ゴールデンウィークに、新宿のK's Cinema で『スリーピング・ボイス』を見てきました。
1940年、つまり内戦終結の翌年のスペインが舞台。フランコ政府が反政府勢力の撲滅に力を注いでいた頃です。この映画は、アンダルシーアから、ただ一人の身よりである姉が収監されたマドリードにやってきた娘が、なんとか姉を助けようと奔走する物語ですが、この主人公の女の子も、せつないほど気丈なお姉さんも実に魅力的。それ以外の女性たちも、多面的に描かれていて奥行きがあります。
私が見た日は上映後に、配給元の比嘉セツさんと、作家の星野智幸さんの対談があり、そこで比嘉さんが、この映画のおもしろさは、その時の状況を女性の視点で描ききっていることにあると言われて、なるほどと思いました。確かに、日本で紹介されている文学でも、こういったテーマのもので女性を主にした作品はわずかです。
スペイン内戦は1936年から39年。その後、フランコの独裁が1975年まで続くわけですが、今回、この映画を見て、「戦後」という言葉の持つイメージが、スペイン内戦後の実像を見えにくくしているのではないかと、はたと思いました。「戦後」というと、日本人は平和を想起しがちですが、スペインの内戦後というのは、言ってみれば、日本の戦前の状態。治安維持法ととりしまりの時代です。
また、この時代の「声」と「沈黙」について、再び考えされられました。
戦後スペインを代表する女性作家アナ・マリア。マトゥーテの子ども向けの作品、『きんいろ目のバッタ』(偕成社、絶版)には、口のきけない少年が出てきます。この作品について、長田弘さんは『読むことは旅をすること』(平凡社)の中で、「市民戦争の後、ナショナリズムがスペインぜんぶを渫(さら)ったフランコのスペインの時代に匿されていた、ブレナンのいわゆる「スペインの本当の声」のありかを、親しい秘密をつたえるように伝えた本」と評しています。
声をあげられないことは、この時代を知るキーワードのような気がします。
フランコ時代を舞台とする児童文学に、拙訳のエリアセル・カンシーノ著『フォスターさんの郵便配達』(偕成社)という作品があります。これについて、ネット書店で、「全体を通して、政治的な事柄や敗戦した側の心情をもう少し突っ込んで説明してもよかったのではないかと思いました。特にイスマエルを通して内戦後の社会の混乱を説明するくだりで、11〜12歳に語るのであれば、(もう少し大人の言葉でも)理解できるのにと強く思い、物足りなさを感じました。読者もその辺は敏感に感じると思います。」というコメントが載りました。
だって時代が違うのに、と私は思いました。この時代、そこに生きていた者たちが、直接的な表現で説明することができただろうかと。日本の戦後とは違うのです。
しかも、内戦と言っても、みながみな、自分の信条にそって戦ったわけでもありません。比嘉さんも語っていましたが、なんらかの仕方のない事情で、生きのびるために違う側で戦わざるを得なくなった人たちも少なくありませんでした。
フアン・ファリアス著『日ざかり村に戦争がくる』(福音館書店)では、反乱軍側の兵士にさせられないために、山にこもる男たちが出てきます。山にこもった者たちは、単に自分の愛する者たちに銃を向けたくなかっただけ。なのに、結局見つかって殺されます。
こういった時代を背景にした名作『黄色い雨』『狼たちの月』で知られるフリオ・リャマサーレスのTanta pasión para nada (激しくもむなしい情熱)という短編集の中にEl médico de la noche(夜の医者)という作品があります。民政移管後、レジスタンスをめぐる国際会議が、ある山間の村で開かれ、その何回目かの会議の際、当時のマキス(レジスタンス)の所持品が展示される。それを見たある老女が、自分の娘の命の恩人であるレジスタンスの若者が、政府軍の待ち伏せ作戦で亡くなっていたのを知るという物語です。老女は、自分の娘がレジスタンスの若者に救われたという事実を、その展示会を見るまで、共に立ち会った夫以外の誰にも話しませんでした。フランコ時代はもちろん、民政移管後も。フランコの恐怖はそれほど強いものだったのだとリャマサーレスは結んでいます。
「スリーピング・ボイス」を見て、この作品のことも思い出しました。あの時代の、どれほどの恐怖があったのか、この短編は私たちの想像力を押し広げてくれます。
映画好きな方なら、『パンズラビリンス』や『ブラックブレッド』も、改めて見てみるとおもしろそう。
それにしても、比嘉さんは、なんと次々と、さまざまな視点を投げかけてくれることか。今回もこの映画に出会えて感謝です。
映画『スリーピング・ボイス』は、新宿のK's Cinemaで6月12日まで。
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