2016年5月28日土曜日

在日アルゼンチン共和国大使館へ


ブエノスアイレスの老舗書店エル・アテネオ
ただしプレゼンがあったのはフロリダ通り340番地の店舗。


 イソール作『ちっちゃいさん』(講談社)ですが、うれしいことに、はやくも重版となりました! 私の訳書としては異例のはやさです。担当編集者さんのお話だと、児童書売り場だけでなく、文芸書のコーナーなどにも置いてくださる本屋さんが増えているとのこと。版元さんの強力な後押しに感謝です。

 そして、昨日は編集者さんとともに在日アルゼンチン共和国大使館を訪問し、公使にお礼をしてきました。この本の出版にあたって、アルゼンチンの外務省のプログラマ・スールという翻訳助成プロジェクトで翻訳助成金をいただいたからです。
 ここ数年、このプロジェクトは世界各国でアルゼンチンの作品の翻訳出版を助けてきました。コルタサルやボルヘスといった大作家のものも、新人や児童書の作家のものも、みな平等に助成してくれるという、民主的で太っ腹なすばらしいプロジェクト。来年の応募があるかはまだわからないそうですが、続けてほしいなあと思います。

 お会いしたガルデラ公使は、昨年夏に、ブエノスアイレスの老舗書店エル・アテネオで行われた、イソールさん自身によるこの本のプロゼンテーションに足を運ばれたそうで、そのときのお写真を見せてくださいました。日本版がとてもよくできているとほめていただけてうれしかったです。

 実は別の版元さんですが、アルゼンチンの別の作家さんの絵本の刊行を来年初夏に予定しています。ちょっとアルゼンチンづいていて、遠いけれど、ブエノスアイレスの冬や春も体験してみたいなあと思いをはせています。

2016年5月21日土曜日

カタルーニャ語クラス

バルセロナの日々(16)

当時使っていたカタルーニャ語の教科書
 9月の最終週に、カタルーニャ語の授業が始まった。
 10月下旬に大学院の授業が始まるから、それまでにいくらかでも授業で使われるカタルーニャ語をわかるようになっていたい。なのに、困ったことに、私は準備万端とはとても言えない状態だった。
 バルセロナに着く前に、カタルーニャ語の文法はひととおりさらっておくつもりだった。けれど、準備や翻訳に追われ、何ひとつできていなかった。バルセロナに着いてからも、子どもの学校のことや生活を整えること、大学院の手続きで、勉強はあとまわしの状態だった。
 私がとることにしたのは、大学のカタルーニャ語事務所が主催する40時間の入門クラスと、続く40時間の初級クラス。バルセロナ自治大学にスペインの他の地域や中南米からやってくる学生向けの講座だ。どちらも1ヶ月間の構成で、月曜日から金曜日まで連日午後2時から4時までの授業だった。
 ちょうど入門クラスを終えたころに大学院の授業が始まることになる。40時間終えたら、少しはわかるようになるだろうか。
 カタルーニャ語は、学生時代にはじめてバルセロナを訪れたときに興味をいだいて以来、ずっとおぼえたかった言葉だった。それを、またとない環境で学べるのだから、自然と胸がはずんだ。でも、バルセロナに来るまで人が話すのを聞いたことすらない言語を、こんな年齢になってからそう簡単に習得できるのか。私は会話向きの積極性も社交性も持ち合わせていない。不安でいっぱいだった。しかし、カタルーニャ語の習得は、今回の留学の大前提だ。だからともかく前進あるのみだった。

 クラス初日。大学の講義は18年ぶりで、それだけでドキドキしながら指定の教室に入った。スペイン語でおしゃべりをしている子たち。新入生らしい。若いなあ。大学1年だと、若い子はまだ17歳だ。平気な顔をよそおっていたが、自分より長男に年が近いのかと思って、内心動揺していた。
 時間になると、あまり背の高くない、私と同年輩くらいの、きさくそうなジーンズ姿の男性が入ってきた。教材をかかえて、まっすぐに教壇に向かっていったところをみると先生だ。と、いきなり、その男性が口を開き、カタルーニャ語で言った。
「ぼくはジョルディ。きみの名前は?」
 みながきょとんとしていると、もう一度、最前列にすわっていた子に向かって、同じことを繰り返した。さすが若い学生だ。女の子はすぐにルールをのみこみ、となりの子に向かって言った。
「私はサラ。あなたの名前は?」
 ああ、名前をたずねているのか、と私がわかったのは、3人目を過ぎてからだった。自分の番がまわってきて、しどろもどろに声をだしたとたん、どっと汗がふき出してきた。いきなりしゃべらされるなんて、さすが本場の授業だ。

