奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。
「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
来ていいんだ!
その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。
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