました。
何ができるか、興味しんしん。

今日の午後1回目のワクチン接種をしたこともあって、夜は自分でご飯を作るのがめんどうになって、近所のイタリアンへ。次男の誕生日だしと、勝手な言い訳で禁を破って食べた黒こしょうのジェラートが絶品でした!

おめでとうを言えるのは幸せなことだなあ。



2021年7月7日水曜日

ひとり桃

 


今年初めて桃を買いました。

家族5人で暮らしていたころ、桃は、そんなにいつもいつも買う果物ではなかったので、桃をむくと、桃が好きなつれあいと次男の2人に切り分けて、私には種しか残りませんでした。
種をしゃぶって、「今日のはあたりだった」とか「はずれだった」とか。
だからといって、悔しいわけではなくて、2人がおいしそうに食べれば、それで気がすんでいたのでした。

だから、今朝のように、まるまる1個の桃を一人で食べると、すごくぜいたくをしているような気持ちになり、「一人だなあ」としみじみ思います。

桃といえば、今でも忘れないのは、桃売りトラック事件。
住んでいたマンションのちょっと先の角に、ときどき「桃7つ500円」といって軽トラックが売りにきました。
あやしいし、なんだか恥ずかしくて、私は買いたくなかったのですが、桃好きの次男が「ねえ、買ってみようよ」としきりに言うので、「じゃあ、あなた行ってきなさい」と、とうとう500円持たせて送り出したのでした。
ところが、次男はしょんぼり手ぶらで帰宅。
「どうしたの?」とたずねたら、「梨になってた」
うちじゅうで、お腹をかかえて笑いました。
果物を売っているトラックを見かけると、今でも思い出して笑ってしまいます。
次男が中学生の頃だったかな。
彼はもう忘れてしまっただろうけれど。

子どものころ、私も桃が大好物だったようです。大人になってから、夏に実家を訪ねると、「桃太郎さんに桃を買ってあるからね」と言って、母が桃を買って待っていてくれました。
「やめてよ、お母さん」と、いつもすげなくしていたけれど、喜んでくれるときに食べたらよかったな。今日みたいに。

今日は、初めて紫蘇シロップというのをつくりました。
炭酸水でわったら爽やか。香りがとばないうちに楽しもう。


2021年5月22日土曜日

ブクアパラウンジ こぼれ話(1)

 5月15日に西日暮里BOOKAPARTMENT 主催の「ブクアパラウンジ -vol.07-」 に呼んでいただき、ミランフ洋書店の話をしてきました。そのときのYouTubeはこちらです。


 でも、「ミランフ洋書店を開店したいきさつも話します」とツイッターで予告していたのに、店名の由来くらいしか話せなかったので、ここで補足することにしました。

 ほとんどのことを説明した、2011年9月に書いた文章がありましたので転載します。ただ、この記事でも「10年以上前から私は縁あってそこで本を購入」と、はしょって書いた部分をまずは説明します。時は1994年までさかのぼります。

 当時スペイン語の本は、都内の専門書店で高いお金を出して買うことしかできませんでした。そんなある日、都内のスペイン語書店のパンフレット置き場で、スペインの書籍輸出会社のパンフレットを見つけました。
「直接買えるなら、願ったりかなったりじゃない!」と思った私は、1994年にマドリードに旅行した際、その輸出会社をたずね、本を売ってほしいと頼んだのでした。
 その会社は、本来書店や語学学校にしかおろしていない会社だったのですが、せっかくきたからと売ってくれることになり、その後、その会社から郵送で送られてくるカタログを見てファックスで注文書を送り、本を買うようになりました。

 そして、それから10年近くたった2003年、その会社の人が東京国際ブックフェアに来ることになりました。ミーティングを申し込まれて会ったとき、私は日頃から不思議に思っていたことをたずねてみました。それは、その会社が送ってくれるパンフレットには、本ごとに割引率が書いてあるのに、私が買うときにはなぜ割引をしてくれないのかということでした。

 すると、「割引は書店の場合だけ。あなたは書店ではないから割引をしていない」と説明されました。けれども、それで終わらないのがおもしろいところです。続けて、こう言われたのです。「でも、せっかくミーティングしたから、これから一律10%だけ値引きしよう」と。そこで、晴れて10%引きでの取引が始まりました。

 その2年後の2005年の出来事が、下記の記事に書いたものです。バカじゃなかろうか、と思うのですが、そんなこんなで、今のミランフ洋書店があります。人生はわからないものです。


