2015年8月11日火曜日

サルダニョーラのアパートへ

バルセロナの日々(9)


 でも、祈っていただけではない。留学生課の人に会う前に、ひとつ、やっておくことがあった。
「ラ・バングアルディア」という新聞の不動産欄をあたってみることだった。バルセロナで最もポピュラーな新聞、ラ・バングアルディア紙には、日曜日を中心に不動産の欄がある。市内の不動産情報は、これが一番詳しいと聞いていた。
 バルセロナに着いてから一応チェックはしてみていたが、寮というあてがあったし、新聞で物件を見つけたところですぐ契約できるとは思えなかったので、ざっと眺めただけだった。これは、もう一度きちんと見てみなければ。市内ならいくらくらいでアパートが借りられるのか確かめておきたいし、アパートの事情ももう少し通じておきたい。コンパクトな市街地図を買いこんで、地図と首っぴきで物件を調べはじめた。
「○○通り、○部屋、家賃xx」等、びっしりと字が並んだ不動産欄。見ているうちに、少しずつ事情がわかってきた。通りと番地がわかれば、地図ですぐ位置が確かめられる。スペインのアパートはたいてい、居間兼食堂と寝室という構成なので、寝室がいくつあるかが、家の大きさの目安になる。複数の寝室がある場合、ひとつは夫婦の寝室、つまりダブルベッドかツインが入る部屋だ。家具付と明記していなければ、家具なしの物件。ためしに何軒か、電話で問い合わせてみた。
 家賃は、全体に、日本の住宅と比べると安い感じだった。ほとんどは、前にハルちゃんにきいた金額の半額以下だ。家族寮くらいの家賃のところもたくさんある。
 見ているうちに、やっぱりバルセロナ市内がいいや、大学の寮にしなくてかえってよかったかもしれない、と楽天的な気分になってきた。
  
 翌日、事情を話すと、留学生課の年配の女性は言った。
「バルセロナ市内は、アパートをさがすのも小学校をさがすのも難しいわよ。その点、ここサルダニョーラなら大学に近いし、アパートは安くてさがしやすい。バルセロナだと、たとえ家が見つかっても、遠くの小学校に通わせなくてはならない可能性があるけれど、サルダニョーラなら、きっと歩いていける小学校が見つかるわ。サルダニョーラにしたらどう? 子どもと住むならそのほうがいいわよ」
 まったく予想していなかった展開だった。寮でなければバルセロナ市内と、勝手に決めつけていたからだ。
 どうしよう。自治大のあるベリャテラは、サルダニョーラ市の一部だというが、サルダニョーラという名前自体、それまで聞いたこともなかった。子どもとならそのほうがいいって、本当だろうか。
 でも、きっとそうなんだ。ずっと学生の世話をしてきたこの人が言うのだもの。私一人の力であたっても、この旅行中に家は決められないだろう。ここで忠告をきいて、ともかく落ち着き先を決めておくのが得策かもしれない。9月に子どもを連れて来てから家をさがすのは、おそらく不可能だ。大学までバスで15分くらいだというし、カタルーニャ広場から国鉄で20分ほどだというから、バルセロナに出るのもそんなに不便ではない。どうしてもいやなら、あとで引っ越しという手もある。1分くらいの間に、そんなことを思いめぐらした。
「あさってには日本に帰らなければならないので、それまでに決められるなら決めたいんですけれどどうしたらいいですか」
 サルダニョーラにしようと決断して、私はたずねた。
「不動産屋に物件があるかどうか電話してみましょう」
 係の女性は、「寝室はいくつ?」「家具付? 家具なし?」と途中で条件を確認しながら不動産屋に電話で問い合わせてくれた。すると、4つ寝室のある家具つきのアパートが3軒あるので、その日の午後案内してくれるという。しかも、値段をきいてびっくり。高いところで月8万7千ペセタ。安いところだと6万8千ペセタ。あのキャンパスの寮よりも、ラ・バングアルディア紙で見た市内の物件よりもずっと安い。
 サルダニョーラという町と大学とバルセロナの位置関係さえわからないまま、教えられた大学内の停留所からバスでサルダニョーラに向かった。運転手さんにたずねて、サルダニョーラの役場前の停留所でおろしてもらい、留学生課でもらった地図だけをたよりに、約束の地点に午後4時半に行った。