 こうしてカタルーニャ語の入門クラスが始まった。
 授業の中の自己紹介で、クラスメートはすぐ顔なじみになった。アストゥリア出身の17歳の女の子2人組と、ウエルバ出身で言語聴覚士の勉強をしている女の子、マドリードに彼女がいるというカナリア諸島出身のやんちゃぼうず、アンダルシア出身の20代後半の化学の大学院生の若者。
 そして、カタルルーニャ出身の男性と結婚したばかりのメキシコ人のほがらかな女の子と、魚を使って研究をしているというウルグアイの女の子、黒髪に黒い大きな瞳がかわいらしいエクアドルの女の子という中南米勢が、数日後に加わった。
 スペイン語もカタルーニャ語もあやしい私のようなのは、政治学を勉強しにきている20代半ばのまじめなドイツ人の女の子と、獣医学部の背の高いクロアチアの女の子、そして、すぐにやめてしまったフランス人の女の子だけだった。
 ジョルディはカタルーニャ語だけで授業を進めた。いわゆるダイレクトメソッドだ。説明にもいっさいスペイン語を使わない。なのに、新しい表現や語彙を次から次へと、口に出して使わせていく。
 願望の文が出てくれば、「あなたはこのあと何がしたいですか」、未来形が出てくれば「今週の週末、何をしますか」、家族の名称をおぼえたら、自分の家族の写真をみんなに見せて紹介するなど、初歩的な文法で身近な会話がひきだされていった。
 寮でカタルーニャ出身のルームメイトがいるというアストゥリアスの女の子たちは、みるみる上達していった。文法も語彙も似かよっているのだから当然だけれど、それにしても速い。
 一方私は、しだいに落ちこぼれていった。みんなから何歩も遅れて、よろよろとどんじりを行くような感じだ。自分だけジョルディの指示がわからないこともある。思い切って聞きなおしてみても釈然としない。対話形式の練習でクラスメートからペアを組むのを敬遠されているのも感じた。悔しいけど、そうしたい気持ちもわかる。
 こうして、落ちこぼれ状態のまま、1ヶ月は瞬く間にすぎた。院の授業の開始は目前だ。けれども、わかってきたという実感はいっこうに湧いてこなかった。音もぜんぜん聞こえてこない。台所に立つとき、ラジオを聞くようにしていたが、ヒアリングはからきしだめだった。ちょうど『イスカンダルと伝説の庭園』(徳間書店)の校正がぶつかっていた。次々とたたきこまれることを、消化して自分のものにしていくには時間が絶対的に足りなかった。
 悔しさとなさけなさで、授業が終わって教室から外に出たとたん、ぼろぼろ涙がこぼれる日が続いた。ああ、私はどうなっちゃうんだろう。子どもを連れてここまで来て、最初からこの体たらくだ。
 でも、落ち込みも長くは続かなかった。その足で子どもたちを迎えにいくと、母親に戻るしかないからだ。子どもたちは子どもたちでたいへんな時期だった。学校から帰ったら、寝る時間までは彼らとできる限り向き合いたい。そうなると机につけるのは10時か11時、しかもその時には、ほとんどよれよれだった。
 けれどもその一方で、子どもたちは救いでもあった。ストレスでけんかも激しかったが、3人いると、ふいに思わぬところで笑いが起こる。笑顔を見ると、この子たちが元気なら、あとは何とでもなるかという気分になった。
 泣いていても、だれも助けてくれやしない。自分でふんばるしかない。あきらめたらそれまでだ。
 子どもたちの生命力にすがりながら、最初の試練の日々は過ぎていった。

2016年5月16日月曜日

奇遇というのはこんなこと!?


昨日、偕成社の展示の最終日にかけこんだ帰り道、丸善丸の内本店の児童書売り場にちらっと立ち寄りました。
『かぞくのヒミツ』のときから、イソール作品を応援してくださっている売り場で、『ちっちゃいさん』がどうなっているかなとちょっと気になって・・・。
うれしいことに、新刊コーナーのまん中に面出しで並んでいるのを見て、感謝感謝。それに『かぞくのヒミツ』も、特集のコーナーで並べてくれていました。

