2015年4月11日土曜日

バルセロナの日々(1)

到着!

 とうとう来てしまった。
 1999年9月7日。バルセロナはプラット空港におりたった私は、真夏のような日差しを受けて青空に映えるヤシの木をあおぎ、大きく息を吸いこんだ。3人はリュックをしょって、私によりそうように立っている。
 一番大きいのが長男のケンシ、小学4年生。3年間の学童保育生活のあと、少年野球チームに入り、自由な放課後を満喫していた遊びざかり。真ん中は長女アキコ、小学1年生。小学校にも慣れ、ピアノを習いはじめ、一輪車をおぼえたところ。一番チビは次男タイシ。夜はオムツパンツのお世話になっている、保育園の4歳児クラス。
 2年半にわたるバルセロナでの母子4人の暮らしの始まりだった。

 渡航の目的は留学だった。夫ではなく私が、10月から2年間、バルセロナ自治大学大学院に籍を置くことになったからだ。
「3人の子を連れ、夫を日本に残してスペインに留学」と言うと、渡航前も、滞在中も、帰国後も、たいがいの人が仰天した。無理もない。普段ほとんど子どもがらみで接している近所の母親層の目にも、私が3人の子持ちであることを知っている仕事関係の知人の目にも、私は留学の可能性から最も遠くにある人間だっただろうから。
 仰天の次には、各種のリアクションがあった。ポジティブなもの、ネガティブなもの、どんなものかは容易に想像がつくだろう。
 けれども、どんな反応があろうと、留学するという私の決心は変わらなかった。公表した時点で、心が揺らぐ段階をとっくに通り越していたからだ。
 学生じゃあるまいし、留学は、決まりもしないうちからだれかれとなく吹聴するような話題ではなかった。こういうことは、ひそかに準備を整え、ある程度決まってからまわりに言うというのが一般的だろう。とはいえ、いったん準備にかかれば自然と人とかかわるし、最低限の人にしか告げないつもりでも、だんだんと周囲に知れていく。実際、子持ちだとよけいに、隠したいのに言わざるをえない機会があるようだった。だから、「やっぱりやーめた!」とは次第に言いにくくなる。外の目を意識しつつ、ますますやっきになって実現のめどをつけようとする。そうして、ようやく人に話してもいいところまでこぎつけた。
 何を言われようと、今更という気持ちだった。気持ちが乱れこそすれ、やめようとは、口がさけても言う気にならなかった。
 やりたいこと、見たいこと、体験したいことが山のようにあった。
 当然不安もあった。同じくらい、いや、それ以上にあった。子どもたちはだいじょうぶなのか、そもそも自分たちは暮らしていけるのか、勉強は本当にできるのか、子どもも私もスペイン語を自由に話せるようになるのか、あげだしたらきりがなかった。
 でも、行こうと決めたときから、私には前進しかなかった。心配だ、心配だと言っていても始まらない。安心するにはどうすればよいかを考えて、外堀をかためていった。何かがうまくいかなかったとしても、それですべてが終わるわけじゃない。状況を見ながら、次々と出現する選択肢を選び選びここまできたし、これからもそうしていくつもりだった。
 もちろん、がんばってもどうにもならないことだってあるかもしれない。でも、そのときはそのときだ。がんばって、がんばって、本当にダメだと思ったら、日本に帰ろう。見極めの基準は子どもたち。子どもたちがスペインにいられないと見たら、いさぎよく日本に帰ろう。

 不安や迷いをはらいのけながら走りだし、勢いでころがりこむように来てしまったスペイン。
 子連れの海外生活は、若い留学生の自由さとも、紀行作家の気ままさとも無縁だった。飲みにも行くことも映画を見ることもほとんどなく、クラスメートとおしゃべりに興じる時間も思いどおりにならなかった。週末に観光名所を訪れる機会も、勉強の時間も限られていた。
 けれども、子どもは制約となる一方で、窓だった。「オンナ子ども」の私たちには、家庭と地域にぐっと開かれた暮らしがあった。企業というしがらみなしに、出会った人たちと個人と個人で向き合うことができた。子どもや母親たちの素顔、人々の生活ぶり、四季折々の味や楽しみ……、それは、翻訳に携わる私がいちばん見たかったものだった。
 帰国後、当時のことを書いてみてはと、冗談半分に声をかけてくれる友人がいた。けれども、子どもたちをだしにするようで抵抗があった。ところが、ほとぼりがさめるにつれ、気が変わってきた。当時のことをずんずん忘れていく子どもたちを見ているうちに、言葉にして残しておきたいという気持ちがむくむくと頭をもたげてきたのだ。どうしてバルセロナに向かったのか、バルセロナで私たちはどんなふうに暮らし、何を見て、何を思い、何を感じてきたのか。
 記憶の中で、そこだけ陽光に包まれているような2年半。朝、ベッドで目覚めたとき、「ここはバルセロナなんだ」と思うと、それだけで元気が出たキラキラとした日々のことを、思いだしながら綴っていこうと思う。

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