 不動産屋の人は、私と同年輩のパート社員ふうの女の人だった。電話では3軒と言ったけれど、1軒はもう決まってしまって見せられるところは2軒しかない、と言ってから、車に乗せられた。客を案内する仕事の割には口数が少ないが、いやな感じはしなかった。短い丈のTシャツの下からは、細いとは言えないウェストとおへそがのぞいている。こんなくだけた服でお客さんを案内するのも国柄かしら。車で案内してくれるとは親切だなあと思ったのだが、これは留学生課で紹介してもらったからだったようだ。
 1軒目は、日本の団地のようなアパートだった。7階か8階にあったアパートは、寮よりはよさそうだったけれど、ぴんとこなかった。全体にほこりっぽく、子どもが落ちてもふしぎでないくらいベランダの手すりが低いのが気になった。
「どう?」と聞かれて、こんなときどんなふうに答えればいいんだろうと口ごもっていると、「まあ、いいわ。次のを見てから考えて」と言われた。
 そして、2軒目。大家さんがくるはずだからと、アパートわきの植え込みの縁石に座って待つこと10分。鍵を持って大家さんが現れた。30前後の、めがねをかけた、色白でふっくらとした顔だちの、感じのいい女の人だった。
「まだ男の子たちがいるんだけど、7月ちゅうには出ていくことになっているし、ことわってあるから自由に見てちょうだい」といって、案内されたのは、6階建てのアパートの2階。室内を見て、私はひと目で「これだ!」と思った。
 家族寮のよりずっとしっかりしていそうな居間の家具。壁はやわらかい色のペンキが塗られ、どの部屋にも勉強机と本棚、ベッド、たんすがそなえつけてある。今使っている男の子が貼ったのだろう。奥の部屋の壁のドラゴンボールのポスターを見て、気持ちがなごんだ。台所も使いやすそうだ。洗濯機も冷蔵庫も新しいし、食器も鍋釜もひととおりついている。何よりも、全体にこぎれいな感じがする。まわりにはお店も病院も学校もあるという。これで家賃が7万5千ペセタ(当時の相場で約5万円)なら、寮のテラスハウスより格段にいい。
 もうひとつ気に入ったのは、街の雰囲気だった。10階だてくらいのアパートが建ち並ぶ間に、ちょっとした遊び場や木立があるようすは、今住んでいる場所と雰囲気が似ていた。生活観のある街だ。子どもをひとりで歩かせられないときく市内より、こういうところのほうが、確かに子どもには住みやすいかもしれない。
 よし、決めた!
 こんなにすぐ決めていいものだろうか。でも、決断のしどきだと思った。
 予約の手続きは簡単だった。手付けとして1ヶ月分のお金を置いていけば、9月に正式な契約をするまで、それまでの家賃は払わなくてもとっておいてくれるとのこと。外国人というとアパートも借りられない日本を思うと、パスポートと大学の紹介だけで、あっさりと外国人にアパートを貸してくれることだけで驚きだった。
 手付け金の領収書と予約を証明する書類をもらい、とりあえず家の問題がかたづいた。だまされてたらどうしようという疑いが、ちらっと頭をよぎったけれど、留学生課経由だから信じてしまうことにした。これで9月にくれば家はあるはず。
 大きな課題が思わぬ方向で解決し、再び希望がわいてきた。

2015年7月19日日曜日

家族寮の夢やぶれ

バルセロナの日々(8)


