2015年10月18日日曜日

バルセロナ到着

バルセロナの日々(11) 

到着の日
バルセロナ、プラット空港で
 翌日の朝、ホテルからタクシーでシャルルドゴール空港に向かった。ゆっくりと休んだが、疲れていたのだろう。私のひざにもたれてタイシが途中で眠りこんでしまった。ぶあいそだった黒人の若い運転手さんが、それを見てふっと笑ったのがサイドミラーにうつり、ゆかいな気分になった。
パリからバルセロナのフライトは2時間足らず。日本からのフライトと比べれば、あっという間だ。

「もう飛行機乗らないんだよね」
 着陸したとき、アキコがうれしそうにたずねた。気持ちがよくわかった。
 出口に向かう免税店のあいだの通路までくると、勝手を思い出し、私の足取りも軽くなる。今度はこの子たちもいっしょなんだ。普段着に運動靴、水筒をさげリュックをしょった3人がいとおしい。
 ふいに、ドラゴンズの青い野球帽をかぶった長男ケンシに、バカンス帰りふうのおじさんが声をかけてきた。戸惑いと照れの入りまじった顔で、「なんて言ったの?」といいたげにふりかえるケンシ。「『おう、チャンピオン!』って言ったんだよ。かわいいと思ったんだよ。だいじょうぶ」
 ああ、スペインだなあと思った。通りすがりでも、すっと声をかけてくる人間と人間の距離感。まるで子どもたちへの歓迎の挨拶のように飛び込んできた言葉。アキコは、ピンクのヘアバンドの両側に2,3本ずつ飾りピンをつけてぴっとおでこを出し、ものめずらしげに瞳を輝かせてすたすたと歩き、一番下のタイシは私にべったりとくっついている。
 ほんとにようやくたどりついた。来てしまったんだという実感がわきあがってきた。
 出口ではハルちゃんが待っていてくれた。ハルちゃんは私たちよりひと足先にバルセロナ入りしていた。喜びいっぱいの再会だった。

 電車を乗りついで、サルダニョーラに到着。駅のそばの中華料理屋で奇妙奇天烈な中国料理を食べ、4時半に不動産屋さんに行った。大家さんのマルタはもう来ていた。契約書をひととおり読み合わせて双方でサインをし、1ヶ月分の家賃と1ヶ月分の敷金、1ヶ月分不動産屋さんへ手数料を払ったら手続きは終了。あっけないほど順調だった。
 子どもたちと荷物を見るとマルタは、「車で送ってあげるわ」と申し出てくれた。お言葉に甘えて、スムーズにアパートに到着。
 アパートの入り口で遊んでいた高学年くらいの男の子が、東洋人の一家を目を丸くして見た。中に入ると、子どもたちは大はしゃぎで家中を見てまわった。「広ーい!」と気に入ったようす。4つあるベッドルームの部屋割りをまず決める。
 ハルちゃんに1部屋。私に1部屋。残りのツインとシングルの部屋をどうわりふるかが問題だった。3人とも1人部屋へのあこがれがある。でも、1人で寝ることを考えると、アキコとタイシは尻込みし、1人部屋はケンシのものとなった。
 一休みしてから、食料や野菜、トイレットペーパーやシャンプー、シーツなど、当面必要なものを買いにいった。

2015年10月9日金曜日

いざ出発

バルセロナの日々(10)


