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2023年7月4日火曜日

『かげふみ』記憶を伝え警鐘を鳴らす

 朽木祥さんの新作『かげふみ』(光村図書)に、『見知らぬ友』が出てきますよ! と編集者さんが知らせてくれたのは6月中旬のことでした。


 時間がかかってしまいましたが、本をとりよせて、ようやく読むことができました。

 朽木さんは、『八月の光』『光のうつしえ』『パンに書かれた言葉』『彼岸花はきつねのかんざし』など、多くの作品でさまざまな形で広島を描き、記憶を伝え、警鐘を鳴らし続けている作家です。

『かげふみ』は、夏休みに広島に住むおばあちゃんのところで過ごすことになった小学5年生の拓海が、児童館の図書室で見かけた女の子「澄ちゃん」をめぐって物語が展開します。児童館で仲良くなった地元の子たちと遊ぶうちに、拓海はこれまで考えたことのなかった、広島のあの夏の出来事と向きあっていくのです。

「おはぎが およめに いくときは……」という歌や広島の方言を織りまぜた文章がみごと。遊びから広がっていくところも好きだな。拓海が石けりをする澄ちゃんを見送った場面は、いつまでも余韻が残りました。

 拙訳のマルセロ・ビルマヘール著『見知らぬ友』(福音館書店)は、拓海が初めて児童館の図書室に行った日、「タイトルと表紙が気に入った本を、カウンターに持っていった。『見知らぬ友』という外国の物語だ。」(p.15)として登場します。

 先日、どこかの図書館のtwitterの新着本写真に『見知らぬ友』が並んでいたのは、この本のおかげかも。物語のなかで物語が生かされる、これほど光栄でうれしいことはありません。

 朽木さん、どうもありがとうございます。

2020年9月6日日曜日

『アコーディオン弾きの息子』


『アコーディオン弾きの息子』
ベルナルド・アチャガ著
金子奈美訳
新潮社、2020 

「書いてくれて and 翻訳してくれて and 出版してくれてありがとう!」と心から思った。「おもしろかった」「読んでよかった」といった言葉では、とても言い尽くせない。圧巻だった。

 たてこんでいた仕事がようやく片付いて読み始めたら、途中でやめたくなくて、仕方なく翌日においておくと、また物語の世界に戻りたくてたまらなくなり、貪るように続きを読み、というふうにして、550ページを一気に読んだ。
 備忘のため、読みながら思ったことを書いておきたい。

 スペインの作家エルビラ・リンドが来日したとき、「英語圏の作品なら、片田舎が舞台の作品も海外に紹介され歓迎されるのに、スペインの現代文学は、舞台がマドリードでも、そんなローカルな話と片付けられる」と嘆くのを耳にした。
「読者になじみがないからねー」と言って持ち込みがボツになった無数の経験から僻み根性がしみついている我が身には、リンドの言葉は痛切だった。
 けれども、この作品を読んで、ローカルはユニバーサルなのだと、改めて思った。中途半端ではなく、とことん一箇所をつきつめたとき、そこに普遍が見えてくる
よい作品はそんな二分法など飛び越えてしまうのだと。

 主人公ダビは、父親アンヘルが内戦時代に村人殺しに関係していたことを知り、父親を受け入れがたくなっていく。
 この背景にある沈黙は、この時代のスペイン社会を象徴するものだ。反政府勢力に対する厳しい取り締まりが行われていた独裁時代、人びとは声をひそめて暮らしていた。自分が政治的にどちらの側なのか、だれも口に出して言うことはなかったが、日頃の人づきあいや暮らしぶりから互いに察しあい、普段はそこに立ち入ろうとしなかった。私が翻訳したYA文学『フォスターさんの郵便配達』(エリアセル・カンシーノ著 偕成社)も『ティナの明日』(アントニオ・マルティネス=メンチェン著 あすなろ書房)も、この「沈黙」の中で、大人たちが語りたがらない真実を見つけていく若者たちが描かれている。この時代の空気は、日本の戦前に一番近い気がする。
 なので、式典でアコーディオンを弾こうとしているダビに向かって、穏やかな伯父のフアンが発する「例の式典でスペイン国歌を演奏したら、お前も同じ目に遭うぞ。一生の汚名を着せられることになる、そのことを忘れるな!」(p.247)というせりふは衝撃的だった。オババで最初のアメリカ帰りの男をかくまった寡黙な伯父の言葉の凄み。
 スペイン国歌に今、歌詞がないことの意味を考えさせられる。

