2015年5月30日土曜日

翻訳者が選ぶ世界の子どもの本

池袋のジュンク堂書店、1階エレベータ前の大きな平台で、来週後半からフェアが始まります。それに合わせて、6月20日(土)、選書をした4名で下記のトークをさせていただけることになりました。

もとはと言えば、昨秋、Maruzen&ジュンク堂書店梅田店で、ひこ・田中さんのお声がけで大きな棚をもらい、解説を書き、本を並べていただいたのが始まり。
「東京でも!」の声があがり、仕切りなおして、新たに選びなおした本でフェアとなりました。ジュンク堂さん、ありがとうございます!
トークは、まだお席があるようです。ご興味のある方、どうぞお出かけください。

「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」
ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年06月20日(土)19:30 ~  詳しくはこちら
入場料1000円。要予約。TEL 03-5956-6111。

さくま ゆみこ(翻訳家)
宇野 和美(翻訳家)
野坂 悦子(翻訳家)
那須田 淳(作家・翻訳家)

海外作家の本には、日本とは異なる価値観や視点があります。
とくに、自分ではなかなか「外」へ出られない子どもにとって、本は大切な「窓」にもなります。
この窓のむこうにある景色へ想像の翼を広げれば、違う世界を経験することができ、
解放され、本当の自分を見つけて成長していけるのです。閉塞感の増す今の日本の状況のなかで、
それぞれ別の専門言語を持つ4名が、世界の子どもの本をもっと読んでほしいと、思いを語ります。

★トークセッション終了後、サイン会あり。

2015年5月28日木曜日

映画『スリーピング・ボイス』

ゴールデンウィークに、新宿のK's Cinema で『スリーピング・ボイス』を見てきました。

1940年、つまり内戦終結の翌年のスペインが舞台。フランコ政府が反政府勢力の撲滅に力を注いでいた頃です。この映画は、アンダルシーアから、ただ一人の身よりである姉が収監されたマドリードにやってきた娘が、なんとか姉を助けようと奔走する物語ですが、この主人公の女の子も、せつないほど気丈なお姉さんも実に魅力的。それ以外の女性たちも、多面的に描かれていて奥行きがあります。
私が見た日は上映後に、配給元の比嘉セツさんと、作家の星野智幸さんの対談があり、そこで比嘉さんが、この映画のおもしろさは、その時の状況を女性の視点で描ききっていることにあると言われて、なるほどと思いました。確かに、日本で紹介されている文学でも、こういったテーマのもので女性を主にした作品はわずかです。

スペイン内戦は1936年から39年。その後、フランコの独裁が1975年まで続くわけですが、今回、この映画を見て、「戦後」という言葉の持つイメージが、スペイン内戦後の実像を見えにくくしているのではないかと、はたと思いました。「戦後」というと、日本人は平和を想起しがちですが、スペインの内戦後というのは、言ってみれば、日本の戦前の状態。治安維持法ととりしまりの時代です。

また、この時代の「声」と「沈黙」について、再び考えされられました。
戦後スペインを代表する女性作家アナ・マリア。マトゥーテの子ども向けの作品、『きんいろ目のバッタ』(偕成社、絶版)には、口のきけない少年が出てきます。この作品について、長田弘さんは『読むことは旅をすること』(平凡社)の中で、「市民戦争の後、ナショナリズムがスペインぜんぶを渫(さら)ったフランコのスペインの時代に匿されていた、ブレナンのいわゆる「スペインの本当の声」のありかを、親しい秘密をつたえるように伝えた本」と評しています。
声をあげられないことは、この時代を知るキーワードのような気がします。

