一昨年くらいから母は、「そうね」とか「はい」くらいしか答えず、しゃべる言葉も不明瞭で、何を言っているか聞き取りにくくなっていたのに、夢の中の母は、携帯で電話をかけてきていた頃のように、明るい声で話しかけてきた。
現実に戻って携帯を見ると、泊まりこんでいた姉から午前5時20分に「体温36.8度、酸素飽和度88、体温(ママ。血圧の間違い?)測定不能。脈は首筋でしか測れず。足裏にチアノーゼ、急に出てきました。そろそろ疲れてきてしまったようです。」というLINEが入っていた。
そして、大晦日からは私も泊まりこみ見守るなか、2日の午前4時半ごろ、母の呼吸が止まった。享年90歳。
法名は「釈和顔(わげん)」。無量寿経にある「和顔愛語 先意承問」という言葉からとったとのこと。姉と私は、母の繰り言もさんざん聞いて、勝ち気なところも見てきたが、孫たちは、「おばあちゃんはいつもにこにこしていて、やさしかった」と口をそろえていう。母らしい名前がうれしい。
昔、電話交換手をしていた母は声が自慢で、子どもや孫に本を読んでやるのが好きだった。子どもの頃、本を楽しむことのできなかった母は、姉と私が寝る前に物語の本を少しずつ読みながら、自分も楽しんでいたのだろう。夢見る少女のようなところのある人だった。
得意だったのは怖い話だ。赤ん坊のミルクを買うお金がなく、いけないと知りつつお寺の賽銭箱のお金を盗んでいた女の素話は忘れられない。あるとき賽銭箱のところにいた男に、このところ、お金を盗まれて困っていると言われた女が、いったい誰がそんなことを、とたずねると、「それは、おまえだ!」。いきなり大きな声で母が言い、私たちは自分に言われたような気がして、怖くて震えあがった。細部は記憶違いがあるかもしれないが、とにかく怖かった。姉の子たちは、母に絵本を読んでもらった思い出がたくさんあって、『さんまいのおふだ』はものすごく怖かったと言っていた。
年の近い孫7人がひさしぶりにそろい、葬儀のあとの会食はにぎやかで、大いに食べて飲み、解散のあと、男子4人は麻雀にくりだしていった。
お正月は、姉と私の家族が集まって、百人一首をしたりトランプで大富豪をしたりするのが恒例だった。みなが集まるのをいつもとても楽しみにしていた母は、子どもたちが大勢でふざけあう姿を見たら喜んだことだろう。
どこか呆然としていて、まだ言葉が出てこない。こういう気持ちにも、だんだん慣れていくのかな。
2018年9月 思い出の地、直島で
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