 それにしても、バスク語は、なんと謎めいた言葉だろう。カタルーニャ語やガリシア語はスペイン語と違う言語とはいえ、ラテン系なので、スペイン語話者なら、字面からある程度内容を知ることができる。けれど、バスク語はまったく想像がつかない。そのことが、カタルーニャとは違う深い陰影を形づくっているようだ。
 長年つきあいがある1961年生まれのバスク児童文学研究者に、児童文学を研究するようになったきっかけを何気なくたずねたとき、「自分は中学生くらいまで親にバスク語で声をかけられてもスペイン語で答えるような子どもだったが、高校生のときに自分たちの財産であるバスク語をどうして大切にしないのかという講演を聞いて、改めてバスク語を勉強し、そこからバスクの児童文学にたどりついた」と言われた。今になって、その言葉の意味を思う。

 訳者あとがきに「オババの村は、アチャガにとって、独自の語彙や論理、世界観を備えた一つの宇宙」(p.568)とある。《第一の目》《第二の目》で描かれる二つの世界をアイデンティティとすることはどういうことだったのか。父に手ほどきされたアコーディオンの重み。洋裁をするダビの母の姿。昨年訪れたバスク地方の緑豊かな風景、ドノスティア(サン・セバスティアン)やビトリアで会った知人たちから滲みでていた郷土愛を思い出しながら、さまざまなイメージを反芻している。
 深刻なばかりだけではなくて、景色や自然、望みや無謀さや屈託や悲しみなど微妙な感情が仄見える若者たちの会話、アメリカで再会した晩年のダビとヨシェバの冗談めかしたからみあいなど、ほんとうに豊かだった。

 私がスペインの児童文学を読み始めた1990年代、アチャガは児童文学でもバスクを代表する作家だった。Memorias de una vaca (ある牛の回想)は、スペイン内戦をYA小説でこんなふうに語るのかと驚かされた作品だった。そこで、代表作と言われている『オババコアック』をスペイン語で手にとったけれども、その時はあの世界を理解しきれなかった。でも、今回、これほど豊かな形でアチャガに出会えて、もう一度読んでみたくなっている。

 蝶とアコーディオンの装画がいい。

2018年7月28日土曜日

『むかし こっぷり』



『むかし こっぷり』
おくやまゆか著
KADOKAWA

 あなたのおはなしを描かせてください
 いつか消えてしまうその前に
(オビ文)
 
 著者自身が、ご両親やおじさん、おばさん、職場の同僚など、周囲の人から聞いた子どものころのエピソードをもとに描いた、10の短編まんがが収録されているコミックです。
 1編をふと開いたらやめられなくなり、一気に読んでしまいました。

 子どもならではの喜び、そして特に悲しみが、どの作品にも息づいていて、自分の記憶の底をゆすぶられるような思いがしました。

「山の一夜のはなし」のなかに、「日中存分に雪山を滑りライスカレーの夕食を済ませた夜七時ごろ」という文章があります。
 近頃はレストランでも「カレー」か「カレーライス」が普通だと思うのですが、うちの母もやはり「ライスカレー」と言います。「ライスカレー」と呼びつづけている母らしさを、なんだかせつないような気持ちでいつも聞いているので、この文章を読んだとき思わず二度見し、著者は、ひとりひとりの語りにほんとうに真摯に心をこめて耳を傾けたのだなと思ったのでした。
 