 次なる懸案は住むところだ。私たちは、母子4人プラス1名が住める家を確保する必要があった。
なぜプラス1? それは、ハルちゃんがいたからだ。
 ハルちゃんは、卒論の資料提供が縁で知り合った大学の後輩だった。私よりひと回り以上若かったが、バルセロナ好きと児童文学という共通項で親しくなり、1997年のスペイン旅行に同行してくれた仲でもあった。
 行き先をバルセロナと決めたとき、すぐさまハルちゃんのことが頭に浮かんだ。ちょうどその頃、ハルちゃんはバルセロナに留学していたからだ。
 1年滞在を延ばして、いっしょに住んでもらえないかな。
 ふいに、そんな考えが浮かんだ。
 同居してもらえたら、どんなに心強いだろう。共同で借りれば家賃も安くあがる。ハルちゃんも、もう少し勉強したいと思っているかもしれない。
 そんな突拍子もない思いつきだったが、人生のタイミングというものだろうか。ハルちゃんはすぐにオーケーしてくれた。ありがたかった。「母子4人じゃないんです。前から留学している後輩もいっしょなんです」という説明は、留学をめぐる周囲の奇異の目からの緩衝材にもなった。
 もっとも、ストレスいっぱいの不安定な母子に1年つきあわされたハルちゃんはたまったものではなかっただろう、と今になってつくづく思う。これについては、後であらためて書きたい。

 バルセロナ市内に下宿していたハルちゃんは、6月の一時帰国したが、それまでにバルセロナのアパートのことを調べてくれた。けれども、ハルちゃんの友だちで、子連れでバルセロナにきているという人が借りていたアパートの家賃は、私の奨学金の3倍、とても手が出なかった。その地区は、ペドラルベスという高級住宅街だとあとで知ったが、その時は、バルセロナはどこもそんな値段なのかしらと、暗澹とした気分になった。
 旅行者として行ったことしかない私には、バルセロナの住宅事情も土地事情も見当がつかなかった。
 そんなとき、自治大学のキャンパス内に家族寮があるという情報をもらった。インターネットで調べると、家賃105,000ペセタ。4LDKの3階建てのテラスハウスだった。家具つきなので、冷蔵庫や洗濯機といった家電製品や食器もついていてすぐ住める。よさそうだ。
 ただし、問題がひとつあった。子どもの学校だ。コロメール教授によれば、キャンパス内にも公立の小学校があるが、空きがないらしかった。「空きがない」とは、いったいどういうことだろう。住んでいる地域で自動的に学校が決まる、日本の公立小学校の制度からすると、わけがわからない言葉だった。公立の学校でも定員があるのだろうか。学校のことは、住宅事情以上に不明なことだらけだった。
 ともかく、7月の旅行で家族寮の見てみよう、そのうえで、子どもの学校のことや市内のアパートのことを留学生課の人にきいてみようと決心した。

 家族寮は大学のキャンパス内、カタルーニャ鉄道の駅を降りて、教育学部とは反対方向に行ったところにあった。
 駅から上り坂を歩くこと10分あまり。両脇に夏草がぼうぼうしげり、じりじりと夏の太陽が照りつける片側一車線の道だ。たちまち喉がカラカラになった。これが本当に大学の中かと疑いたくなる。寮の事務局まで、歩いている人とはひとりも出会わなかった。
 寮の事務局は、キャンパスの端っこにあるホテルの隣にあった。アポイントメントをとっていた係の女の子が、さっそく連れていってくれたのは、事務所から駅のほうへ少し戻ったところにあるテラスハウスだった。7,8軒の家が連なった箱のような建物。女の子は、左から2軒目の家の鍵をあけた。
 中に入れてもらって愕然とした。
 確かに家具つきの4LDKだ。でも、ついている家具といったら、まるでベニヤをはりつけたみたいなしろものだし、壁も床もコンクリがむきだしだ。とても素足ではたえられそうにない。この殺風景なコンクリートの箱を子どもたちがほっとできる空間にできるだろうか。カーペットを敷いたり、壁に何か貼ったり、かなり手を入れないといけないなと直観的に思った。
 それに、まわりにお店もない。こんなところで、どうやって家族4人の胃袋を満たすだけの買い物をできるだろう。女の子に思わずたずねた。
「みなさん買い物はどうしているんですか」
「車ですぐのところにスーパーがありますから」
「でも、私、車を持つつもりはないんです……」
 案内の女の子は黙りこんだ。
 それに、10軒たらずのテラスハウスで、子どもたちの友だちが見つかるだろうか。こんなさびしいところで、どうやって暮らしていけるだろう。
 ここじゃだめ。絶対にだめ。
 家がすごく快適なら、思いきってここに決めて、子どもの学校の問題はあとで解決することも考えられる。でも、快適でもないのに、不便さを我慢しながら、わざわざここに住むことはない。
 家族寮に住むという考えは、私の中で完全に消えた。
 仕方がない。留学生課の人と相談してから考えよう。
 留学生課の人には、その翌日、会うことになっていた。どうかいい展開になりますように、と祈るような気持ちだった。

