バルセロナの日々(5)
もうひとつの問題は、奨学金だった。
スペイン留学のガイドには、3つの奨学金が紹介してあった。しかし、応募資格を見ると、かろうじて可能性がありそうなのは、スペイン外務省の奨学金だけだった。かろうじてと書いたのは、応募要件に「36歳までが望ましい」とあったからだ。私は年齢がオーバーしている。でも、「まで」ではなく、「までが望ましい」だもの、望みがあるかもしれない。
そこで、この奨学金で留学したことのある大学時代の友人にたずねてみた。彼女によれば、当時もこの条件はあったが、かなり年配の合格者もいたらしい。
よし、それならものはためしだ。
請求していた募集要綱が大使館から送られてきたのは1月はじめ。応募の締め切りは3月末日。スペイン語で用意しなければならないさまざまな書類があった。
ひとつ困ったのは、提出すべき応募書類の中にある、スペイン語能力検定の証明書がなかったことだ。だが、問い合わせてみると、ないのは不利だが、応募ができないわけでないことがわかり、一安心した。
書類のメインは、研究歴や職歴、留学計画の概要などを書いた申請書と、それに添える研究計画書だ。「行かせてやろう」と審査員が思ってくれるようにまとめなければならない。これには、何かと企画書を出させたがる職場で、曲がりなりにも7年勤めた経験が役立った。
もちろんスペイン語の表現力も試される。そこで、ひととおり書いたものを、友人のモンセ・ワトキンスに見てもらうことにした。モンセは、鎌倉に住み、日本文学の翻訳のかたわら、在日日系人のルポルタージュなども書いている、バルセロナ出身の女性だった。人間的で理性的な彼女の視点を深く信頼していたから、今回の留学について彼女がどんな意見を持つかも知りたかった。
待ち合わせの鎌倉駅に、自転車を押しながら、紺の作務衣で現れたモンセの姿を今でもはっきりとおぼえている。早春のうららかな日だった。そばやで腹ごしらえをしているとき、私は切り出した。
「カタルーニャ語がとっても不安だけど、どうしてもバルセロナ自治大に行きたいの」
すると、モンセは大きな目をあきれたように見開いて言った。
「手紙をもらったときから本気かなと思っていたけど、本当みたいだね。でも、カズミ、無理だよ。カタルーニャ語はスペイン語よりラテン語に近くて、語彙も音も違う。なんでマドリードやサラマンカにしないの? そのほうが子どものためにもいいよ」
「自治大の先生がいちばん興味のある研究をしているの。読むのはすぐできるというし」カタルーニャ語も繰るモンセの即座の否定的意見にかなり動揺しながらくいさがった。
「がんばろうというのはわかるけど、これは努力の範囲を超えてる。思ったことができないと、苦しむのはカズミだよ」
そうだろうか。私はただ意地をはっているのだろうか。
食事がすむと、小町通の入り口にある昔風の喫茶店に移った。私はなんだか心細い心地で、書類の文字をたどるモンセの手元を目で追っていた。すると、モンセがいきなり笑い出した。「年をくっているけれども、学びたいという意欲はかえってあるつもり」と、留学への意欲を訴えた箇所にきたときだった。
「『年をくっている』ねえ……。その年になって、子どもを連れてでも勉強しに行くというのは、若いときの留学の何倍も貴重なことだよ。私はたいへんだと思うし、別の場所にしたほうがいいと思うけど、そこまで言うなら、がんばったら」
このときの、モンセのあたたかなまなざしを思い出すたび胸がいっぱいになる。これがモンセと会う最後となったからだ。モンセは私が留学中の2000年秋、ガンが再発し帰らぬ人となった。
「ほんとにたいへんだった。でも、行ってよかったよ」と、一番に報告をしたい人のひとりがモンセだったのに。
「ほんとにたいへんだった。でも、行ってよかったよ」と、一番に報告をしたい人のひとりがモンセだったのに。
書類が整い、投函したのは3月20日頃だった。
書類審査に通れば、4月になって連絡があり、面接に進めるらしい。何人受けるのかも、何人受かるのかもわからない。でも、倍率は気にならなかった。「研究計画書」に、書けるだけのことは書いた。やれるだけのことはやった。落ちたらくやしいけれど、悔いはない心境だった。
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