 出発は9月6日に決めた。学生ビザの場合、法的には授業の始まる二週間前からでないと入国できない。守らなくてもばれやしなかったのかもしれないが、カタルーニャ語の語学クラスの開始日から逆算すると、一番早いのがこの日だった。
 奨学金の通知を受け取ってからの1ヶ月は慌ただしかった。
 8月中に、学生ビザ(子どもたちは、学生の家族ビザ)の申請をし、航空券の手配をした。ビザをとるには、戸籍謄本をとりよせた上、外務省でアポスチーユ認証というのをもらうなど、思いもよらない手間がかかった。
 心配なのは飛行機だった。大人1人でもしんどい長時間のフライトだ。3人はおとなしくしていてくれるだろうか。しかも、バルセロナに行く直行便はない。正午ごろ成田を発って、12時間のフライトで日本の夜中にヨーロッパに着き、待ち合わせを入れるとそこからさらに4、5時間はかかる計算だ。大丈夫だろうか。3人とも眠りこけてしまったら身動きがとれない。着くとバルセロナは夜だというのに。
 考えた末、トランジットのパリで1泊することにした。そうすれば、一休みして、翌日昼ごろにバルセロナに着き、そのまま家の契約に行ける。
 9月に入ると、いよいよ秒読みに入った。
 ベランダの鉢植えを近所の人にあずけたり、着られなくなった子どもの服を処分したり、冷凍庫の買い置きを片づけたり、身の回りをどんどん軽くしていった。
 毎日ふだんどおりにすごしてきた子どもたちも、夏休みが明けると、担任の先生とクラスメイトから励ましをいただいて送りだされ、ようやく気持ちが切りかわった。
 そして、9月6日。とうとう出発の朝が来た。
 3人の子連れの移動は、どんなに余裕を見ていても時間がおせおせになるものだ。保育園に送っていたころも、「さあ、行くよ」と声をかけてから、3人そろって玄関を出るまで30分かかるのはざらだった。
 前の晩、明け方近くまでかかって準備をしたにもかかわらず、成田に行くこの朝もそうなってしまった。ほとんど駆けるようにして電車にとびのり、新宿でリムジンバス乗り場についたのは発車の5分前。新宿まで送りにきてくれたつれあいと、別れの惜しむひまもなかった。リムジンの席もばらばらになってしまった。
 さらに、新宿を出て30分すぎたころから、タイシとアキコが酔いだした。うかうかしているうちに成田エクスプレスの切符がとれなくなったことが悔やまれた。電車にすべきだったのに。一人旅ならリムジンに乗ると、スペインに行くんだなあという感慨が湧いてくるのに、日本を離れる感傷にひたるどころではない。
 成田空港に着くと、見送りにきてくれた私の両親が待っていた。長旅はあきるだろうと、おもちゃをプレゼントしてくれる。さっきまでの青い顔はどこへやら。タイシとアキコはたちまち元気になった。現金なものだ。忘れないうちにと、私も冷蔵庫からさらえてきた野菜を母に渡した。とことんケチな性分だ。
 荷物をあずけ、喫茶店で人心地ついたとき、孫の写真をパチパチととっていた父が、水のコップを倒した。あっ。とっさにおしぼりでふく母。ニ人ともそわそわしているのがわかった。鼻の奥がツーンとなった。
 ゲートに入るとき、ならんで手をふる、小さな母と帽子をかぶった父に手をふりかえしていると、涙がこぼれてきた。やるといいだしたらきかない、いい年をした強情な娘を心配しながら見送りにきてくれた両親。なんの因果かこんな娘に育って、二人ともどう思っているのだろう。 2年間孫に会わせることもできない。私の涙に、子どもたちはキョトンとしていた。「なんで泣いてるの」と、タイシがたずねた。
 元気でいてね、私、がんばってくるからね、と胸のうちで言った。
 出国審査をぬけて出発ロビーについても、子どもたちはひょうしぬけするほど普段どおりだった。ちょっとしたきっかけですぐふざけだし、ちっとも落ち着かない。飛行機に乗る前にこれだけは言っておこうと思っていたことを、私は伝えることにした。
「ここからは日本じゃないんだよ。あんたたちのパスポートはおかあさんが持ってるから、迷子になったら、会えなくなっちゃうよ。おかあさんのあとをしっかりついてきてよ。それから、自分の持ち物は自分でしっかりと持っててね。置きっぱなしにしたら、すぐなくなっちゃうよ。自分のとなりに置くときも、ぜったい手をはなしちゃだめよ」
 見ているつもりでも3人いると、ときどき一人が意識の外に出てしまうことがある。私は視力にも自信がない。だから、はぐれないように3人が自分から気をつけてほしかった。それに、手荷物のリュックに詰まっているのは、着替え3組とパジャマとお気に入りのおもちゃ、筆箱、色鉛筆、はさみなど最低限の文房具は、最低限の身の回り品だ。バルセロナまで無事持っていってくれないと困る。
 子どもたちははじめての飛行機にまいあがっていた。ベルトをしめると、忙しく前のポケットに入っているものをすべてとり出し、ヘッドホンをはめてみて、テーブルを出し、いすを倒して注意された。
「おかあさん、これ開けていい?」「おかあさん、お菓子だしていい?」「おかあさん!……」「おかあさん!……」
 ああ、やかましい。そういえば、ここ数年で何回か私は飛行機に乗ったけど、そのときはいつも子どもから解放された旅だったんだっけ。でも、今日はみんないっしょ。いつも大人として楽しんでいた空間。子どもたちはまるで異分子だ。
 子どもたちはちょっとおとなしくしていたかと思うと、こぜりあいからけんかをし、ヘッドホンのプラグがへんなふうにはまってしまったの、もらった飲みものをこぼしたの、機内食をめずらしがってつついてみたものの、「おかあさん、これ残していい?」「おかあさん、ケーキだけ食べてもいい?」とほとんど手をつけず、機内が仮眠のために暗くなっても騒ぎ続け、何度もほかの乗客から注意を受けた。
 3人がようやく眠りこんだのは、着陸の2時間前。パリに着いたときには、出したおもちゃや本をかたづけさせるのがこれまたひと苦労だった。