 浜辺で友だちと遊んでいると、なぜか自分だけに10円玉をくれた学生さんのこと、戦時中、飼っていた鶏の1羽が死んでしまったときに、残った鶏が見せた表情の思い出、善光寺にまいったときに、お戒壇めぐりでおばさんとはぐれたときのことなど、どのお話もとてもいいです。どの作品にも、子どもの気持ちを感じ取る感性と、そこはかとない詩情が感じられます。

 おくやまさんは以前、私が訳した『ふたりは世界一!』(偕成社)の挿絵を担当してくださって以来のおつきあいです。「このお話、とても好きでした」と言ってくださり、すてきな本になりました。
 その後、『IDEAL』(同学社)というスペイン語の教科書をてがけたとき、おくやまさんの絵だったら、大学生が楽しくスペイン語を勉強できそうな気がしてお願いしたら、快くうけてくださいました。ユーモアとちょっと脱力感があって朗らかな絵は、何度見てもあきません。

 おくやまさんの作品をもっともっと読みたいです。教科書のカットなどを描いてもらっている場合じゃありません。
 戦時中の人々の暮らしの一端ものぞけるので、中学、高校の図書館にもおススメです。
 

2018年3月5日月曜日

え、これ出たの! スペインの児童文学2点



最近2作続けて、スペイン児童文学の古典とも言うべき作品が翻訳出版されました。

『灰色の服のおじさん』El hombrecito vestido de gris
フェルナンド・アロンソ著/ウリセス・ウェンセル絵/轟 志津香
小学館

『ゆかいなセリア』Celia, lo que dice
エレーナ・フォルトゥン著/西村 英一郎・西村 よう子訳
彩流社

『灰色の服のおじさん』は、1978年にアルファグアラ社から刊行された、8編のお話からなる短編集です。中の1編を私も2007年に『おおきなポケット』(福音館書店)という雑誌で訳しました。佐々木マキさんの絵がとってもすてきだったので、その後、8編全部を収めて幼年読み物として同社で出せないかと提案しましたが、かないませんでした。

自由や人間らしさを脅かすものへの批判をこめつつ、声高にならず静かに語った物語は、派手さはありませんが、じんわりと胸に迫ります。最初はとっつきにくいかもしれませんが、1編の一部でも朗読すると、子どもも手にとってくれるでしょうか。

文章がとても美しいので、もう10年以上、通信添削の教材として使ってきた作品でもあります。アルファグアラ社の並製版は5、6年前に絶版になりましたが、現在はカランドラカ社の上製本が出ています。教材の本が絶版になっては困ると思って買い込んだので、ミランフ洋書店にはまだアルファグアラ版の在庫があります。復刊はうれしいけれど、作りがりっぱになったぶん値段が高くなるのは最近よくある苦々しい傾向です。

そんなわけで、翻訳出版されたと知ったときは呆然となり、一晩、仕事が手につきませんでした。でも、こういう本が出るのは喜ぶべきことですね。

『ゆかいなセリア』は、1928年から当時大流行した児童雑誌に連載され、スペインの子どもたちをとりこにした古典です。

夫が作家で、マドリードで文壇カフェに通い、文人との交友もあったフォルトゥンは、明るく、機知に富んだ女性で、「そんなにおもしろいことがあるなら、ぜひ本にしなさいよ」と、女友だちから書くことをしきりにすすめられて書き始めたといいます。セリアの物語はシリーズ化し、フォルトゥンが内戦中に亡命した後も続きましたが、フランコ体制のあいだに、作品はすべて抹殺されてしまいました。ようやくアリアンサ社で最初の数冊が復刊されたのは1992年のこと。その新版には、カルメン・マルティン=ガイテの熱いプロローグがついています。

お話は、7歳の女の子の一人称の語りで展開します。雑誌連載がもとになっているため、小さなエピソードが並んでいます。子どもらしいまっすぐな目線で大人の現実のおかしさをとらえるセリアは、無邪気ですが、たくましくしたたかです。子どもらしい発想の行動から思わぬ騒動を巻き起こすセリアに、読者は大笑いしたり、大丈夫かなと気をもんだり、やっぱり叱られたよと思ったり……。そういうところが子どもの共感を呼んだのでしょう。そこには、フォルトゥンの社会を見る確かな目も感じられます。

