2017年8月27日日曜日

リニエルス『エンリケタ、えほんをつくる』刊行!


『エンリケタ、えほんをつくる』
リニエルス作
宇野和美訳
ほるぷ出版

「ラ・ナシオン」紙に2002年から連載されている『マカヌド』(Macanudo) は、アルゼンチンでは知らない人のいないコマまんがです。この『マカヌド』の作者リニエルスの絵本が日本に上陸しました!

主人公のエンリケタは、『マカヌド』にも登場する、本を読むのが大好きな、想像力豊かな女の子。色鉛筆のセットをもらったエンリケタはいろえんぴつのセットって、にじのかけらみたいだね」といって、絵本をかきはじめます。どんな絵本ができるのでしょうか……

楽しくかわいい本になりました!

何よりも注目は、絵とぴったり合った描き文字です。
エンリケタが描いた絵本の部分は原作でもみな、鉛筆がきの描き文字なので、日本語でも描き文字でデザインしていただきました。子どもっぽいけれど、可読性がある描き文字なぞできるのかしらと心配しましたが、編集者さんとデザイナーさんが、原作のイメージどおりにしあげてくれました。

実は、ここはテキストもがんばりどころでした。文字部分は、手描きか、まんがの吹き出しかのどちらかなので、すべてひらがなにしなければならなかったからです。
漢字を使っている文章をそのままひらいただけでは、読める文にならないので、ひらがなだけでも読みづらくなく頭に入り、ひびきのよいテキストになるように、ああでもない、こうでもないと、頭をひねりました。
デザイナーさんが描き文字を入れてくださってからも、文字づらからやっぱり変えたくなったり、スペースの関係で文字数を調整しなければならなくなったり、大幅な手直しも入ってしまいましたが、編集者さんが「校正が終わるまでは、いいですよ」とドーンと構えていてくれて、とてもありがたかったです。変えてよくなった、前のほうがわかりやすいのではなど、修正についてはっきり言ってもらえたのも助かりました。

「エンリケタ」は少々なじみのない名前ですが、原題から離れないでほしいというリニエルスの要望があり、タイトルはこうなりました。日本でもエンリケタがかわいがられるようになるといいなと思っています。スペイン語圏では、大人気のキャラクターです。

絵本をつくりながら、エンリケタが、

いいおはなしでは いつでも「ふいに」なにかがおこるんだ
おはなしには ひらめきが かんじんなの

など、本好きらしいコメントをするのも、おもしろいところです。
こういう部分は、小学生も楽しめそうです。絵本だけでなく、幼年童話の棚にも置いてもらえるといいな。

英語版は、2016年のバッチェルダー賞のオナーにも選ばれています。

リニエルスのブログはこちら。http://www.porliniers.com/
エンリケタEnriquetaの顔のリンクを開いてみてください。エンリケタが登場する、『マカヌド』のコママンガが見られます。本を持っているのが多いでしょう? ネコのフェリーニと、テディベアのマダリアーガは、『えほんをつくる』にも出てきます。
Todas las tiras を開くと、テーマごとの検索もできます。「愛」「イマジネーション」「読書/教育」「映画」「環境」……というテーマを見るだけでも、『マカヌド』を読んでみたくなるのでは? 
『マカヌド』の全編を読みたい方、どこかの出版社に訳してくださいのコールを!

「ぱんつ 当たるの!?」
9月30日まで、刊行記念のプレゼント企画があります。
応募して、アルゼンチンのファッションブランド、ホォアナ・デ・アルコのグッズをあててください。ホォアナ・デ・アルコのデザイナー、マリアナとリニエルスは大親友だそうです。
www.juanadearco.jp

2017年8月25日金曜日

記憶の底の風景


 20日に北九州で開催されたセミナーに出席したあと、大分に寄ってきました。目的は宇佐市を訪れること。終戦後、朝鮮から引き揚げてきた両親が出会った場所です。

 このところ父の思考力は衰える一方。毎年、終戦記念日の頃になると、引き揚げのときの思い出話をしていたのに、今年は今が何月かもわからず、今日は終戦記念日だよ、と声をかけても無反応でした。母が「もう何度聞いたか」と嫌味を言っていた、以前、父のその思い出話をまとめたブログを再録します。
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父の終戦

韓国の釜山で終戦を迎えた、当時13歳だった父の思い出話。

終戦の年の春、親父が急に亡くなってね、「まだ若いのに情けない。自分とかわってやれればよかったのに」と嘆いていたじいさんが、それからいくらもしないで死んでしまった。

学校の校庭で玉音放送を聴いたとき、何を言われているのか、さっぱりわからなかった。でもすぐに、「明日から学校はない。内地に帰ったらこの書類を渡しなさい」と、学校から書類を渡されて学校は解散になった。