そして、児童書売り場の担当者さんに、「さっきまで、さかなつりのイベントをしていたんですよ」と言われて、文渓堂の方を紹介されました。
そこまでは、書店さんでよくある出来事なのですが、編集者さんと話を始めたところ、イベントの主役だった『よるのさかなやさん』の著者の穂高順也さんが、いきなり
「ケンシくんのお母さんですか?」
と、話しかけてきたのです。

「えっ?」

「ぼく、保育園に勤めていたんです。豊玉第二保育園」

「えーーーーっ!!!」

「むかしは、名前が違ってましたけど」

もう、びっくり仰天でした。

練馬区の豊玉第二保育園は、長男が1歳児のときにはじめて通った保育園です。2年間だけお世話になって引っ越したのですが、当時男の先生は、昔の穂高さんである I先生だけでした。1学年が6,7人しかいない、こじんまりした保育園でしたが、まさか親の顔まで覚えていらっしゃるとは! 
「あの頃はまだ勉強中で、訳書が出ていませんでした」と言うと、「ぼくもです」と。

出版界の中で、前にA社にいた方がB社にいたり、C社にいた方が翻訳をしていたり、というのは、けっこうありますが、これはまた別の話。長男が今25歳なので、23年も会っていなかったのに、よくわかったなあと、ほんとうにびっくり。

あのころのあのあたりの街並、長女が生まれた、長男が2歳のころのこと、保育園の帰り道に、目白通りと千川通りとが交わる交差点のところで、前輪も後輪もタイヤが2つずつ並んでいるトラックを10台見るまでは動かなかったこと…などなど、久しぶりに思い出して、なつかしくなりました。
もうすっかり忘れてしまっていたようなことが、ちょっとしたきっかけで蘇ってくるから人間の記憶というのは不思議なものです。

『よるのさかなやさん』に、長男の名前でサインをしてもらってきました。お互い、今の仕事でがんばりましょうという気持ちで別れました。
生きているといろんなことがあるものですね。

2016年5月15日日曜日

『ちっちゃいさん』読売新聞で紹介されました

4月20日に刊行になったイソール作『ちっちゃいさん』ですが、5月1日の読売新聞「本よみうり堂」で早くもとりあげられました。

こちらです→読売新聞HP

この本のすてきなところが、よく伝わってくるご紹介です。

このおかげでしょうか、全国津々浦々の書店さんに置いていただけているようです。
このところ気になって、出かけた先々で書店さんに立ち寄っていますが、平積みや面出しで並べてくださっているところも多くてうれしくなっています。

ついでに前作の『かぞくのヒミツ』と『うるわしのグリセルダひめ』(エイアールディー)も、見ていただけるといいな……と、これは欲張り!

2016年5月8日日曜日

米原万里没後10年 文庫フェア

 

 近所の本屋さんの店頭で『米原万里ベストエッセイI』(角川書店)というのを見かけ、思わず手にとりました。読み始めたら止まらず、もう一度本屋さんに走って、『米原万里ベストエッセイII』も買い込んで、この連休の楽しみとなりました。

 前に読んだことのあるのも中にはあるはずですが、どれも実に新鮮。「痛快」とか「型やぶり」という語はこの人のためにあるのかと思えてきます。まさに頭の中をひっかきまわされるような快感。
 人間への尽きせぬ興味にあふれています。よく見、よく聴き、いつも「なぜそうなるのだろう」と考え続けていく。

 巻頭のエッセイ「トルコ蜜飴の版図」は、ターキッシュ・ディライトと聞いて、「あ」と思う人におすすめ。「遠いほど近くなる」の方言の転記には舌を巻きました。全編驚きに満ちています。

 外国語を使って、どうにか相手をもっと知ろうとすることを私もなりわいにしているから、この本をおもしろいと思うのか、こういうことをおもしろいと思う人間だから、今のような仕事をしているのか。
 
 読み終えてから表4側のオビを見て、「米原万里没後10年文庫フェア」というのを7つの出版社が一緒に展開しているのに気づきました。ご存知のとおりロシア語の同時通訳者であり、書評家、エッセイストとしても活躍した米原さんは、1950年生まれで、2006年の5月に亡くなっています。ちょうど10年前、今の私と同じ年齢で亡くなられたのか、と今でも惜しい気がします。

 フェアで出ているほかの本も読みたくなりました。
 次は『ガセネッタ&シモネッタ』かな。スペイン語通訳の横田佐知子さんの凄さを確認してみます。

2016年5月7日土曜日

El Meninoが『ちっちゃいさん』になったわけ



『ちっちゃいさん』の原題はEl Meninoです。

 menino は、たとえば白水社の『現代スペイン語辞典』をひくと、「[スペイン宮廷で女王・王子付きの]小姓、[特に]若い女官」と書いてあります。

 ベラスケスの名画Las meninas のmenina と同じです。
 だとしたら、このタイトルはいったいどういう意味なんだろうと、原書を手にとったとき、まずひっかかりました。イソールさんは、どうしてこのようなタイトルをつけたのでしょうか。