もともと7、8歳以上の子どもたちが楽しんだ作品なので、日本版は表紙はかわいらしいけれど、本の作りや訳が大人っぽいのがちょっと残念。

読み物の企画を、私もなんとかとりつけたくなりました。がんばろう。

2017年9月6日水曜日

『いっぽんのせんとマヌエル』


『いっぽんのせんとマヌエル』
マリア・ホセ・フェラーダ文
パトリシオ・メナ絵
星野由美訳
偕成社

 先月末に刊行された上記の絵本をかいた、チリ出身の作家と画家が来日し、今日は神保町ブックハウスカフェでイベントがありました。
2017.9.4 神保町ブックハウスカフェで・
左からフェラーダさん、星野さん、メナさん。

 1本のせんを中心にしてマヌエルくんの1日をたどった、こぶりのかわいらしい絵本です。

 この絵本の特徴は、ピクトグラムがついていること。
 そもそものきっかけは、作家のフェラーダさんが、ピクトグラムつきの絵本を読んでいる自閉症のマヌエルくんとお母さんの映像を見たこと。その後、実際に二人と出会い、「せん」にこだわりを持つマヌエルくんのことをみんなが知ってくれると同時に、マヌエルくん自身も楽しめる絵本をつくろうと、この絵本がうまれたとのこと。
 ガリシア地方に滞在していたフェラーダさんと、バルセロナ在住のメナさんが、マヌエルくんとお母さん、カウンセラーさんと学校のほかの子どもたちにも何度も見てもらいながら、苦労しながら仕上げていったそうです。

 今日のお話を聞いてなるほどと思ったのは、学校から帰ってきたマヌエルくんが、「せんの むこうの ママと あくしゅ」する場面。
 なにげなく読んでいましたが、フェラーダさんの説明によると、自閉症の人はほかの人と関係を持ちにくく、感情を表現するのもむずかしい。けれどもここで、家に帰ってきたマヌエルがにこにことママとあくしゅするというのは、自閉症の子どもでも自分からこのように握手することもできることをあらわしている、とても重要な画面だとのこと。
 線があるから、安心して人と関係を持てるということも、原文のpor ella(por la linea線によって) は表しているのかなと改めて思いました。

 スペイン語版にはピクトグラムはついておらず(出版社のホームページからダウンロードできる)、日本語版では、スペイン語版のピクトグラムをもとに、訳文に合わせて独自にピクトグラムをつけていったそうです。
 そのあたりのプロセス、製作の工夫も偕成社の編集者の千葉美香さんが説明してくださいました。日本語の意味に合わせて、画家のメナさんが、新しい図案でつくったものもあります。この絵本は、日本だけのオリジナル版になっているのです。
 テキストの語ること、絵の語ることをそこなわずに、ピクトグラムというもうひとつことばを添えていくという試みは挑戦だったが、たいへん豊かな経験だったとメナさんが語っていました。

 ラテンアメリカ発の、新しいバリアフリー絵本。
 公共図書館はもとより、この絵本そのものを楽しめる保育園、幼稚園、小学校はもちろん、インクルーシブな試みや福祉について学ぶ中学校、高校、大学でも、置いてもらえますように。

 9月8日、9日のイベント情報はこちらで。
 http://www.kaiseisha.co.jp/news/23431

2017年2月11日土曜日

ポール・ジンデル『高校二年の四月に』(講談社) ヤングアダルト文学との出会い

 

 ヤングアダルトという言葉も知らなかった高校1年のとき、高校の図書館にあったこの本を偶然手にとりました。「ああ、もっとこんな本が読みたい!」と思ったのを鮮明に覚えています。
 子どもでもなければ大人でもない、自分と同じくらいの年齢の等身大の主人公たちの心理がこまやかに描かれている本に触れたのは初めてでとても新鮮だったのです。ヤングアダルトとの出会いでした。
 世界文学や日本文学も読んでいましたが、子どもではないけれどまだ大人にはなっていない当時のモヤモヤした自分の胸にピッと突き刺さりました。