2015年9月18日金曜日

スペインの本屋さん

今月前半、久しぶりにスペインに行ってきました。楽しみは本屋さんめぐり。30数年前、初めて行ったとき、恩師に教えられてたずねたマドリードのグラン・ビア通りにあるCasa del libro は今でも健在。旅行のたびに、必ず立ち寄る本屋さんです。
今回は、マドリードのほか、セビーリャ、へレスの本屋さんにも行きました。立ち寄った順に紹介してみようと思います。


 La extravagante (Alameda de Hércules 33, Sevilla)

セビーリャのアラメダ公園ぞいのオルタナティブな地区にあるおしゃれな本屋。

もらった紙袋には
Historias en tinta y papel para gente extravagante
(とっぴな人々のための紙とインクの物語)の文字が。

La extravaganteの店内。雑貨や絵も置いてあります。








Rayuela (José Luis Luque, 6, Sevilla)


La seta のすぐそばにある児童書店。
開店10年を迎え、読み聞かせなどもしています。

選書の相談にものってくれます。



Un gato en bicicleta (Sevilla)

La setaから少し入った通りにあります。El jueves のがらくた市(骨董市と言うべきか)の通りのそば。やはり店内には雑貨もあり。



La Luna Nueva (Eguilaz, 1, Jeréz de la Frontera)

写真は児童書売り場ですが、大人の本もあります。
子どもの本売り場は、昔ながらのペーパーバックの読み物も充実しており、上橋菜穂子さんの『精霊の守り人』もありました。

地元の作家や画家などが作った、ナンバリングをした手づくりの本も見せてくれました。



Mar de Letras (Santigao, 8, Madrid) 

マヨール広場から、旧サン・ミゲル市場のほうに出て、オペラ方面に抜ける通りぞいにあります。







赤ちゃん絵本からYA,そして専門家向けの理論書まで、幅広くとりそろえています。地下にちょっとしたイベントスペースもあり。
近年の赤ちゃん絵本の充実を実感しました。

見ていたら、図書館員ふうのお店の方が、わらべ歌にのせてリズムをつけて読んできかせてくれました。



Tipos Infames  libros y vinos (San Joaquín, 3, Madrid)

「最近できたおもしろい店がある」と友人に教えてもらった店。「本とワイン」と店名にあるように、ワインのテイスティングもできるし、店内でお酒やコーヒーも飲めます。

地下がイベントスペース。

Selva Almada の本を買ったら、「火曜日にその作家来ますよ」とのこと。惜しい! 私は日曜日の夜に帰国でした。
写真の奥の右にうつっているひげの若い店員さんは文学に詳しく、私がたずねたら、いくつも関連の本を出してくれました。

