バルセロナの日々(16)
当時使っていたカタルーニャ語の教科書 |
10月下旬に大学院の授業が始まるから、それまでにいくらかでも授業で使われるカタルーニャ語をわかるようになっていたい。なのに、困ったことに、私は準備万端とはとても言えない状態だった。
バルセロナに着く前に、カタルーニャ語の文法はひととおりさらっておくつもりだった。けれど、準備や翻訳に追われ、何ひとつできていなかった。バルセロナに着いてからも、子どもの学校のことや生活を整えること、大学院の手続きで、勉強はあとまわしの状態だった。
私がとることにしたのは、大学のカタルーニャ語事務所が主催する40時間の入門クラスと、続く40時間の初級クラス。バルセロナ自治大学にスペインの他の地域や中南米からやってくる学生向けの講座だ。どちらも1ヶ月間の構成で、月曜日から金曜日まで連日午後2時から4時までの授業だった。
ちょうど入門クラスを終えたころに大学院の授業が始まることになる。40時間終えたら、少しはわかるようになるだろうか。
カタルーニャ語は、学生時代にはじめてバルセロナを訪れたときに興味をいだいて以来、ずっとおぼえたかった言葉だった。それを、またとない環境で学べるのだから、自然と胸がはずんだ。でも、バルセロナに来るまで人が話すのを聞いたことすらない言語を、こんな年齢になってからそう簡単に習得できるのか。私は会話向きの積極性も社交性も持ち合わせていない。不安でいっぱいだった。しかし、カタルーニャ語の習得は、今回の留学の大前提だ。だからともかく前進あるのみだった。
クラス初日。大学の講義は18年ぶりで、それだけでドキドキしながら指定の教室に入った。スペイン語でおしゃべりをしている子たち。新入生らしい。若いなあ。大学1年だと、若い子はまだ17歳だ。平気な顔をよそおっていたが、自分より長男に年が近いのかと思って、内心動揺していた。
時間になると、あまり背の高くない、私と同年輩くらいの、きさくそうなジーンズ姿の男性が入ってきた。教材をかかえて、まっすぐに教壇に向かっていったところをみると先生だ。と、いきなり、その男性が口を開き、カタルーニャ語で言った。
「ぼくはジョルディ。きみの名前は?」
みながきょとんとしていると、もう一度、最前列にすわっていた子に向かって、同じことを繰り返した。さすが若い学生だ。女の子はすぐにルールをのみこみ、となりの子に向かって言った。
「私はサラ。あなたの名前は?」
ああ、名前をたずねているのか、と私がわかったのは、3人目を過ぎてからだった。自分の番がまわってきて、しどろもどろに声をだしたとたん、どっと汗がふき出してきた。いきなりしゃべらされるなんて、さすが本場の授業だ。
こうしてカタルーニャ語の入門クラスが始まった。
授業の中の自己紹介で、クラスメートはすぐ顔なじみになった。アストゥリア出身の17歳の女の子2人組と、ウエルバ出身で言語聴覚士の勉強をしている女の子、マドリードに彼女がいるというカナリア諸島出身のやんちゃぼうず、アンダルシア出身の20代後半の化学の大学院生の若者。
そして、カタルルーニャ出身の男性と結婚したばかりのメキシコ人のほがらかな女の子と、魚を使って研究をしているというウルグアイの女の子、黒髪に黒い大きな瞳がかわいらしいエクアドルの女の子という中南米勢が、数日後に加わった。
スペイン語もカタルーニャ語もあやしい私のようなのは、政治学を勉強しにきている20代半ばのまじめなドイツ人の女の子と、獣医学部の背の高いクロアチアの女の子、そして、すぐにやめてしまったフランス人の女の子だけだった。
ジョルディはカタルーニャ語だけで授業を進めた。いわゆるダイレクトメソッドだ。説明にもいっさいスペイン語を使わない。なのに、新しい表現や語彙を次から次へと、口に出して使わせていく。
願望の文が出てくれば、「あなたはこのあと何がしたいですか」、未来形が出てくれば「今週の週末、何をしますか」、家族の名称をおぼえたら、自分の家族の写真をみんなに見せて紹介するなど、初歩的な文法で身近な会話がひきだされていった。
寮でカタルーニャ出身のルームメイトがいるというアストゥリアスの女の子たちは、みるみる上達していった。文法も語彙も似かよっているのだから当然だけれど、それにしても速い。
一方私は、しだいに落ちこぼれていった。みんなから何歩も遅れて、よろよろとどんじりを行くような感じだ。自分だけジョルディの指示がわからないこともある。思い切って聞きなおしてみても釈然としない。対話形式の練習でクラスメートからペアを組むのを敬遠されているのも感じた。悔しいけど、そうしたい気持ちもわかる。
こうして、落ちこぼれ状態のまま、1ヶ月は瞬く間にすぎた。院の授業の開始は目前だ。けれども、わかってきたという実感はいっこうに湧いてこなかった。音もぜんぜん聞こえてこない。台所に立つとき、ラジオを聞くようにしていたが、ヒアリングはからきしだめだった。ちょうど『イスカンダルと伝説の庭園』(徳間書店)の校正がぶつかっていた。次々とたたきこまれることを、消化して自分のものにしていくには時間が絶対的に足りなかった。
悔しさとなさけなさで、授業が終わって教室から外に出たとたん、ぼろぼろ涙がこぼれる日が続いた。ああ、私はどうなっちゃうんだろう。子どもを連れてここまで来て、最初からこの体たらくだ。
でも、落ち込みも長くは続かなかった。その足で子どもたちを迎えにいくと、母親に戻るしかないからだ。子どもたちは子どもたちでたいへんな時期だった。学校から帰ったら、寝る時間までは彼らとできる限り向き合いたい。そうなると机につけるのは10時か11時、しかもその時には、ほとんどよれよれだった。
けれどもその一方で、子どもたちは救いでもあった。ストレスでけんかも激しかったが、3人いると、ふいに思わぬところで笑いが起こる。笑顔を見ると、この子たちが元気なら、あとは何とでもなるかという気分になった。
泣いていても、だれも助けてくれやしない。自分でふんばるしかない。あきらめたらそれまでだ。
子どもたちの生命力にすがりながら、最初の試練の日々は過ぎていった。
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