2015年7月3日金曜日

翻訳は難しい

昨夜は、セルバンテス文化センターで、柳原孝敦さんの講演「翻訳は難しい」を聞いてきました。

先日、私自身も、3名の児童文学翻訳者とのイベントをジュンク堂池袋本店でしましたが、翻訳の話というと、自分でもよく足を運びます。最近では、〈ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界〉のトークイベントや、ラカグであった、酒井順子×中島京子×鴻巣友季子「すべての女はスカーレット・オハラである~『風と共に去りぬ』に愛あるツッコミを入れる~」 も行ってきました。

柳原さんのお話も、例にもれずおもしろく聞きました。
セサル・アイラのCómo me hice monjaのことも、¿Querés c...? のことも、La Nación の記事のタイトルや最後の呼びかけのこと、ボラーニョの通話のbueno・・・

そういった微細な事柄をどう日本語にしていくかという話を聞いて、やはり翻訳家というのは、日本語力が必要なんだなと思った方も多いと思いますが、私は同時に、前提になっているのは外国語の読解力だな~、と思いました。

小説家は、物語の中のちょっとした言葉にも、何かのニュアンスや示唆、時代の空気や人物像の雰囲気などを負わせていますが、ひととおり文法を終えただけの読解力だと、なかなかそういった個性までたどりつけません。読書の経験値が必要です。
翻訳の過程で、よくネイティブに確認することがありますが、その疑問が、「単純に自分がスペイン語をわかっていないのか、それとも、この作家のスタイルの問題か、はたまた、この登場人物の発話ゆえか」が、大いに問題であることもしばしば。
読みによって、翻訳者は鍛えられます。
意識的な読書は、翻訳者にとって筋トレですね。だからといって、読書の愉しみが減るわけではなく、「そうか!」と気づいて、ひとりニンマリしながらのトレーニングです。

最終的には、翻訳者の裁量で日本語となって伝えられていくのが、おもしろくもあり、おそろしくもあり。
柳原さんのお話は、学者としてのアプローチに加え、多数の翻訳の経験からくる、やや職人的な実感もこもっているようで、興味深かったです。

2015年7月1日水曜日

テレサ・コロメール教授

バルセロナの日々(7) 

 奨学金の面接が終わった頃、ふと、ある考えが浮かんだ。奨学金の結果を待たず、7月に一度、バルセロナに行ったほうがよいのではないだろうか。
 テレサ・コロメール教授に一度会っておきたい。
 初めの手紙から、トントン拍子で入学許可証なるものをもらった。だけど、それだけで本当に大学院に入れるのだろうか。とても不安だった。いざ行ってみたら、入学できないなんてことになったら目もあてられない。
 住むところや子どもの学校のことも、できればはっきりさせておきたかった。
 コロメール教授にメールを書くと、「それはいい。その頃なら大学にいるからいらっしゃい」と、すぐさま返事がきた。
 さっそく私は、旅行の計画をたて始めた。コロメール教授との面会、学生ビザ取得のための書類の入手、大学院入学の確認、住むところの確保、子どもの学校の手続きの確認。4日間の日程はすぐにいっぱいになった。
  