 アルゼンチンだと違う意味があるのだろうかと、まず疑いました。スペインと中南米のスペイン語は、しばしば同じ単語でも違う意味が持つことがあるからです。そこで、アルゼンチン人の知人にたずねたところ、アルゼンチンで赤ん坊をmenino とは呼ばないが、ポルトガル語で子どものことをmenino というので、El Menino と聞くと赤ん坊のことだと想像がつく、といわれました。

 
 このあたりでなんとなく、このタイトルのココロはほの見えてきたのですが、やっぱりこれは本人に確かめようと、思いきってイソールさんにたずねてみました。
 すると、次のように説明してくれました。
タイトルのEl Meninoは、El Bebé(赤ちゃん) と言っても同じです。だけど、赤ちゃんを言うのに、ここでは違う言葉を使い、un bebé とは一度も言っていません。そこがこの本のミソです。ほかの言葉でもよかったのです。最初はEl Bimboにしようかと思っていました。 イタリア語で赤ちゃんの意味の言葉です。だけど、英語でbimbo というとまるっきり違うものになるし、有名なパンのメーカーの名前でもあるので変えました。El Bambino とかEl Nino にしようかとも考えました。
ちょっと変わってますよね。そうかもしません。でも、あまりヘンなら別の言葉を使ってもかまいません。普通には使われていない名前、だけど、ちょっと調べれば赤ちゃんのこととわかる名前がいいですね。
 こうして考えているうちに思い浮かんだのが「ちっちゃいさん」でした。
 長男が生まれたとき、甥っ子を連れて会いにきた姉が、「xxくんは、ちっちゃい、ちっちゃいね」と言って、長男の頭を2歳にならない甥っ子になでさせていたのが頭に残っていたのかもしれません。
 タイトルについては、編集者さん(あるいは版元さん)の意向で再検討することもよくあるのですが、今回はこのままで通りました。うれしいけれど、ちょっとドキドキしています。

 本文でも、イソールさんにたずねたことはほかにもいろいろあるのですが、それについてはまたあらためて。
 

2016年5月6日金曜日

タケノコごはん

40センチ以上ありました!

 先日、実家に行ったとき、タイミングよく親戚から届いたタケノコを1本もらってきました。巨大なタケノコは、半分に切ってもまだ鍋からはみでるほど。でも、たっぷりの糠を入れてゆでると、まさに自然のごちそう、春の味です。

冷蔵庫にあったシメジも入れて

 やっぱり、これはタケノコごはんでしょうと、圧力なべいっぱいに作り、美容室勤めの娘にも届けてきました。
 傷まないうちにと、ここ3日、タケノコづくしです。

この絵本のタケノコごはんは、どんな味だったのかな。
 大島渚文/伊藤秀男絵『タケノコごはん』(ポプラ社)。
         ↑タイトルは、出版社のHPにリンクしています。




 魂のこもった伊藤さんの絵。
 思い出しながら、タケノコごはんをほおばりました。

2016年5月5日木曜日

持ち物はおやつ?!

バルセロナの日々(15)