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ミランフ洋書店 ただいま開店中


販売はしてないの

 スペイン語の子どもの本専門のネット書店、ミランフ洋書店を開店したのは4年前の2007年の秋こと。「店舗はどこに?」と問われれば「押入れ」と答えるこの書店、翻訳に携わっているはずの私がなぜ、とよく聞かれますが、直接のきっかけとなったのは、開店の2年前、東京国際ブックフェアでのスペインの書籍輸出会社とのやりとりでした。

 その年、いつも利用している書籍輸出会社の担当者が来日し、アポイントメントを申し込まれました。通常は書店や学校にしか輸出していない会社ですが、10年以上前から私は縁あってそこで本を購入していました。もともと個人だが特別に、という細々とした取引だったので、会ったら「書店ではないので、今後は売れない」と言われやしないかと邪推し、ヒヤヒヤしている私に担当者はたずねました。「販売はしてないの?」通信添削講座で使う本のまとめ購入はしていたので、「売っていないこともない」と言葉をにごすと、返ってきたのが「じゃあ、今度から書店値引きをするわね」という答え。
 汗がふきだしました。積極的に売っているわけではなかったので。ですが、それからしばらくたったある日、ふいに「なら、書店を作ってしまおうか」とひらめきました。インターネットならコストもしれているし、おもしろそうだと思ったのです。

準備期間は2年間

 といっても、ホームページも作ったことのない自分に、はたしてできるのか。すべては未知数でしたが、2年間可能性をさぐったうえで判断しよう、と決めました。
 まず、問題はショップページづくりです。ネットショップ経営の本を読み、市の産業振興センターの無料起業相談に足を運び、ぺージのイメージを固め、ウェブデザインの会社に見積もりを頼みました。しかし、デザイン料は予想以上に高く、維持管理も難しそうで、これは断念。ところが、今の世の中、探せばあるものです。ネットショップ用のパソコンソフトがあるのを知り、見てみると、ショップページのデザインから、買い物かご、受注管理、商品管理まで、素人でも扱いやすくできています。これでいこう、と決めました。
 お次は、肝心のショップ名。しかし、響きのよいスペイン語の単語はどれも、何かに使われていました。半年くらい悩んだときでしょうか、カルメン・マルティン=ガイテの小説『マンハッタンの赤ずきんちゃん』の中でmiranfúという語を見つけました。「いつもと違う、何かびっくりすることが起こる」という意味のおまじない。「ミランフ」ならGoogle検索しても何も出てきません。意味も私の思いにぴったりで、うれしくなりました。
店名が決まると、書店開店計画が一気に現実味をおびてきて、売る本を仕入れはじめました。同時に、知人の装丁家にロゴの作成を頼みました。自分でレイアウトするショップが素人くさくなるのは必至ですが、ロゴがあればイメージアップをはかれると思ったからです。これは大正解。美しいロゴに導かれ、予定どおりの2年で開店にこぎつけました。
 

ショップからの広がり

 扱う本は基本的に子どもの本で、ぜいたく品にならず、手ごろな価格で買えるものという方針で、既存のスペイン語書店と競うつもりはありませんでした。まさにニッチビジネスです。もうかればうれしいけれど、忙しくなりすぎて翻訳の仕事にさしつかえると困るので、トントンならOK、でも、扱う本はホンモノを、という気楽な出発でした。
しかし、物事というのは、始めてみると思いがけない広がりをみせるものです。その一つが「日本ラテンアメリカ子どもと本の会」の活動です。私が最初に想定していた顧客はスペイン語学習者でしたが、あるとき小学校から注文が入りました。中南米の日系人の子どもたちが大勢通っている学校でした。これをきっかけに、日系人の問題に関心を持つようになり、いろいろあって、会の設立に至りました。手弁当の活動ですが、1222日、23日には、ラテンアメリカの児童書展を横浜市鶴見区で開催します。
 二つ目は品ぞろえです。当初は手間を考えて、スペインからだけ本を仕入れる予定でしたが、だんだんと品ぞろえに欲が出てきて、他国―ベネズエラ、アルゼンチン―の出版社から直接本を買うようになりました。今もコロンビアの出版社と交渉中で、次はメキシコやブラジルの児童書も扱おうかと考えはじめています。また昨年、私自身が愛用しているMaría Molinerの電子版辞書のセール企画して好評だったのはうれしい経験でした。
 翻訳が忙しいとあまり力を入れられないときもありますが、この書店自体、翻訳同様、私の表現そのものになってきています。書店という場があるからこその広がりを楽しみながら、これからも細く長く続けていきますので、何かの折にどうぞのぞいてみてください。