 バルセロナ自治大学は、バルセロナ市の北にそびえる山並みの向こう、市内からカタルーニャ鉄道で30分ほど郊外に出た、ベリャテラというところにある。きれいな地名だ。ベリャテラは、カタルーニャ語で「美しい土地」の意味だ。
 鉄道の起点はカタルーニャ広場。1999年の7月初旬、はじめて鉄道にのった。市の北端にあるサリア駅の先まで15分くらい地下を走ってから、電車は夏の光の下に出た。と、次の瞬間、朝顔に似た群青の花の群生が目に飛び込んできた。暗やみに慣れた目に、花の色がまぶしい。花の青と空の青、輝く陽射しと、両側からいきなりせまってきた山の緑の風景は、どことなく、つれあいの実家に行くときに乗る近鉄吉野線を思い出させた。
 カタルーニャ広場から15分で、こんな場所があったなんて。思いがけないぶん、印象が鮮烈だった。そんな山も、サンクガット駅に着くころには途切れる。土地が平坦になり、まもなく大学駅に着いた。
 
 キャンパスは、なだらかな丘陵のようなところに広がっていた。駅南側のプラサ・シビカを中心に、学部の建物が点々とある。ちょっとはずれると、これが大学の中かと目を疑うような草むらや森があった。
 電車を降り、教育学部はどっちだろうときょろきょろしている間に、一緒に降りた人たちはいなくなっていた。試験の時期を過ぎた夏のキャンパスは閑散としている。「駅からは、人に聞けばすぐわかる」と言われていたものの、聞く人もいない。プリントアウトしておいた構内図を手に、教育学部の建物にたどりついたときには、暑さと焦りでぐっしょりと汗をかいていた。
 研究室をようやくさぐりあてノックをし、返事がないけれど思い切ってドアをあけた。電話中の女性が振り向き、手をひらひら振ってにっこりした。金髪のストレートのショート。雑誌の写真で見たよりも髪が短いけれど、コロメール教授だとわかった。
 白いパリっとした木綿のブラウスに、オフホワイトの綿パン、素足に白いデッキシューズ。青い目。40代半ばか。知的でさっそうとした印象だ。
 電話が終わると、
――アル フィンAl fin.
 と言って、教授が満面の笑みでこちらにやってきて、あいさつのキスをしてくれた。「とうとう会えたわね」ということかなと、うれしくなって私もほほえんだ。
 教授は、大学院の講義のこと、単位の取り方のこと、カタルーニャ語の語学コースのこと、子どもの学校のこと、アパートさがしのこと、ビザ申請のための書類のことを、ちまちまとした字でメモをとりながら説明してくれた。
「本当に来ていいんですか」などと聞くのは野暮だった。2ヶ月後に当然私がくるものとして、話は進んでいった。教授は、事務的なことは不得手のようだったし、細々と世話をやくタイプではなさそうだった。でも、遠方から自分のところに子連れでくるという、東洋人の女性の勉学を支えてやろうという誠実さが感じられた。
 壁には、絵本のポスターが貼られ、書棚にはなじみのある児童文学関係の本が並んでいる。
 ここは共通の言葉がある場所だ。ここなら勉強できる、という思いがわいてきた。

「がんばって!」という声に送られて、短い対面を終えて研究室のドアをしめたとき、緊張のあとの脱力でふぬけのようになった私の胸に、留学がようやく実感となって迫ってきた。
 来ていいんだ!
 その数ヶ月後、自分がどんな苦戦を強いられるかなど夢にも思わず、喜びをかみしめた。

2015年6月9日火曜日

 Contarで始まりContarで終わる

バルセロナの日々(6)