下北沢のB&Bみたい。



Panta Rhei (Hernán Coretés, 7, Madrid) 

美術関係の本が充実しています。日本のPie Books の本が何冊も並んでいてびっくり。ロンドンの業者からとりよせているそうです。 絵本もたくさんあります。

Kiriku y la bruja (Rafael Zarazar Alonso, 17, Madrid)

レティーロ公園の東側にある、子どもの本の専門店。

La Central (Postigo de San Martín, 8, Madrid) 

バルセロナに本店がある、文学の強い書店。マドリードの店は、1階にカフェがあります。

Rikkitikkitavi (Santiago, 4 , Madrid)

本屋さんではないけれど、イラストレータのTeresa Novoa さんが経営しているTシャツなどのお店が、Mar de Letras と同じ通りにあります。はじめて出した絵本が学研のワールド絵本シリーズの2点で、ブリュッセルにいる息子さんが日本好きだとのこと。
Tシャツは、みんなオーガニックコットン。赤ちゃん用からあるので、プレゼントにもいいですよ。

















2015年8月11日火曜日

サルダニョーラのアパートへ

バルセロナの日々(9)


 でも、祈っていただけではない。留学生課の人に会う前に、ひとつ、やっておくことがあった。
「ラ・バングアルディア」という新聞の不動産欄をあたってみることだった。バルセロナで最もポピュラーな新聞、ラ・バングアルディア紙には、日曜日を中心に不動産の欄がある。市内の不動産情報は、これが一番詳しいと聞いていた。
 バルセロナに着いてから一応チェックはしてみていたが、寮というあてがあったし、新聞で物件を見つけたところですぐ契約できるとは思えなかったので、ざっと眺めただけだった。これは、もう一度きちんと見てみなければ。市内ならいくらくらいでアパートが借りられるのか確かめておきたいし、アパートの事情ももう少し通じておきたい。コンパクトな市街地図を買いこんで、地図と首っぴきで物件を調べはじめた。
「○○通り、○部屋、家賃xx」等、びっしりと字が並んだ不動産欄。見ているうちに、少しずつ事情がわかってきた。通りと番地がわかれば、地図ですぐ位置が確かめられる。スペインのアパートはたいてい、居間兼食堂と寝室という構成なので、寝室がいくつあるかが、家の大きさの目安になる。複数の寝室がある場合、ひとつは夫婦の寝室、つまりダブルベッドかツインが入る部屋だ。家具付と明記していなければ、家具なしの物件。ためしに何軒か、電話で問い合わせてみた。
 家賃は、全体に、日本の住宅と比べると安い感じだった。ほとんどは、前にハルちゃんにきいた金額の半額以下だ。家族寮くらいの家賃のところもたくさんある。
 見ているうちに、やっぱりバルセロナ市内がいいや、大学の寮にしなくてかえってよかったかもしれない、と楽天的な気分になってきた。
  