 タイトルも読んだこともすっかり忘れていたのですが、何年か前に、あれは何という本だっただろうと思い出しました。「高校2年」「4月」というキーワードのほかに、なぜか「平井イサク」という訳者名を覚えていたのは、当時から翻訳者を意識していたからか。
 ところが再読しようにも地域の図書館にはどこにもなく、あるのは国会図書館だけ。いつか行こうと思いながら数年が過ぎ、一昨日、ようやく読めました。
 ああ、こういう本だったんだと、改めて楽しみました。二人の高校生が、あてずっぽうに電話をかけてなるべく長く会話を続けるという退屈しのぎの遊びでおじいさんと出会い、交流するようになる話です。あたりまえに両親がいるのではない家庭環境や一人住まいの老人が描かれていて、古い部分もありますが1968年に書かれた本とは思えない新しさもあり、米国のヤングアダルトの歴史を感じました。

 10代の読者に、「中高校生ならこれも楽しめるよ」と一般読者対象の文学を勧めることもできますが、背伸びは必要だけど、そんなに急がなくてもいいのになとも思います。
 いいヤングアダルト文学は、いつまでも子どもがいいよねということだけではなくて、大人もきちんと描いて、大人になってこれからも続く人生に踏み出すことをそっと後押ししてくれるものだから。
 10代だからこそ心に残る体験を持てる本がまだまだあるんじゃないかな、そういう本を、もっともっと紹介していきたいなと思うのです。

2016年6月4日土曜日

『ポーランドのボクサー』がおもしろい!




『ポーランドのボクサー』
(書名は出版社HPにリンクしています)
エドゥアルド・ハルフォン著
松本健二訳
白水社刊
2016.5










 グアテマラの新鋭エドゥアルド・ハルフォンの翻訳が出ました!
 昨年、書評で見かけて読んだMonasterio(修道院)が鳥肌ものだったので、普段、話題の本にものりおくれがちな私としてはめずらしく、ぱっと手に入れ、昨日一気に読みました。期待を上回る濃密な読書体験でした。

 ハルフォンがどのような作家かは、その出自と深くかかわっています。その説明部分を、まず後書きから引用します。
 著者エドゥアルド・ハルフォンは、一九七一年にグアテマラのユダヤ系一家に生まれた。本書の表題作でも描かれている母方の祖父はポーランド生まれ、アウシュヴィッツなど強制収容所を生き延び、第二次世界大戦後にグアテマラに移住したアシュケナージ系ユダヤ人だった。それ以外の三人の祖父母はレバノン、シリア、エジプトといった地中海周辺のアラブ世界にルーツをもつセファルディ系ユダヤ人である。ちなみにハルフォンとはレバノンから移住してきた父方の祖父の姓だ。両親はグアテマラ生まれのため、エドゥアルドと本書にも登場する弟と妹はそれぞれスペイン語の名を授かり、家庭でも学校でもスペイン語で育てられたが、幼いころからユダヤ教の習慣はもちろんのこと、祖父母が話していたイディッシュ語やアラビア語、また彼らが持ち込んだ料理をはじめとする東欧やアラブの諸文化にも少なからず触れていたようだ。
 一九八一年、一家は内戦の続く首都グアテマラシティから米国に移住する。当時十歳だったハルフォンはそれ以降英語で教育を受けるようになり、やがてノースカロライナ州立大学工学部に進学、二十二歳になって戦火の落ち着いたグアテマラに帰国したときはすでに母語のスペイン語を忘れかけていたという。(283ページ)

 けれども、ハルフォンは今、スペイン語で書いているわけです。このことについて詳しくは、月刊世界2014年8月号の飯島みどりさんによるハルフォンのインタビュー「人間の真髄を嵌め込むモザイク」を参考にしてください。