 4月を10日ほどすぎたころ、スペイン大使館から電話が来た。
「書類審査を通過しましたので、20日の午前10時20分に大使館においでください」
 日本人の女性職員が事務的に告げた。
 やったー! 面接に行ける! 
 面接官は何人だろう。話がききとれるだろうか。ちゃんとこたえられるだろうか。不安が押し寄せてきた。でも、今さらじたばたしても始まらない。今のままの自分でぶつかるしかないと、腹をくくった。
 当日は、お気に入りの服で気持ちをもりたてた。水色のハイネックと、花をあしらった紺系の長めのスカートに、丈の短い黒いジャケット。誕生石のトルコ石が揺れるピアスをぶらさげ、若い頃、気合いを入れたいときに愛用していたシャネルの十一番の口紅をひいた。
 早めに神谷町に行き、駅のそばのドトールで一息いれる。オフィス街をいきかう人々をながめながら、今この中でいちばんドキドキしているのは私かもしれないと思った。
 大使館の一階のサロンで待っていると、指定の時間を過ぎたころ、40前後の頭部のややうすい男性が階段をおりてきた。この人が面接官だろうか? 二階の事務室に案内され、真ん中に置いてあるいすにすすめられるままにすわると、その人はいきなり言った。
―クエンタCuenta.
えっ? 何を言われたのか、とっさに判断できなかった。数えろ? 動詞contarには、「数える」「話す」の意味がある。でも、数えろなんてへん。じゃあ、話せっていうこと? 
「書類を読んだけれど、何をしたいのかもう一度説明してくれますか?」
 助け船をだしてもらって、面接官はその人だけなのだとわかった。
 児童文学の作品を通して、おさない日本の読者が、ステレオタイプに陥らないスペイン人の姿を知ることは、真の国際理解に役立つことだ。すぐれたスペインの作品を日本に紹介していくため、ぜひともスペインで学びたいという、計画書の趣旨をどうにかこうにか説明する。面接官が言った。
「よくわかった。私はとてもいいと思う。やりたいことがはっきりしているし、計画もしっかりしている。ただし、ふたつ問題がある。一つはスペイン語の能力を証明する書類がないこと。つまり、スペイン外務省は、せっかく奨学金を与えた人間が、スペイン語ができないために勉強が続けられなくなるのをおそれている。もう一つは、年齢がややオーバーしていること。30歳で年とっている人もいれば、50歳で若々しい人もいるのだから、私は年齢制限などばからしいと思うし、何で『36歳』と定めたかも不明だ。だけど、本国の審査員の中には気にする者もいる。この面接のあと、世界各国から集まった書類が本国で審査される。あなたのやろうとしていることは、とても意義があると私は思う。私はおすよ」
 喜びがわきあがってきた。だいじょうぶかもしれない。空気がいきなりやわらいだ。
「そのピアスはインディアンのかい?」
 トルコ石のぶらさがったピアスは、確かにネイティブアメリカンふうのアクセサリーだった。
「いえ、トルコ石は私の誕生石なので縁起をかついでつけてきたんです」
 関係ない話をしてるけど、何気なく私のスペイン語力を確かめてるんだろうなと思いながら、私はもうひとつのことを考えていた。話ついでだ。あれを言ってしまおうか? やっぱりやめておこうか。でも、このぶんなら言ってもだいじょうぶかも……。
 ずっと心にひっかかっていた言葉を、私ははきだした。
「実は私、ひとりで行くんじゃないんです。子どもを連れていこうと思っているんです。3人」
「子連れ」と言ったら不利になるかもしれないと、書類では一切触れなかった。でも、言っておいたほうがいいんじゃないかと、ずっと迷ってきたことだった。
 面接官はあっさり言った。
「それはいい。子どものときから異文化を知るのはとてもいいことだ。私も子どもをこちらの学校にかよわせている。そんな子が大人になったとき両国の架け橋となっていく。子どもがいっしょなら、いっそう価値がある。どうして書類にそう書かなかったの?」
 なごやかに面接は終わった。ドアまで送ってくれたとき、面接官が言った。
―Cuenta conmigo.
 動詞contar+con+人。人を当てにする。つまり、「まかしとけ」!
 うれしさがこみあげてきた。やるだけやった。地下鉄駅までの帰り道、春の陽射しが気持ちよかった。

 そして7月26日。スペインから通知が届いた。ちょっとお使いに行こうとした出がけに郵便受けを開けると、スペイン外務省から封筒が来ていた。待ちきれず、びりびりと封をあけた。お役所ことばのかしこまった手紙。でも、かんじんな文字はすぐ目にとびこんできた。
「1999-2000年度 月額97,500ペセタの奨学金を授与する」
 ずうっともやもやしていた霧がぱあっーっと晴れ、いきなり視界が開けたような気分だった。これで勉強できる。勉強しなさいって、スペインの外務省が言ってくれたんだ。すみわたった夏空を見上げて、深呼吸をした。「わあーっ!」と叫ぶかわりに、マンションのエントランスの階段をダーッと駆けおりた。

2015年6月7日日曜日

ジュンク堂池袋本店1F フェア「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」始まりました!