 翌日、事情を話すと、留学生課の年配の女性は言った。
「バルセロナ市内は、アパートをさがすのも小学校をさがすのも難しいわよ。その点、ここサルダニョーラなら大学に近いし、アパートは安くてさがしやすい。バルセロナだと、たとえ家が見つかっても、遠くの小学校に通わせなくてはならない可能性があるけれど、サルダニョーラなら、きっと歩いていける小学校が見つかるわ。サルダニョーラにしたらどう? 子どもと住むならそのほうがいいわよ」
 まったく予想していなかった展開だった。寮でなければバルセロナ市内と、勝手に決めつけていたからだ。
 どうしよう。自治大のあるベリャテラは、サルダニョーラ市の一部だというが、サルダニョーラという名前自体、それまで聞いたこともなかった。子どもとならそのほうがいいって、本当だろうか。
 でも、きっとそうなんだ。ずっと学生の世話をしてきたこの人が言うのだもの。私一人の力であたっても、この旅行中に家は決められないだろう。ここで忠告をきいて、ともかく落ち着き先を決めておくのが得策かもしれない。9月に子どもを連れて来てから家をさがすのは、おそらく不可能だ。大学までバスで15分くらいだというし、カタルーニャ広場から国鉄で20分ほどだというから、バルセロナに出るのもそんなに不便ではない。どうしてもいやなら、あとで引っ越しという手もある。1分くらいの間に、そんなことを思いめぐらした。
「あさってには日本に帰らなければならないので、それまでに決められるなら決めたいんですけれどどうしたらいいですか」
 サルダニョーラにしようと決断して、私はたずねた。
「不動産屋に物件があるかどうか電話してみましょう」
 係の女性は、「寝室はいくつ?」「家具付? 家具なし?」と途中で条件を確認しながら不動産屋に電話で問い合わせてくれた。すると、4つ寝室のある家具つきのアパートが3軒あるので、その日の午後案内してくれるという。しかも、値段をきいてびっくり。高いところで月8万7千ペセタ。安いところだと6万8千ペセタ。あのキャンパスの寮よりも、ラ・バングアルディア紙で見た市内の物件よりもずっと安い。
 サルダニョーラという町と大学とバルセロナの位置関係さえわからないまま、教えられた大学内の停留所からバスでサルダニョーラに向かった。運転手さんにたずねて、サルダニョーラの役場前の停留所でおろしてもらい、留学生課でもらった地図だけをたよりに、約束の地点に午後4時半に行った。

 不動産屋の人は、私と同年輩のパート社員ふうの女の人だった。電話では3軒と言ったけれど、1軒はもう決まってしまって見せられるところは2軒しかない、と言ってから、車に乗せられた。客を案内する仕事の割には口数が少ないが、いやな感じはしなかった。短い丈のTシャツの下からは、細いとは言えないウェストとおへそがのぞいている。こんなくだけた服でお客さんを案内するのも国柄かしら。車で案内してくれるとは親切だなあと思ったのだが、これは留学生課で紹介してもらったからだったようだ。
 1軒目は、日本の団地のようなアパートだった。7階か8階にあったアパートは、寮よりはよさそうだったけれど、ぴんとこなかった。全体にほこりっぽく、子どもが落ちてもふしぎでないくらいベランダの手すりが低いのが気になった。
「どう?」と聞かれて、こんなときどんなふうに答えればいいんだろうと口ごもっていると、「まあ、いいわ。次のを見てから考えて」と言われた。
 そして、2軒目。大家さんがくるはずだからと、アパートわきの植え込みの縁石に座って待つこと10分。鍵を持って大家さんが現れた。30前後の、めがねをかけた、色白でふっくらとした顔だちの、感じのいい女の人だった。
「まだ男の子たちがいるんだけど、7月ちゅうには出ていくことになっているし、ことわってあるから自由に見てちょうだい」といって、案内されたのは、6階建てのアパートの2階。室内を見て、私はひと目で「これだ!」と思った。
 家族寮のよりずっとしっかりしていそうな居間の家具。壁はやわらかい色のペンキが塗られ、どの部屋にも勉強机と本棚、ベッド、たんすがそなえつけてある。今使っている男の子が貼ったのだろう。奥の部屋の壁のドラゴンボールのポスターを見て、気持ちがなごんだ。台所も使いやすそうだ。洗濯機も冷蔵庫も新しいし、食器も鍋釜もひととおりついている。何よりも、全体にこぎれいな感じがする。まわりにはお店も病院も学校もあるという。これで家賃が7万5千ペセタ(当時の相場で約5万円)なら、寮のテラスハウスより格段にいい。
 もうひとつ気に入ったのは、街の雰囲気だった。10階だてくらいのアパートが建ち並ぶ間に、ちょっとした遊び場や木立があるようすは、今住んでいる場所と雰囲気が似ていた。生活観のある街だ。子どもをひとりで歩かせられないときく市内より、こういうところのほうが、確かに子どもには住みやすいかもしれない。
 よし、決めた!
 こんなにすぐ決めていいものだろうか。でも、決断のしどきだと思った。
 予約の手続きは簡単だった。手付けとして1ヶ月分のお金を置いていけば、9月に正式な契約をするまで、それまでの家賃は払わなくてもとっておいてくれるとのこと。外国人というとアパートも借りられない日本を思うと、パスポートと大学の紹介だけで、あっさりと外国人にアパートを貸してくれることだけで驚きだった。
 手付け金の領収書と予約を証明する書類をもらい、とりあえず家の問題がかたづいた。だまされてたらどうしようという疑いが、ちらっと頭をよぎったけれど、留学生課経由だから信じてしまうことにした。これで9月にくれば家はあるはず。
 大きな課題が思わぬ方向で解決し、再び希望がわいてきた。