 オリジナルの『修道院』は、妹の結婚式のためにエルサレムを訪れた私が、ポーランドのボクサーのおかげでアウシュヴィッツで命拾いした祖父のことを下敷きにしながら、旅のあいだ自分のなかのユダヤ性を問い続けるという物語をオートフィクションの形で描いたものでしたが、この日本版『ポーランドのボクサー』は、オリジナルの『ポーランドのボクサー』と『ピルエット』と『修道院』の3冊を、日本用にリミックスしたとのこと。

 3冊を合わせて1冊にしたものだと知ったとき、オリジナル『修道院』だけでもおもしろいのに、なんかもったいないなあという気がしたのですが、それは杞憂でした。冒頭の、世界文学の短編を読み詩を書くグアテマラの青年の物語(オリジナル『ポーランドのボクサー』所収)や、絵葉書を送り物語を語るジプシーのピアニスト、ミランの物語(オリジナル『ピルエット』所収)と響きあって、編み直されることで、かえって作品世界が濃厚になり、印象が強烈になっていると感じました。
 全体としては、後書きから引用させてもらうと、
 三冊を合わせた本書を読めば、全体に共通する語り手であるハルフォン自身が、一族が背負ってきたユダヤ的なものとどう距離を置くかという問題を中心軸としつつ、いくつかの特定のテーマや鮮烈なイメージを、その都度その都度の即興で変奏し続けているということに気づく。(286ページ)
という物語になっています。

 思いがけないけれど、そう言われるとイメージが鮮やかに喚起される比喩も、ハルフォンの魅力の一つです。出自に見るハルフォンの文化背景がすべてからみあってか、実に豊かな言葉が繰り出されます。そのおもしろさを十二分に引き出した訳文に、感嘆と羨望のため息が出ました。
 後半になって目についた表現をメモしはじめたのですが、きりがありません。たとえばこういうもの。
  老人が何かジプシーの言葉で尋ね、そのあと同じくジプシーの言葉で何かを語り始め(セルビア語を話せなかったか、あるいは話したくなかったのかもしれない)、それをペータルがセルビア語に訳し、それをスロボダンが英語に訳し、最後に私がそれを、マトリョーシカ人形のいちばん内側の形が崩れた小さな人形のように、スペイン語に直した。(206ページ)

 昨年夏にスペインに行ったとき、文学カフェのような書店で、ハルフォンやサマンサ・シュウェンプリンなど、ラテンアメリカの若手作家の作品が平台に並べられていました。スペインで注目されるのも、さもありなんです。
 そのハルフォン作品を、これほど刺激的な独自版で手にとれる日本の読者は幸せです。

2016年5月8日日曜日

米原万里没後10年 文庫フェア

 

 近所の本屋さんの店頭で『米原万里ベストエッセイI』(角川書店)というのを見かけ、思わず手にとりました。読み始めたら止まらず、もう一度本屋さんに走って、『米原万里ベストエッセイII』も買い込んで、この連休の楽しみとなりました。

 前に読んだことのあるのも中にはあるはずですが、どれも実に新鮮。「痛快」とか「型やぶり」という語はこの人のためにあるのかと思えてきます。まさに頭の中をひっかきまわされるような快感。
 人間への尽きせぬ興味にあふれています。よく見、よく聴き、いつも「なぜそうなるのだろう」と考え続けていく。

 巻頭のエッセイ「トルコ蜜飴の版図」は、ターキッシュ・ディライトと聞いて、「あ」と思う人におすすめ。「遠いほど近くなる」の方言の転記には舌を巻きました。全編驚きに満ちています。

 外国語を使って、どうにか相手をもっと知ろうとすることを私もなりわいにしているから、この本をおもしろいと思うのか、こういうことをおもしろいと思う人間だから、今のような仕事をしているのか。
 
 読み終えてから表4側のオビを見て、「米原万里没後10年文庫フェア」というのを7つの出版社が一緒に展開しているのに気づきました。ご存知のとおりロシア語の同時通訳者であり、書評家、エッセイストとしても活躍した米原さんは、1950年生まれで、2006年の5月に亡くなっています。ちょうど10年前、今の私と同じ年齢で亡くなられたのか、と今でも惜しい気がします。

 フェアで出ているほかの本も読みたくなりました。
 次は『ガセネッタ&シモネッタ』かな。スペイン語通訳の横田佐知子さんの凄さを確認してみます。

2015年11月28日土曜日

今すぐ読みたい! 10代のためのYAブックガイド150!