ジュンク堂池袋本店1Fでのフェア「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」が、昨日6月6日に始まりました。
1階のエレベーター前に、こちらの写真のように並んでいます。







「世界の」と言っていますが、カバーしているのは以下の地域。

アフリカ大陸(さくまゆみこさん)
ドイツ語圏(那須田淳さん)
オランダ語圏(野坂悦子さん)
スペイン語圏(宇野和美)

地球儀の右上に、チラリと見えているのは、イソール作『うるわしのグリセルダひめ』。私が選んだスペイン語圏は、右奥の部分に並んでいます。

選者4人が集う6月20日(土)のイベントは、すでに満員御礼、キャンセル待ちですが、自分の選んだ本についてそれぞれが書いた解説をまとめた冊子も、もうじきできるはずです。
以下は、私の解説の冒頭部分です。
 スペイン語圏は、スペインと、中南米などの約20カ国に広がります。母語話者は4億人以上おり、1960年代からガルシア=マルケス、バルガス=リョサなど、ラテンアメリカの作家たちが世界文学に大きな影響を与えてきましたが、児童文学に関しては日本ではたいへんマイナーです。
 ここ10年の年間の刊行数を見ても、英語からの翻訳は毎年何百点もあるのに対して、スペイン語はひと桁という寂しい現実があります。スペイン語圏は日本人にとってなじみが薄く、欧米ほど興味を持たれないという傾向は根強くあるようです。
 でも、だからこそ読んでみてほしいもの。英米の子どもの本とはどこか異なる違和感、「ひっかかり」を含めて受けとめ、世界の広さ、多様性を感じてもらえたらと思います。外国のものと言っても、私たちは口当たりのよいものから手にとりがちですが、そうではないものも含めての多文化です。異質なる他者を通して、私たちは自分を知ることにもなります。ここに並べた本の中の「物語」が、新たな出会いのきっかけになれば嬉しいです。
ちょっときばっていますが、基本は、「翻訳児童文学、おもしろいのになあ」という気持ちです。この80冊あまりの本だけでも、たくさんの窓が開くことでしょう。

7月10日の午後4時までですので、お近くにいらしたらのぞいてみてください。
お待ちしています!


2015年5月30日土曜日

翻訳者が選ぶ世界の子どもの本

池袋のジュンク堂書店、1階エレベータ前の大きな平台で、来週後半からフェアが始まります。それに合わせて、6月20日(土)、選書をした4名で下記のトークをさせていただけることになりました。

もとはと言えば、昨秋、Maruzen&ジュンク堂書店梅田店で、ひこ・田中さんのお声がけで大きな棚をもらい、解説を書き、本を並べていただいたのが始まり。
「東京でも!」の声があがり、仕切りなおして、新たに選びなおした本でフェアとなりました。ジュンク堂さん、ありがとうございます!
トークは、まだお席があるようです。ご興味のある方、どうぞお出かけください。

「翻訳者が選ぶ世界の子どもの本」
ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年06月20日(土)19:30 ~  詳しくはこちら
入場料1000円。要予約。TEL 03-5956-6111。

さくま ゆみこ(翻訳家)
宇野 和美(翻訳家)
野坂 悦子(翻訳家)
那須田 淳(作家・翻訳家)

海外作家の本には、日本とは異なる価値観や視点があります。
とくに、自分ではなかなか「外」へ出られない子どもにとって、本は大切な「窓」にもなります。
この窓のむこうにある景色へ想像の翼を広げれば、違う世界を経験することができ、
解放され、本当の自分を見つけて成長していけるのです。閉塞感の増す今の日本の状況のなかで、
それぞれ別の専門言語を持つ4名が、世界の子どもの本をもっと読んでほしいと、思いを語ります。

★トークセッション終了後、サイン会あり。