フランコ時代を舞台とする児童文学に、拙訳のエリアセル・カンシーノ著『フォスターさんの郵便配達』(偕成社)という作品があります。これについて、ネット書店で、「全体を通して、政治的な事柄や敗戦した側の心情をもう少し突っ込んで説明してもよかったのではないかと思いました。特にイスマエルを通して内戦後の社会の混乱を説明するくだりで、11〜12歳に語るのであれば、(もう少し大人の言葉でも)理解できるのにと強く思い、物足りなさを感じました。読者もその辺は敏感に感じると思います。」というコメントが載りました。
だって時代が違うのに、と私は思いました。この時代、そこに生きていた者たちが、直接的な表現で説明することができただろうかと。日本の戦後とは違うのです。

しかも、内戦と言っても、みながみな、自分の信条にそって戦ったわけでもありません。比嘉さんも語っていましたが、なんらかの仕方のない事情で、生きのびるために違う側で戦わざるを得なくなった人たちも少なくありませんでした。
フアン・ファリアス著『日ざかり村に戦争がくる』(福音館書店)では、反乱軍側の兵士にさせられないために、山にこもる男たちが出てきます。山にこもった者たちは、単に自分の愛する者たちに銃を向けたくなかっただけ。なのに、結局見つかって殺されます。

こういった時代を背景にした名作『黄色い雨』『狼たちの月』で知られるフリオ・リャマサーレスのTanta pasión para nada (激しくもむなしい情熱)という短編集の中にEl médico de la noche(夜の医者)という作品があります。民政移管後、レジスタンスをめぐる国際会議が、ある山間の村で開かれ、その何回目かの会議の際、当時のマキス(レジスタンス)の所持品が展示される。それを見たある老女が、自分の娘の命の恩人であるレジスタンスの若者が、政府軍の待ち伏せ作戦で亡くなっていたのを知るという物語です。老女は、自分の娘がレジスタンスの若者に救われたという事実を、その展示会を見るまで、共に立ち会った夫以外の誰にも話しませんでした。フランコ時代はもちろん、民政移管後も。フランコの恐怖はそれほど強いものだったのだとリャマサーレスは結んでいます。
「スリーピング・ボイス」を見て、この作品のことも思い出しました。あの時代の、どれほどの恐怖があったのか、この短編は私たちの想像力を押し広げてくれます。

映画好きな方なら、『パンズラビリンス』や『ブラックブレッド』も、改めて見てみるとおもしろそう。
それにしても、比嘉さんは、なんと次々と、さまざまな視点を投げかけてくれることか。今回もこの映画に出会えて感謝です。

映画『スリーピング・ボイス』は、新宿のK's Cinemaで6月12日まで。


2015年5月27日水曜日

奨学金をとろう

バルセロナの日々(5)