2015年7月19日日曜日

家族寮の夢やぶれ

バルセロナの日々(8)


 次なる懸案は住むところだ。私たちは、母子4人プラス1名が住める家を確保する必要があった。
なぜプラス1? それは、ハルちゃんがいたからだ。
 ハルちゃんは、卒論の資料提供が縁で知り合った大学の後輩だった。私よりひと回り以上若かったが、バルセロナ好きと児童文学という共通項で親しくなり、1997年のスペイン旅行に同行してくれた仲でもあった。
 行き先をバルセロナと決めたとき、すぐさまハルちゃんのことが頭に浮かんだ。ちょうどその頃、ハルちゃんはバルセロナに留学していたからだ。
 1年滞在を延ばして、いっしょに住んでもらえないかな。
 ふいに、そんな考えが浮かんだ。
 同居してもらえたら、どんなに心強いだろう。共同で借りれば家賃も安くあがる。ハルちゃんも、もう少し勉強したいと思っているかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきだったが、人生のタイミングというものだろうか。ハルちゃんはすぐにオーケーしてくれた。ありがたかった。「母子4人じゃないんです。前から留学している後輩もいっしょなんです」という説明は、留学をめぐる周囲の奇異の目からの緩衝材にもなった。
 もっとも、ストレスいっぱいの不安定な母子に1年つきあわされたハルちゃんはたまったものではなかっただろう、と今になってつくづく思う。これについては、後であらためて書きたい。

 バルセロナ市内に下宿していたハルちゃんは、6月の一時帰国したが、それまでにバルセロナのアパートのことを調べてくれた。けれども、ハルちゃんの友だちで、子連れでバルセロナにきているという人が借りていたアパートの家賃は、私の奨学金の3倍、とても手が出なかった。その地区は、ペドラルベスという高級住宅街だとあとで知ったが、その時は、バルセロナはどこもそんな値段なのかしらと、暗澹とした気分になった。
 旅行者として行ったことしかない私には、バルセロナの住宅事情も土地事情も見当がつかなかった。
 そんなとき、自治大学のキャンパス内に家族寮があるという情報をもらった。インターネットで調べると、家賃105,000ペセタ。4LDKの3階建てのテラスハウスだった。家具つきなので、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品や食器もついていてすぐ住める。よさそうだ。
 ただし、問題がひとつあった。子どもの学校だ。コロメール教授によれば、キャンパス内にも公立の小学校があるが、空きがないらしかった。「空きがない」とは、いったいどういうことだろう。住んでいる地域で自動的に学校が決まる、日本の公立小学校の制度からすると、わけがわからない言葉だった。公立の学校でも定員があるのだろうか。学校のことは、住宅事情以上に不明なことだらけだった。
 ともかく、7月の旅行で家族寮の見てみよう、そのうえで、子どもの学校のことや市内のアパートのことを留学生課の人にきいてみようと決心した。