2021年1月21日木曜日

海の向こうに本を届ける

  


 初めての訳書が出たあと、しばらく著作権のエージェントで働いていたことがあります。もっと翻訳をがんばろうと、辞書の原稿整理や校正の仕事をやめたものの、翻訳の仕事はなく、元手も尽き、どこかで働けたらと門を叩いたのが、日本著作権輸出センターでした。

 一度は断られましたが、その後、声をかけてもらって入社テストを受け、週3日のパートで、社長の栗田明子さんのアシスタントをさせてもらえることになりました。1997年の秋、長男が小学2年生、長女が保育園の4歳児、次男が2歳児のときでした。その後、1999年に留学のために退社し、もうご縁がないかと思っていたら、帰国後、また声をかけてもらって2年弱、全部で4年くらい、働いた計算になります。

 株式会社日本著作権輸出センター、JFCは、日本の作家の著作権を海外に売ることを専門にしている著作権エージェントです。当時、現社長の吉田さんは児童書を、文芸書は栗田さんが担当し、毎年フランクフルトブックフェアで売りこみをしていました。アシスタントとして何をしていたかというと、契約が成立したとき、日本語や英語で契約書で起こしたり、英語の契約書の訳文を作ったり、出版社や著者に契約書にサインをお願いしたり、こんな条件でオファーがあるがどうかという手紙の下書きを書いたり、といったことです。

 それはもう楽しい毎日でした。というのも、それまでの数年、育児中心でほとんど家を出ることができず、文化的な刺激に飢えていたからです。5時に退社すると、決まった電車に遅れまいと、いつも小走りで保育園の迎えに向かい、帰れば子どもたちの食事やお風呂や翌日の準備で毎日が闘いでしたが、最近話題の本のこと、出版社のこと、作家のことなど、会社で触れる何もかもが新鮮でうれしかったものです。あ、それが本題ではありませんでした・・・。

 書こうと思っていたのは、栗田さんことです。栗田さんは、日本の作家の版権を海外に売る、まさにパイオニアでした。栗田さんが書いた『海の向こうに本を届ける 著作権輸出への道』(晶文社、2011)という本は、まさに武勇伝。読むと、びっくりすることうけあいです。著作権の仲介という仕事にどうやって出会い、どんな仕事をし、どんな作家を売り込んできたのかが、歯切れのよい文章で綴られています。若い頃の栗田さんの思い切りのよさ、粘り強さ、機転や創意工夫の精神は驚くばかり。そしてなんと正直でチャーミングなことか。

 どうしたらいいのか、きっとわからないことだらけの仕事だったでしょうに、栗田さんは、それならどうすればいいのだろうと、自分で考え、体当たりで道を切り拓いていくんですね。だからこそ、ちょっとやそっとのことでは負けない。それが、ほんとうにすごいんです。

 この本の184ページには、小川洋子さんの作品をアメリカに売り込んだときの話が出ています。ちょうど私がアシスタントをしていた頃のことで、ピカドールという出版社の編集者さんと一緒に、私もお蕎麦屋さんに連れていってもらいました。また、314ページからは、柳美里さんの『ゴールドラッシュ』のこと、柳さんに引き合わせてもらって初めて会ったときのことが書かれています。「今度サイン会で、柳さんにお会いする」と栗田さんが話していたのを、今も覚えています。とても嬉しかったに違いないのに、そういうときも決してはしゃがず、むしろ興奮を抑えたような口調で話していたように記憶しています。

 昨年、小川洋子さんの『密やかな結晶』がブッカー賞候補になり、柳美里さんの『JR上野駅公園口』が全米図書賞を受賞したというニュースを見て、栗田さんのことを思い出していました。日本の女性作家の作品の海外での躍進が語られますが、栗田さんの業績はその礎になっているはずだと。

 翻訳者として出版社に作品を売り込むとき、やりたい作品は何があってもへこまず、トライし続けるというのは、栗田さんから学んだことかもしれません。本が海を越えるのは、簡単なことではなく、時には5年、10年とかかりますが、諦めなければ、どこかで縁がつながることもあるものだと。