 もうひとつの問題は、奨学金だった。
 スペイン留学のガイドには、3つの奨学金が紹介してあった。しかし、応募資格を見ると、かろうじて可能性がありそうなのは、スペイン外務省の奨学金だけだった。かろうじてと書いたのは、応募要件に「36歳までが望ましい」とあったからだ。私は年齢がオーバーしている。でも、「まで」ではなく、「までが望ましい」だもの、望みがあるかもしれない。
 そこで、この奨学金で留学したことのある大学時代の友人にたずねてみた。彼女によれば、当時もこの条件はあったが、かなり年配の合格者もいたらしい。
 よし、それならものはためしだ。
 請求していた募集要綱が大使館から送られてきたのは1月はじめ。応募の締め切りは3月末日。スペイン語で用意しなければならないさまざまな書類があった。
 ひとつ困ったのは、提出すべき応募書類の中にある、スペイン語能力検定の証明書がなかったことだ。だが、問い合わせてみると、ないのは不利だが、応募ができないわけでないことがわかり、一安心した。
 書類のメインは、研究歴や職歴、留学計画の概要などを書いた申請書と、それに添える研究計画書だ。「行かせてやろう」と審査員が思ってくれるようにまとめなければならない。これには、何かと企画書を出させたがる職場で、曲がりなりにも7年勤めた経験が役立った。
 もちろんスペイン語の表現力も試される。そこで、ひととおり書いたものを、友人のモンセ・ワトキンスに見てもらうことにした。モンセは、鎌倉に住み、日本文学の翻訳のかたわら、在日日系人のルポルタージュなども書いている、バルセロナ出身の女性だった。人間的で理性的な彼女の視点を深く信頼していたから、今回の留学について彼女がどんな意見を持つかも知りたかった。
 待ち合わせの鎌倉駅に、自転車を押しながら、紺の作務衣で現れたモンセの姿を今でもはっきりとおぼえている。早春のうららかな日だった。そばやで腹ごしらえをしているとき、私は切り出した。
「カタルーニャ語がとっても不安だけど、どうしてもバルセロナ自治大に行きたいの」
 すると、モンセは大きな目をあきれたように見開いて言った。
「手紙をもらったときから本気かなと思っていたけど、本当みたいだね。でも、カズミ、無理だよ。カタルーニャ語はスペイン語よりラテン語に近くて、語彙も音も違う。なんでマドリードやサラマンカにしないの? そのほうが子どものためにもいいよ」
「自治大の先生がいちばん興味のある研究をしているの。読むのはすぐできるというし」カタルーニャ語も繰るモンセの即座の否定的意見にかなり動揺しながらくいさがった。
「がんばろうというのはわかるけど、これは努力の範囲を超えてる。思ったことができないと、苦しむのはカズミだよ」
 そうだろうか。私はただ意地をはっているのだろうか。
 食事がすむと、小町通の入り口にある昔風の喫茶店に移った。私はなんだか心細い心地で、書類の文字をたどるモンセの手元を目で追っていた。すると、モンセがいきなり笑い出した。「年をくっているけれども、学びたいという意欲はかえってあるつもり」と、留学への意欲を訴えた箇所にきたときだった。
「『年をくっている』ねえ……。その年になって、子どもを連れてでも勉強しに行くというのは、若いときの留学の何倍も貴重なことだよ。私はたいへんだと思うし、別の場所にしたほうがいいと思うけど、そこまで言うなら、がんばったら」
 このときの、モンセのあたたかなまなざしを思い出すたび胸がいっぱいになる。これがモンセと会う最後となったからだ。モンセは私が留学中の2000年秋、ガンが再発し帰らぬ人となった。
「ほんとにたいへんだった。でも、行ってよかったよ」と、一番に報告をしたい人のひとりがモンセだったのに。

 書類が整い、投函したのは3月20日頃だった。
 書類審査に通れば、4月になって連絡があり、面接に進めるらしい。何人受けるのかも、何人受かるのかもわからない。でも、倍率は気にならなかった。「研究計画書」に、書けるだけのことは書いた。やれるだけのことはやった。落ちたらくやしいけれど、悔いはない心境だった。



2015年5月6日水曜日

行き先さがし

バルセロナの日々(4)

 行けるかどうかを調べると言っても、いったい何から手をつけたらよいのだろう。
 決めたいことはふたつあった。ひとつは行き先。もうひとつは奨学金。
 子どもを連れていくのだから、住む場所や子どもの学校など手配が必要だ。あらかじめ行き先が決まっていなければ始まらない。単身の留学ならいざ知らず、行きあたりばったり、ともかく行ってから考えるというわけにはいかない。
 それに、児童文学はどこででも勉強できるものではない。勉強できるかわかりもしないで、行くのは暴挙だろう。
 一方、奨学金は、資金面のほかに、説得材料としてどうしてもほしかった。
 いきなり留学と言っても、だれが賛成してくれるだろう。奨学金をとれたなら、少しは留学を正当化できるし、ちゃらんぽらんな気持ちでないことが示せる。