まもなく、近所の人が「軍属の乗る船があるが、よかったら乗せてやろう」とうちに来た。するとおふくろは、「この子と娘をのせてください。私は残ります」と言ったんだよ。びっくりしたよ。当時姉は16歳。帰ると言ったって、2年前に1度行ったことしかない、大分の親父のいとこの家が頼りだよ。行って面倒を見てくれるかもわからないのに、2人で帰れっていうんだから。一番上の兄貴が、兵隊で満州に行っていたから、おふくろはその連絡を待つというんだ。

船はもともと博多に着く予定だったが、途中で船体がいたんで志賀島に漂着した。だれかが綱をひいてつなぎとめてくれて、はしけで上陸した。翌日見たら、沖合にあるはずの船がばらばらになっていたから、間一髪だったんだな。

志賀島から、姉はおやじのいとこに迎えに来てくれるように手紙を書いた。すると、いとこの家の人と、思いがけず五高に行っていた2番目の兄貴が迎えにきてくれた。兄貴は、勤労奉仕で長崎にいるとき被爆したが、休みになったのでちょうど大分に行っていたらしい。それで、無事に親父のいとこの家についた。

あとできくと、8月になっておふくろは五高の兄になぜか200円を送金していたらしい。初任給が50円、60円の時代だから相当な金額なんだ。なぜおふくろが金を送ったのか、わからないが、おかげでいとこの家で面倒をみてもらえた。でも、居心地は悪かった。田舎で、中学に行っている子どもなんかまわりにいないのに、居候のくせに中学に行かせてもらうんだから。

9月に入って、姉が疫痢になった。死ぬ何日か前だったか、出されたおかゆを姉が食べないので食べたら、おばさんにえらい怒られてね。こっちはひもじくて仕方なかったのだけれど、ひどく後味が悪かった。

姉が死ぬ前日の夜、突然おふくろが帰ってきた。「お世話になりました」と言って、玄関で頭をさげると、リュックの肩ひもをざっと切って、中からたたんだお札を何枚も出して居候先のおばさんに渡した。釜山じゃ日本のお札はなかなか手に入らなかったのに、どうやってそんなに集めたのかわからないけど、途中でとられないように肩ひもに縫いこんで持ってかえったんだよ。おばさんも、「そんなことしなくていいのに」って、涙を流していたよ。

その翌日、姉が死んだ。学校の帰り道、近所の人に「姉さん死んだぞ、すぐ帰れ」と呼びかけられて、わけがわからず走って帰った。悲しかったなあ。半年の間に、3人も逝ってしまった。
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 両親がどのあたりに住んでいたか知りませんが、宇佐高校で知り合ったということ、宇佐八幡が近所だったことはよく聞いていたので、一度行きたいと思っていました。
 JRの宇佐駅から宇佐八幡までは4キロくらい。レンタサイクルを借りようと考えていましたが、雨になるかもと言われて、結局1時間に1本しかないバスで行きました。
 
 バス停で降りて、参道を歩き、蓮の池を通りすぎると、やがて鳥居。
 

石段をのぼって上宮へ。母のために、申年のお守りの根付を買い求めました。



 下宮もちゃんとまいってから、いよいよ、宇佐八幡から数百メートルのところにある宇佐高校へ。校門には、70年前の面影はまったくなさそうでした。


 建物は変わっても山は変わらないだろうと、幹線道路から学校にのぼる坂の途中から、遠くの山を撮りました。母に見せても、「はぁ?」という反応でしたが。


  町や村ではなく市なので、両親の思い出話からも、もう少し町っぽい場所を想像していたのですが、少なくともJRの駅と宇佐八幡の間は、こんな風景ばかり。


 引き揚げ体験という共通項をもっていた二人がひかれあうようになったのは、いつのことなのか。宇佐か、そのあと東京でか。
 記憶の底に沈んで、もう心をかき乱すこともない悲しみや初恋のときめきを思いながら、駅まで歩いてもどり、景色を胸に刻みつけました。

2017年8月15日火曜日

栗祭りカスタニャーダ

バルセロナの日々(19)


 十月の半ばを過ぎたころ、私たちのアパートのすぐ前にあるケーキ屋さんに秋が来た。ショーウィンドーに木の葉や松ぼっくりが飾られ、松の実をあしらったお菓子が並んでいる。気づくと、ずっと半袖Tシャツで過ごしていた地元の子どもたちが、長袖を着るようになっていた。