 家族寮は大学のキャンパス内、カタルーニャ鉄道の駅を降りて、教育学部とは反対方向に行ったところにあった。
 駅から上り坂を歩くこと10分あまり。両脇に夏草がぼうぼうしげり、じりじりと夏の太陽が照りつける片側一車線の道だ。たちまち喉がカラカラになった。これが本当に大学の中かと疑いたくなる。寮の事務局まで、歩いている人とはひとりも出会わなかった。
 寮の事務局は、キャンパスの端っこにあるホテルの隣にあった。アポイントメントをとっていた係の女の子が、さっそく連れていってくれたのは、事務所から駅のほうへ少し戻ったところにあるテラスハウスだった。7,8軒の家が連なった箱のような建物。女の子は、左から2軒目の家の鍵をあけた。
 中に入れてもらって愕然とした。
 確かに家具つきの4LDKだ。でも、ついている家具といったら、まるでベニヤをはりつけたみたいなしろものだし、壁も床もコンクリがむきだしだ。とても素足ではたえられそうにない。この殺風景なコンクリートの箱を子どもたちがほっとできる空間にできるだろうか。カーペットを敷いたり、壁に何か貼ったり、かなり手を入れないといけないなと直観的に思った。
 それに、まわりにお店もない。こんなところで、どうやって家族4人の胃袋を満たすだけの買い物をできるだろう。女の子に思わずたずねた。
「みなさん買い物はどうしているんですか」
「車ですぐのところにスーパーがありますから」
「でも、私、車を持つつもりはないんです……」
 案内の女の子は黙りこんだ。
 それに、10軒たらずのテラスハウスで、子どもたちの友だちが見つかるだろうか。こんなさびしいところで、どうやって暮らしていけるだろう。
 ここじゃだめ。絶対にだめ。
 家がすごく快適なら、思いきってここに決めて、子どもの学校の問題はあとで解決することも考えられる。でも、快適でもないのに、不便さを我慢しながら、わざわざここに住むことはない。
 家族寮に住むという考えは、私の中で完全に消えた。
 仕方がない。留学生課の人と相談してから考えよう。
 留学生課の人には、その翌日、会うことになっていた。どうかいい展開になりますように、と祈るような気持ちだった。

2015年7月3日金曜日

翻訳は難しい

昨夜は、セルバンテス文化センターで、柳原孝敦さんの講演「翻訳は難しい」を聞いてきました。

先日、私自身も、3名の児童文学翻訳者とのイベントをジュンク堂池袋本店でしましたが、翻訳の話というと、自分でもよく足を運びます。最近では、〈ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界〉のトークイベントや、ラカグであった、酒井順子×中島京子×鴻巣友季子「すべての女はスカーレット・オハラである~『風と共に去りぬ』に愛あるツッコミを入れる~」 も行ってきました。

柳原さんのお話も、例にもれずおもしろく聞きました。
セサル・アイラのCómo me hice monjaのことも、¿Querés c...? のことも、La Nación の記事のタイトルや最後の呼びかけのこと、ボラーニョの通話のbueno・・・

そういった微細な事柄をどう日本語にしていくかという話を聞いて、やはり翻訳家というのは、日本語力が必要なんだなと思った方も多いと思いますが、私は同時に、前提になっているのは外国語の読解力だな~、と思いました。

小説家は、物語の中のちょっとした言葉にも、何かのニュアンスや示唆、時代の空気や人物像の雰囲気などを負わせていますが、ひととおり文法を終えただけの読解力だと、なかなかそういった個性までたどりつけません。読書の経験値が必要です。
翻訳の過程で、よくネイティブに確認することがありますが、その疑問が、「単純に自分がスペイン語をわかっていないのか、それとも、この作家のスタイルの問題か、はたまた、この登場人物の発話ゆえか」が、大いに問題であることもしばしば。
読みによって、翻訳者は鍛えられます。
意識的な読書は、翻訳者にとって筋トレですね。だからといって、読書の愉しみが減るわけではなく、「そうか!」と気づいて、ひとりニンマリしながらのトレーニングです。

最終的には、翻訳者の裁量で日本語となって伝えられていくのが、おもしろくもあり、おそろしくもあり。
柳原さんのお話は、学者としてのアプローチに加え、多数の翻訳の経験からくる、やや職人的な実感もこもっているようで、興味深かったです。

2015年7月1日水曜日

テレサ・コロメール教授

バルセロナの日々(7) 

 奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
 テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
 初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
 住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
 コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
 さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
  
 バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
 鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
 カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
 
 キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
 電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
 研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
 白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
 電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
 と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
 教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
 壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
 ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。

「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
 来ていいんだ!
 その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。