 スペイン留学のガイドブックを読むと、スペイン語学留学という場合、行き先はたいてい、大学の1年履修の外国人コースか、公立や私立の語学学校のようだった。それ以外の情報はほとんどのっていない。だが、どちらも私が求めているものではなかった。子どもを連れていくのに、それだけでは足りない気がした。
 そこではじめに思いついたのは、その前年旅行で訪れた、サラマンカのヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団、国際児童図書センターだった。アナヤという大手出版社の創業者ヘルマン・サンチェス・ルイペレスが、青少年の読書推進を目的として、ミュンヘンの国際青少年図書館をモデルに1985年に設立した、スペインの児童文学研究の要とも言うべき機関だ。
 ミュンヘンの国際青少年図書館では日本の研修生を受け入れているという話だから、ひょっとしてサラマンカの国際児童図書センターも同様の制度があるかもしれない。1年なりあそこに身をおいて勉強できたらどんなにいいだろう。
 けれども、問い合わせへの答えはノー。数週間なら可能かもしれないが、何か月という単位での受け入れは前例がないし、日本やアジアがらみの仕事はないとのことだった。
 次にあたったのが、「読書へのアニマシオン」の著者サルト氏の率いるエステル協会だった。エステル協会は、スペイン文部科学省の要請で、「読書へのアニマシオン」の指導者講習のほかに、児童文学の専門家養成講座を開いていると聞いている。全部で200時間の大学院レベルの講座だそうだ。
 けれども、いくら催促しても返事は来ず、ノーと判断された。あとでわかったのだが、その養成講座は短期のプログラムで、継続的なものではないようだった。

 どうしよう……。
 ここにきてやっと私は、一か八か、大学で児童文学関係の研究をしている先生にあたってみようと決心した。
 目的からすれば、真っ先にここにアプローチしてもよさそうなものだ。なのに、なぜ二の足を踏んでいたのかと言えば、ひとつには、大学への正規留学はむずかしいと留学ガイドブックにあったからだ。それに、何の面識もない名の通った先生に、いきなり連絡することへの気後れもあった。
 でもほかにあてはないのだから、あたって砕けろだ。
 以前から目をとめていた3人の児童文学研究者の連絡先は、調べるとあっけなくわかった。ヘルマン・サンチェス・ルイペレス財団のレファレンスサービスで教えてくれた。
 どの先生からあたろうか。
 一番ひかれていたのは、バルセロナ自治大学のテレサ・コロメール教授だった。3人のうちの唯一の女性で、発表された文章を読む限り、私が関心のある児童読み物についていちばん詳しかった。
 それに、バルセロナだ!
 「スペイン」に住めればいいと言いながらも、心の底の底には、せっかくなら「バルセロナ」がいいという思いがあった。バルセロナは、1983年に卒業旅行の一人旅ではじめて訪れて以来、いつかは住んでみたいとあこがれ続けてきた町だった。
 でも……。バルセロナで本当に大丈夫かなあ。
 バルセロナは、スペイン語とカタルーニャ語のバイリンガル地域だ。子どもたちの学校の授業もカタルーニャ語。自分だって話せないカタルーニャ語の言語圏に子どもを連れていくなんて、無謀すぎやしないか。ちんぷんかんぷんの言葉がいっぺんにふたつも飛び込んできたら、子どもたちはどうなってしまうだろう。
 でも、実を言うと、カタルーニャ語は前々から学びたかった言語だった。カタルーニャ語の児童文学にも興味があった。
 ここでコロメール教授にあたってみなければ、一生後悔する。返事がくるかどうかわからないんだもの。ともかく問い合わせてしまおう。 
 今ほどメールが普及していない時代だった。いきなりメールは失礼な気がして、ファックスで手紙を送信した翌日、コロメール教授からメールで返事が届いた。
「手紙を読みました。それならうちの大学院で2年間勉強してはどうですか。中南米からの留学生はじきにカタルーニャ語をマスターしています。スペイン語が身についているなら大丈夫でしょう」
 やったー! 信じられない気持ちで、ノートパソコンに届いたメッセージを何度も何度も読み返した。
 大学院で2年? 大丈夫かな。2年なら長男が中学にあがらないうちに帰ってこられる。うん、大丈夫だよ。よーし、行ってしまえ。
 奨学金がとれようがとれまいが、9月には絶対バルセロナだ、と私の心は決まった。年が明けた1999年1月末のことだった。