 そんなある日、タイシとアキコが、学校からお便りをもらってきた。
「今年もカスタニャーダをします。アーモンドの粉百グラムと松の実五十グラムを持たせてください」
 カスタニャーダってなんだろう? アーモンドや松の実を何に使うんだろう?
 クラスメイトのおかあさんに聞いてみると、パナイェッツの材料だと言う。十一月一日の諸聖人の日につきもののお菓子らしい。
 うわー、楽しみー! 
 保育園では秋になると子どもたちが芋掘りに行き、園庭で焼き芋をしたものだった。カタルーニャでは、パナイェッツというわけか。幼児や低学年の子どもたちの園生活、学校生活が、季節にちなんだ行事で彩られるのは、どこも同じなんだなあと思った。
 ハルちゃんに話すと、カタルーニャでは諸聖人の日Dia de tots sants(「とっつぁんの日」と聞こえると、ハルちゃんはおもしろがった)に、カスタニャーダcastanyadaという栗のお祭りをするのだと教えてくれた。このお祭りに欠かせないのが、焼き栗やパナイェッツ、それからモスカテルという甘いデザートワインに焼いたサツマイモだ。アパート前のケーキ屋さんに並んでいた、松の実の「かのこ」のような焼き菓子が、そのパナイェッツだった。

 スペインのドライフルーツは多彩だ。市場に行くと、日本でもおなじみのレーズンやピーナッツ、干しプラム、干しアンズからナッツ類まで、何十種類とならんでいる。
 スペインらしいのは、ひまわりの種pipasとコーンkikos(うちのまわりの子どもたちはこう呼んでいたが、帰国してから話していたら、そこにいたスペイン人にそんな語は聞いたことがないと言われた。いつもひく西西辞典でひいてみたところ、商標名としてちゃんと「炒ったトウモロコシの実」という語釈があった)。コーンは、普通のとうもろこしをミックスナッツのジャイアントコーンのように加工したものだ。この二つは駄菓子の王様で、パン屋やキオスクで、二十ペセタくらいの小袋になったのもよく売っている。広場のベンチのまわりには、たいていこのひまわりの種の殻が散らばっている。
 アーモンドやヘーゼルナッツは、煎ったものと生のものがあって、つまみにもいいし、カタルーニャ料理ではソースの食材として多用される。クルミは、カリフォルニア産よりも小粒で黒っぽい、見た目は貧相なスペイン産のほうが味があり、値段も高い。
 私のいちばんのお気に入りは、干しいちじくと干しなつめやし。いちじくは、スペイン産のとトルコ産のがある。スペイン産のは、暗紫色の実のまわりに白っぽく粉をふいていて、中はむっちりねっちょりし、ほんのり甘く滋味がある。くるみといっしょに食べると、いっそう味がひきたつ。夜、口寂しいとき、一つ二つつまむのにちょうどよかった。
 なつめやしは、干し柿の赤ちゃんみたい。まわりがテラテラ光っているのと、ナトゥラルと呼ばれる自然のままのものがあって、やはり自然の甘さが心地よい。バレンシアやエルチェあたりに行くと、ヤシの木の下にぼとぼと落ちているらしい。
 それからマラガ産干しブドウ。近頃日本でもカリフォルニア産で見かけるようになった、種入りの少し大粒の干しブドウだ。種ごとゴリゴリとかみ砕いて食べつけると、やみつきになる。
 セラパレーラ市場にあるドライフルーツの量り売りの店で、私は、アーモンドの粉と松の実を買いこんだ。

 十一月一日は祝日なので、その前日、アキコとタイシは、松の実がかの子状についた少しいびつなパナリェッツが六つずつのった紙皿をささげもって、ニコニコ顔で学校から出てきた。タイシのには、包んだセロハンに、自分の名前を書いた栗の形のカードがはりつけてある。
 フアニ先生に言われたとおり、十分くらいオーブンで焼くと、香ばしい匂いが家じゅうに広がった。日本にいるときはよくケーキやらクッキーやら子どもたちに作っていたのに、スペインに着いてからは初めての手作りお菓子だった。なれないオーブンの焼きぐせを確かめながら、たまには好きなお菓子でも作ってやりたいなあと思いながら、焼きあがったパナイェッツをかじってみる。
 松の実独特のすっぱいような風味が、アーモンドを使った中だねの甘みと混じりあって、口いっぱいに広がる。ナッツ類が苦手なケンシとアキコはあまり好まなかったが、タイシは気に入ったようで、次々口にほうりこんだ。
「とっつぁん」の日、ハルちゃんと近所の酒屋でモスカテルを買い、ちびちびとなめた。こうして季節ごとに、スペインの、カタルーニャの新しい味を一つ一つ体でおぼえていくんだなあ、と一人感動しつつ、秋の夜はふけていった。