初めての訳書が出たあと、しばらく著作権のエージェントで働いていたことがあります。もっと翻訳をがんばろうと、辞書の原稿整理や校正の仕事をやめたものの、翻訳の仕事はなく、元手も尽き、どこかで働けたらと門を叩いたのが、日本著作権輸出センターでした。
一度は断られましたが、その後、声をかけてもらって入社テストを受け、週3日のパートで、社長の栗田明子さんのアシスタントをさせてもらえることになりました。1997年の秋、長男が小学2年生、長女が保育園の4歳児、次男が2歳児のときでした。その後、1999年に留学のために退社し、もうご縁がないかと思っていたら、帰国後、また声をかけてもらって2年弱、全部で4年くらい、働いた計算になります。
株式会社日本著作権輸出センター、JFCは、日本の作家の著作権を海外に売ることを専門にしている著作権エージェントです。当時、現社長の吉田さんは児童書を、文芸書は栗田さんが担当し、毎年フランクフルトブックフェアで売りこみをしていました。アシスタントとして何をしていたかというと、契約が成立したとき、日本語や英語で契約書で起こしたり、英語の契約書の訳文を作ったり、出版社や著者に契約書にサインをお願いしたり、こんな条件でオファーがあるがどうかという手紙の下書きを書いたり、といったことです。
それはもう楽しい毎日でした。というのも、それまでの数年、育児中心でほとんど家を出ることができず、文化的な刺激に飢えていたからです。5時に退社すると、決まった電車に遅れまいと、いつも小走りで保育園の迎えに向かい、帰れば子どもたちの食事やお風呂や翌日の準備で毎日が闘いでしたが、最近話題の本のこと、出版社のこと、作家のことなど、会社で触れる何もかもが新鮮でうれしかったものです。あ、それが本題ではありませんでした・・・。
書こうと思っていたのは、栗田さんことです。栗田さんは、日本の作家の版権を海外に売る、まさにパイオニアでした。栗田さんが書いた『海の向こうに本を届ける 著作権輸出への道』(晶文社、2011)という本は、まさに武勇伝。読むと、びっくりすることうけあいです。著作権の仲介という仕事にどうやって出会い、どんな仕事をし、どんな作家を売り込んできたのかが、歯切れのよい文章で綴られています。若い頃の栗田さんの思い切りのよさ、粘り強さ、機転や創意工夫の精神は驚くばかり。そしてなんと正直でチャーミングなことか。
どうしたらいいのか、きっとわからないことだらけの仕事だったでしょうに、栗田さんは、それならどうすればいいのだろうと、自分で考え、体当たりで道を切り拓いていくんですね。だからこそ、ちょっとやそっとのことでは負けない。それが、ほんとうにすごいんです。
この本の184ページには、小川洋子さんの作品をアメリカに売り込んだときの話が出ています。ちょうど私がアシスタントをしていた頃のことで、ピカドールという出版社の編集者さんと一緒に、私もお蕎麦屋さんに連れていってもらいました。また、314ページからは、柳美里さんの『ゴールドラッシュ』のこと、柳さんに引き合わせてもらって初めて会ったときのことが書かれています。「今度サイン会で、柳さんにお会いする」と栗田さんが話していたのを、今も覚えています。とても嬉しかったに違いないのに、そういうときも決してはしゃがず、むしろ興奮を抑えたような口調で話していたように記憶しています。
昨年、小川洋子さんの『密やかな結晶』がブッカー賞候補になり、柳美里さんの『JR上野駅公園口』が全米図書賞を受賞したというニュースを見て、栗田さんのことを思い出していました。日本の女性作家の作品の海外での躍進が語られますが、栗田さんの業績はその礎になっているはずだと。
翻訳者として出版社に作品を売り込むとき、やりたい作品は何があってもへこまず、トライし続けるというのは、栗田さんから学んだことかもしれません。本が海を越えるのは、簡単なことではなく、時には5年、10年とかかりますが、諦めなければ、どこかで縁がつながることもあるものだと。
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