 9月15日、小学校が始まった。
 さあ、いよいよだ。小中学校で3回の転校を経験した私は、新しい学校に初めて行く日の緊張は身に覚えがある。朝、つとめて元気に声がけをして起こしながら、ケンシたちの不安を思った。
 朝食を食べさせ、早めにうちを出る。持ち物は「おやつ」だけ。
 えっ、学校におやつ? なんでも、午前中の休みの時間に、サンドイッチやビスケットなどを食べるらしい。見学の日、初日の持ち物をたずねたら、「おやつだけでいいわよ」と言われたのだ。それにしても、ノートも筆箱も持たずに、おやつ?
 9時少し前に着くと、学校のまわりにはもう、わさわさと親子づれがいた。話には聞いていたが、やはり小学生の間は大人が登下校の送り迎えをするようだ。3ヶ月近い長い夏休み明けだ。子どもたちもにぎやかだし、久しぶりに会ったおかあさんたちもかしましい。
 へえーっ、これがスペインの小学生か。
 心配そうな我が子をよそに、私は思わず見とれてしまった。髪が茶色くて、くりくりっとした目の子が多い。高学年になると、私よりりっぱな体格の子もいる。こういう子たちに向けて、これまで読んできたスペインの児童文学作品って書かれてきたのか。不思議な気がした。
 9時ちょうどに学校の小学部側の扉が開いた。校舎前の小さな中庭で、担任の先生が学年ごとに子どもたちを集めている。校長のエドゥワルドは2年生の担任だった。私たちを見つけるとやってきて、「だいじょうぶ、安心しなさい」といいながら笑顔で、さっさとアキコとケンシをそれぞれの学年の場所に連れていった。学年の最初の日と言っても、入学式も始業式もないのだった。
 そこで私はタイシを連れて、建物の反対側にある幼児部の入り口にまわった。幼児部では、教室の入り口まで親が子どもを連れていくと、先生は子どもの両頬にキスをしてあいさつし、子どもを部屋に入らせる。担任のフアニが、
「ボン ディア タイシ」
とキスをした。タイシがもじもじしていると、同じクラスだというジョルディという子が、いきなりタイシの肩をだきかかえて、部屋の中にひきこんだ。
 慣れた保育園でだって、別れ際、ぐずる日はぐずるものだ。朝は、先生にお願いしたら、潔く立ち去るに限る。私はバイバイを言って、そのままタイシを残して立ち去った。こうして、第1日目の幕が切っておとされた。

 クレンフォル校は、9時に始まり、午前の部が1時まで、午後の部が3時から5時という時程だった。午前の部と午後の部の間の2時間がランチタイム。3分の2の子どもは、家に帰って食べる。だから、家に帰る子の親は、昼にも送り迎えをする。両親とも働いているような子だけが、学校に残って給食を食べる。
 スペイン人は、朝はあまり食べない。コーヒーや子どもなら牛乳と、コーンフレークやマリービスケットくらいですませてしまう人も多いから、昼ご飯までの腹つなぎが必要なのだろう。12時前後のバルには、ボカディーリョ(バゲットで作ったサンドイッチ)やドーナツをほおばる勤め人がたくさんいる。子どもたちは、11時ごろ、「パティ」と呼ばれる休み時間におやつを食べる。1時には昼ご飯になる子どもに、おやつは不要な気もしたが、一般の大人の昼ご飯は2時か3時なので、それならうなずける習慣だ。
 みんなどんなものを持ってきているのだろう。子どもたちにきくと、小さなボカディーリョや、ビスケット、チョコレート、クロワッサン、バナナなど、さまざまだった。
 ちなみに、一度、読書の調査で、午前の休み時間に中学校に行ったことがあったが、中学生の男の子はのきなみ、20センチか30センチはありそうなボカディーリョをほおばっていた。
 1日目、タイシはチョコクリームをはさんだクロワッサン、アキコはジャムをはさんだクロワッサン、ケンシはソーセージをはさんだコッペパンを持たせた。タイシが帰ってくると、「あしたもクワガタのパンにチョコをはさんで!」と言った。タイシには、クロワッサンは、三日月ではなく、クワガタに見えたようだ。だが、最初の頃こそめずらしがってクロワッサンを使っていたが、クロワッサンは普通のパン(つまりバゲット)と比べるとうんと高い。その後おやつは、おにぎりやボカディーリョなどに変わっていった。
 午後5時。いったいどんな顔をして出てくるだろうと思いながら、3人を迎えにいった。校長のエドゥワルドは、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と笑顔で言うと、ちょっと待ってと事務室に行き、各学年の買い揃えるべき教科書や学用品のリストを持ってきた。やっぱりノートや鉛筆だって必要だったんじゃない! 「順々に持ってくればいいですよ」なんて、のんびりしたものだ。でも、そんなわけにはいかないだろう。その日、帰りがけに、教えてもらった本屋と文房具屋に買いにいった。
 子どもたちは、それぞれに表情がかたかった。「何言ってるかぜんぜんわからない」とケンシ。「遊びに入れてくれなかった」とアキコ。「1人でいたいのに、さそわれていやだった」とタイシ。
 これからどうなるのだろう。
 校長のエドゥワルドがいくら「だいじょうぶ」と言ってくれても、私の胸の中では期待と不安が錯綜していた。でも、エドゥワルドの言葉や態度には、思いがけずやってきた日本人の子どもにいい学校生活を送らせてやろうという、教育者らしい思いやりが感じられた。「だいじょうぶ」と、私も信じたかったし、子どもたちにがんばってほしいなあと思うのだった。