監修:金原瑞人/ひこ・田中 ポプラ社 2015年11月刊

「私たちが作っている本は、読者の手に届いているのだろうか?」
「届かないと意味がない」「どうしたら届くのだろう?」「何かできることはないのか?」…などなど、本を送り出す側にいる者として、そんなことを日々もんもんと考えていますが、こういうブックガイドが出るのは、本当に心強くうれしいことです。

特徴的なのは、まずは執筆陣。普段から子どもの本の本の紹介に携わっている方に加えて、普段大人の本の書評を書いている方、作家さん、フレッシュな書店員さんなど、さまざまな方がさまざまな視点から紹介しています。だから、集まった本も、これぞYAというものもあれば、背伸びをしてYAを読んでみようと人によさそうなもの、大人の文学への橋渡しをしてくれそうなものもあります。章立ての仕方も新鮮です。

「役立つから薦めているわけではありません。読めば賢くなる保証も、たぶんしていません。他の人にも読んで欲しいな、共感してもらえたらうれしいなと思った本を薦めているだけです。」と、ひこ・田中さんがまえがきに書いています。
本好きの人間が、もっともっと声を大にして、本のことをいろんな場所で、あらゆる機会に語っていかないとね。本好きの人たちだけじゃなくて、本になじみがない人たちにも。
大学の「ヤングアダルト文学講読」の授業でも、紹介してみよう。

私も読んでみたい本がいっぱい。読んで、考えて、私も次の本を出せるようにがんばろう。

2015年11月18日水曜日

Two White Rabbits

Two White Rabbits by Jairo Buitrago

Two White Rabbits
文 Jairo Buitrago
絵 Rafael Yockteng
48ページ
出版社 Graundwood Books
2015年

『エロイーサと虫たち』(さ・え・ら書房)のブイトラゴ、ジョクテングの新作が、カナダのグラウンドウッド社から出ました。スペイン語は出ないのかなと思いながら、早く読みたくて英語版を取り寄せました。楽しい絵本が主流の日本で出すのは難しいだろうなと、最初からちょっと弱気になっていますが、何か書かずにいられなくなりました。

エロイーサのときも、お父さんと娘でしたが、この本も、女の子とお父さんが二人で旅をしています。国籍はわかりませんが、浅黒い肌の色などからラテン系だとわかります。


   When we travel,
   I count what I see.


という文章で物語が始まります。だけど、この旅が、どうやら休暇の旅のようなものでないのは、すぐにわかります。その中で、この女の子が、この最初の言葉のとおり、めんどりが4ひき、牛が5頭、と見たものを数えていく行為が、子どもというものをとてもよく表しているようです。
先週見た写真展、国境なき子どもたち写真展「Four Wishes 4つの願い -世界の子どもたち-」の子どもたちの様子と重なります。


途中で、川をわたったり、線路のそばで野宿している人を見かけたり、列車の屋根に人々が乗ったりする光景が描かれます。みなが目指すのは
アメリカ国境です。そして、移民局の役人から逃げるシーンも出てきます。

ジョクテングの絵が、女の子のとてもよい表情、体の動きをとらえています。

厳しい状況は絵のみで描かれ、ブイトラゴの文章は不用意に涙を誘うことなく淡々と、旅のようすを語ります。ごく普通の旅の物語のように。

IBBY財団が、現在展開しているREFORMAという活動に関連して出版されました。
単独でアメリカの国境を越えていく子どもたちへの本による支援活動。最後に、パトリシア・アルダナさんの文章が載っています。

http://refugeechildren.wix.com/refugee-children

でも、声高に訴えるのではなく、リリカルな本になっています。
見返しには、グアテマラの心配ひきうけ人形も描かれています。

本当に、これが今、現実に、この世界で起きていること。日本の読者にいつか届けられるといいな。